【十八】
高く澄み渡った秋の空が、都の天井に広がっている。昼間は汗ばむ陽気だが、太陽の高度は、かなり下がった。街路に金木犀の香りが漂いはじめるのも、もうすぐだろう。
眠気を誘う昼下がりの雑踏の中、千景は都の船着き場で、渡し船を待っている。修理を終えた天体望遠鏡を
船頭に雇われた空人たちが、客の荷物を積み込んでいく。
重い荷を背負わされても、
「葛きりを、ふたつ」
凛と耳を掠めた声に、千景は伏せていた顔を上げた。空耳だろうかと、己を疑った。あまりにも自分に都合の良い幻聴ではないか、と。だが、その声は確かに耳を震わせ、巧みに色を変えながらも、隠されることのない澄んだ響きを宿していた。
船頭の笛の音が、出立の
桟橋を進む人の流れに逆らって、千景は雑踏の波間に視線を巡らす。声を探して、影を求めて。
奇跡を起こせる神など、もういないはずなのに。
船着き場の後ろ、街路にひしめく屋台のひとつに、すらりとした二人の少年の背中を見つけた。
「黒蜜と白蜜、どっちが良いかい?」
甘味の屋台だった。器を手に、店主が左側の少年に尋ねる。少年は微動だにせず、ただ立ち尽くしている。右側の少年が彼の肩を抱き、小首をかたむけて店主を見上げる。
「黒蜜にしてやって。俺は白蜜で」
「あいよ。……そうか、そっちの子は、空人だね?」
空人になれば、判断を感情に左右されることがなくなる。それはつまり、「好き」、「嫌い」という感情に基づく選択ができなくなるということだ。右側の少年は、左側の彼が好きだったものを憶えているのだろう。
「おまちどうさん」
「ありがと」
少し前まではありふれたやりとりだったはずの、それは、今では旧時代的な会話とされるものだ。個人の屋台はまだ
無表情に行き交う人々の波間の向こうで、右側の少年が、左側の少年の手を引いた。遠ざかる華奢な背。人波を抜け、彼らは都の門へと続く道を歩いていく。
「行こう、リク」
吹き抜ける風に、声がとける。雲間から射す薄日のように優しく、荒れた熱を鎮める真夏の夕さりのように切なく。
「っ、玲――」
呼ぶ声を、最後まで奏でることができなかった。紡ぐ言葉は放たれることなく喉の奥に
けれど、その欠片は、星屑のように瞬いて、少年の足を、刹那、引き留めた。
雑踏の
微笑をとかした透きとおった声が、花弁のように風に舞う。
――いきなよ。
それは、
行きなよ、だったのか。
生きなよ、だったのか。
問えないまま。
聴けないまま。
彼らの残像は、季節外れの陽炎のように、ゆらりと
空人ノ國 ソラノリル @frosty_wing
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。