【十八】

 高く澄み渡った秋の空が、都の天井に広がっている。昼間は汗ばむ陽気だが、太陽の高度は、かなり下がった。街路に金木犀の香りが漂いはじめるのも、もうすぐだろう。

 眠気を誘う昼下がりの雑踏の中、千景は都の船着き場で、渡し船を待っている。修理を終えた天体望遠鏡をかつぎ、七日間の旅程で、この国の南端の岬で望める月蝕を観測しに行くのだ。

 船頭に雇われた空人たちが、客の荷物を積み込んでいく。

 重い荷を背負わされても、いささかも表情をゆがめることなく。

 政宮まつりのみやは、先月、いくつかの職種において、雇い主に対し、雇い人に《ハクカ》を服用させてから仕事に当たらせるよう義務付けた。精神的、身体的苦痛を感じる状態で特定の職務に就かせるのは虐待に等しいという通達だった。拒む者には不敬罪が科せられた。法の適用を受ける職務の範囲は徐々に拡大され、空人の数は日々増え続けている。新時代の幕開けだと政宮はうたう。

「葛きりを、ふたつ」

 凛と耳を掠めた声に、千景は伏せていた顔を上げた。空耳だろうかと、己を疑った。あまりにも自分に都合の良い幻聴ではないか、と。だが、その声は確かに耳を震わせ、巧みに色を変えながらも、隠されることのない澄んだ響きを宿していた。

 船頭の笛の音が、出立のときを告げる。

 桟橋を進む人の流れに逆らって、千景は雑踏の波間に視線を巡らす。声を探して、影を求めて。

 奇跡を起こせる神など、もういないはずなのに。

 船着き場の後ろ、街路にひしめく屋台のひとつに、すらりとした二人の少年の背中を見つけた。つばの広い帽子を被り、揃いの袴を穿いている。

「黒蜜と白蜜、どっちが良いかい?」

 甘味の屋台だった。器を手に、店主が左側の少年に尋ねる。少年は微動だにせず、ただ立ち尽くしている。右側の少年が彼の肩を抱き、小首をかたむけて店主を見上げる。

「黒蜜にしてやって。俺は白蜜で」

「あいよ。……そうか、そっちの子は、空人だね?」

 空人になれば、判断を感情に左右されることがなくなる。それはつまり、「好き」、「嫌い」という感情に基づく選択ができなくなるということだ。右側の少年は、左側の彼が好きだったものを憶えているのだろう。

「おまちどうさん」

「ありがと」

 少し前まではありふれたやりとりだったはずの、それは、今では旧時代的な会話とされるものだ。個人の屋台はまだまぬがれているが、大手の飯屋は、既に《ハクカ》の統制下にある。無駄なく整えられ、効率化された科白が、想定される場面ごとに分類され、当て嵌められていく。抑揚のない空人たちの声が、それを淡々と読み上げていく。善人にも、悪人にも、分け隔てなく平等に、公平に。

 無表情に行き交う人々の波間の向こうで、右側の少年が、左側の少年の手を引いた。遠ざかる華奢な背。人波を抜け、彼らは都の門へと続く道を歩いていく。

「行こう、リク」

 吹き抜ける風に、声がとける。雲間から射す薄日のように優しく、荒れた熱を鎮める真夏の夕さりのように切なく。

「っ、玲――」

 呼ぶ声を、最後まで奏でることができなかった。紡ぐ言葉は放たれることなく喉の奥にち、ほどけ、ついえていった。

 けれど、その欠片は、星屑のように瞬いて、少年の足を、刹那、引き留めた。

 雑踏のみぎわで、白い頬が、かすかに振り返る。

 微笑をとかした透きとおった声が、花弁のように風に舞う。


――いきなよ。


 それは、

 行きなよ、だったのか。

 生きなよ、だったのか。


 問えないまま。

 聴けないまま。


 彼らの残像は、季節外れの陽炎のように、ゆらりとかすんで、儚く消えた。


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空人ノ國 ソラノリル @frosty_wing

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