【十七】

 くゆる紫煙が、夜風の指先に絡みつき、綾を描いて流れていく。静まり返った屯所。木々の葉音が、さやさやと静寂しじまを撫ぜ、物寂しさを際立たせている。

 幽の下にいた者たちは、任を解かれ、皆、去っていった。ここにいても、もう未来はないのだ。

「どうするの? これから」

 縁側に座すライドウの背中に、リクは問いかける。

 そうだな、とライドウは煙管きせるを吹かし、振り返って口の端を笑みのかたちに引き上げた。

「似たような仕事なら、つてはいくらでもあるからな」

 一緒に来るか? とライドウは尋ねた。リクは微かに笑みを浮かべて、首を横に振る。そうか、とライドウも煙を吐き出し、リクを見上げて苦く笑った。

「レイにも訊いたが、あいつも、おまえと同じ答えだったよ」

 ひんやりとした夜風が頬を掠めた。ゆらり、と紫煙の綾が霧散する。

 くりやからは、いつもと変わらない夕餉ゆうげの匂いが漂っている。《御霊送りの儀》から〝流用〟されて使われていた空人たちだ。未だ《ハクカ》の効力の下、絡繰からくり人形のように、定められた日常――《ハクカ》の製造を続けている。記録の上では死んだことになっている彼らは、このまま政宮まつりのみやの管理下に置かれるのだろうか。

「あの人の願いを、叶えてはあげないの?」

「叶えない罪も背負うんだろ、幽は」

 かつん、と煙管を叩き、ライドウは腰を上げた。行くの? とリクは呟く。ああ、とライドウは短く答える。

「ありがとう。僕たちに、生きるすべを教えてくれて」

 ライドウを見上げ、リクは告げる。言葉の代わりに、ライドウはリクの頭に手を置いた。リクは微笑む。言葉を、喉の奥に押し殺して。

 あなたが僕たちの父親ならよかった。





 真白の月の光が、辺りを塗り潰す夜闇の墨を薄めていた。南の空には、皓々こうこうと照る天満月あまみつつき。けれど、その輝きは、もう《魂結》を命じることはない。

 障子を開け放ち、レイは茶器を手に座った。夜空にまたたく幾千の星。千景の教えてくれた星座を、目を細めてなぞっていく。

「リク」

 縁側を歩く控えめな足音に、レイは振り返って、ちいさく笑った。

「俺たちも、そろそろとう」

 部屋の隅には、既に荷物がまとめてある。その気になれば身ひとつでも出ていけるくらいだ。持ち物は多くない。

「レイ」

 縁側に佇んだまま、リクは微かに笑みをひらいた。

 天満月の光を背に受けて。

「僕は、行かない」

 静かに、言葉が、放たれる。つとめて穏やかに、抑えた声で。

「僕は、ここに残って、受けるべき罰を受けるよ」

 十歳の夜に、裁かれるべきだった、罪を。

「自分のかみさまからは、逃れられないんだ」

 微笑む。淡く、儚く。擦り切れ、ほころびた、つくろいきれないいたみを滲ませて。

「……そう」

 レイの白い手が、リクに向かって掲げられる。指先には、透きとおった玻璃の器。

「別れのさかずきだ」

 受けてよ、リク。

 ふ、と微笑む。白い笑顔が、リクの瞳に映り込む。頷き、リクはレイの隣に座った。両手で受け取り、静かに飲み干す。

「随分と苦い酒だね」

「うん。これは特別」

「特別?」

 何が――と、言いかけた科白は、途中で切れた。リクの喉から、ひう、と引き攣れた風音が立つ。指先から滑り落ちた器が畳に転がる。

「……レ、イ……?」

 なぜ、と見ひらかれた瞳が、レイを映そうとして、焦点を定められずに揺らぎ、惑う。

「ごめん、リク」

 おまえを、かみさまになんか渡さない。

 力を失い倒れ込むリクの体を、レイの腕が抱きとめる。

 微かに痙攣するリクの手が、レイの衣を掴む。

「……僕……に……ハク……カ……を…………?」

 苦しげに喘ぐ声が、月の影に滴る。

 レイは微笑んだ。砕けた玻璃のように、透明に。

「致死量だと、さすがに副作用も、きついね。でも、すぐにおさまるはずだよ。体の致死量じゃないから」

 淡々と、レイは告げる。薄い唇を綻ばせて。月の光の瞳を細めて。

 どこまでも、綺麗なまま。

「おまえの心が、おまえを殺すなら、俺が、そいつを殺してやるよ」

 おまえの中にある、俺という、かみさまも。

「……どうし……て…………?」

 闇夜の瞳に、光の雫が揺れる。きらきらと、彗星のように、輝く糸をひいて、頬を伝って。

「……ぼく、は……」

 願って、

 祈って、

 希って、

「……らく、に……なっても……いい、の…………?」

 ゆるしても、いいの?

 ゆるされて、いいの?

 父さんを。

 僕を。

 心を。

 命を。

「レイ」

 僕は。


 きみと一緒に、生きていいの?


「リク」

 抱きしめる。強く、つよく。重なる胸。ことことと、リクの音色が流れ込む。体に《ハクカ》を巡らす音。これでいい。レイは夢想する。リクの中に、白い花がひらくさまを。雪がすべての音もいろも覆い尽くすように、この心を、まっさらな白に、鎮めてくれ。罪を吸って、罰をんで、白く、しろく、咲き誇ってくれ。

「おまえは、俺を、綺麗だと、言ったけど」

 どうして、おまえの前で、綺麗でいられたのだと、思う?

「……れい……」


――れい


「やっぱり……きみは……ぼく、の…………」

 リクの瞳から、表情が消えていく。鎮められた感情。心がゆっくりと眠りについていく。滅んでいく。

 リクのまなざしに宿っていた、養父かみさまの面影も、一緒に。

(さよなら、俺のかみさま)


(さよなら)


――りく


 考えてみたんだ。千景が俺に教えてくれたように、おまえの名前にあてた意味を。

(俺は……)


「信じて……いたかったんだ……」


 憎しみに焼かれた土でも、

 かなしみの種をいて、涙を注いだら、

 優しさが芽吹くんだって。

 愛しさが咲くんだって。


――だから、リク。


 俺の心を、おまえにうずめる。

 おまえが綺麗だと言った、この体のすべてで、

 見て、聴いて、味わって、

 感じたことの、ひとつひとつから、

 優しい種だけ、取り出して、

 捧げるよ、おまえに。


 そうして、いつか、おまえの中に、

 もう二度とおまえを苦しめない心が芽吹いたら、

 今度こそ一緒に、あの山を越えよう。

 神様のいない、この国から、

 かみさまの生まれない、ふたりだけの場所へ。


 痛みも、

 傷みも、

 悼みも、

 ない、


 心を愛せる、優しいくにへ。


 いつか、笑って。

 きっと、わらって。


 心から、生きて。


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