【十六】

 ひぐらしの声が僅かに残る黄昏の社。夕陽は山のを黒く塗り潰す茜を残すばかりで、裾野は早くも夜の闇に染まりはじめている。

 ひとけのない勾欄こうらんの一角。

 ひさしの影の下、小柄な影が、ふたつ佇む。

「幽」

 袖の影で、紅葩は、ぎゅっとこぶしを握った。

「ライドウたちの任を解いたって……」

「ええ。明日の朝、私は裁宮さばきのみやおもむくつもりです」

 弟を殺した兄として。

「私に……あなたの首をねろというの……?」

 零れ落ちる、紅葩の声が震えた。唇を噛みしめて、紅葩は俯く。

 ふ、と幽のまなざしが和らいだ。

「かつてない大掛かりな《浄罪の儀》となるでしょう。酷な役目を担わせて、申し訳ありません」

「そんなことを言っているんじゃ……」

「紅葩」

 幽が穏やかに遮る。湖水のように凪いだ微笑を湛えたまま。

「遅かれ早かれ、政宮の大臣は、あちら側に都合の良い無実の罪を私に着せようとしていた……その目論見もくろみは叶わなくなりましたが、彼らは私の大罪を足掛かりに、社を乗っ取りにかかるでしょう。そうなれば、社は形骸化する。私たちの望むところです」

「……私も、罰を受けられる?」

 気丈さを保とうと張りつめた声が、弦のように震える。

 微笑を崩さずに、幽は首を横に振った。

「いいえ、紅葩、あなたは違う」

 この国の信仰は、まだついえていない。

「民の信仰が、あなたを守る」

 この国の神が、あなたを生かす。

「人々の罪を浄める巫女を、裁ける者など、誰もいません」

「……そんな……」

 それは、なんて皮肉だろう。

「あなたは、見届けてください。政宮は、《ハクカ》をいくさに使うでしょう。使いたければ使えば良い。《ハクカ》が国中に広まるなら本望です。それに、他国との戦となれば、顕学の台頭は必至……神の呪縛からの解放は目前です」

「幽」

「人が物のようにしか使われないのなら、心を持ち続けてもいたずらに苦しみを長引かせるだけだ。義務の名のもとに、自由に生きることを許されないのなら、心などおぞましいだけだ」

「幽」

「安らぎを望んで……与えて……なにが悪い……? 私は願いを叶えたかった……叶えて、やりたかった……」

「幽」

 ふわり。紅葩の腕が、幽を抱えた。骨の浮いた、細い肩。薄い胸。おとなになる前に時を止められた、こどもの体を。

「……私は……どこで間違えた…………?」

 幽の声が震える。紅葩は幽を抱きしめた。強く、つよく。

「見届けるわ、幽。私は生きつづける。この国が、巫女も、それを守る宮司も、必要としなくなる日まで」

 心を抱えて。

 罪を宿して。

 罰を孕んで。

 命を生んで。

「私は……」

 幽の瞳から光が流れる。封じつづけた器が砕け、心の雫が、痩せた頬を伝っていく。

「白華に……幸せに生きてほしかった」


 叶わなかった願いの果てに、

 届かなかった祈りの先に、


 死ぬことよりも、生きつづけることのほうが、ずっと、こわくて、


 それでも、

 生きる、と、


 この手を、掴んでくれたなら、

 この手で、繋ぎとめることができていたなら、


 私は、

 こわくなんて、なかったのに。


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