【十五】

 ひときわ濃さを魅せていた夏の空は、いつのまにか色褪せ、早くも秋の高さを誇りはじめている。晴れ渡った空は一様に染められた質の良い藍染のように、一点の汚れも掠れもなく、澄みきった青を広げている。

 人払いをした社の離れで、幽は徇と相対していた。事前に取りつけられた約束だった。

「それで、私に何の用だ?」

 ちらちらと踊る木漏れ日を浴びながら、幽は尋ねた。

 開け放った縁側から、からりと乾いた午後の風が流れ込み、蝉時雨の名残を涼やかにさらっていく。

「……《ハクカ》の、一刻も早い処分を願います」

 壁際にひざまずく徇の声が、幽の小さな背中にかかる。

「またその話か」

 幽が嘆息まじりに声を落とす。ぐっと唇を引き結び、徇は続けた。

「状況が変わったのです。私は政宮まつりのみやから、社を調べるよう命を受けました。三日の後、私は自らの隊を率いて、あなたのもとへ、務めを果たしに参らなければなりません」

「それを私に予告して良いのか?」

「私は、あなたを捕らえたくない」

 必死の面持ちで、徇は幽を見つめた。

「捕らえる?」

 幽は振り返り、小さく笑った。

「この国の法に触れることなど、私は何ひとつしていない」

「冤罪は、政宮の最も得意とするところです」

 あなたも、ご存じのはずでしょう。

「……《ハクカ》を奪うのか」

 浮かべた笑みを崩さないまま、幽は目を伏せ、呟くように言った。

「徇」

 するり、と障子を閉じる。風の流れが絶え、射し込む陽の光が遮られる。満ちる薄闇。

「信仰は、法律か?」

 問いかける声が、静寂にとける。

「信仰も、法律も、ひとが正しく在ろうとしてつくりあげたものだ」

 一歩、一歩、幽は徇との距離を詰めていく。

「未来という、途方もない重さを支えるには、ひとの心は、あまりに脆い」

 心は社会に敗北する。

 だから、転嫁できる存在が必要だったのだろう。

 都合の良い偶像を立てて。

 信仰を掲げて、法律を被せて。

「神の名のもとに……正しさを維持するために、この国は……生贄を多く捧げすぎた」

 《浄めの巫女》も、《鎮めの巫女》も。

 彼女たちに課せられた役目も、その手にかかった人々も。

 だが……と幽は言葉を切り、視線を上げて、徇を見すえた。

「もとより犠牲の上にしか成立しない正しさなど、果たして正しいといえるのか?」

 幽のまなざしは静かだった。激情に焼き尽くされた、黒い墨を塗り込めたようだった。

「兄上」

 ひざまずいたまま、徇は俯く。

「《ハクカ》は……この国に対する、あなたの復讐だったのですか……?」

「徇」

 幽は足を止める。徇のすぐ傍まで来ていた。

「この国の掲げる神は、ひとの心の化身だ」

 陽炎のごとき幻想。

「《ハクカ》は、神を殺せる唯一のすべだ」

 平等の安楽を。

 永遠の安息を。

「……ならば、私は……」

 徇の手が懐に伸びる。さっと顔を上げ、素早く立ち上がり床を蹴る。右手にひらめく一振りの短刀。風をぐ。幽の喉をめがけて。

「下がれ! 幽!」

 鋭い声が静寂を打った。徇の手が、ぴたりと止まる。幽と徇のあいだに、大柄な男が降り立っていた。ライドウだった。徇の手首を掴み、喉もとに刃を突きつけている。

「見張っていて正解だったな」

 胆が冷えるぜ、とライドウは苦く笑った。徇の手から短刀を落とそうとして、拒む徇の力と拮抗する。

「私は……」

 手を固く握りしめて、徇は絞り出すように言葉を吐いた。

「ずっと……宮司になりたかった……神聖な……この国を……霊峰を、神を、掲げる国のまま……守っていたかった」

 喉の奥で、徇の声が震えた。

「だが……占が選んだのは……神に選ばれたのは、兄上……あなただった……神がお選びになったことだと、私は自分に言い聞かせてきた……それなのに……他でもない、あなたが、神を否定する……なんて……」

 ぎり、と徇の腕が軋んだ。身を翻し、ライドウの腕を振り払う。ひらりと舞う袖。ライドウの舌打ちが風を切る刃の音に重なる。光が走る。

「殺すな!」

 幽が叫ぶ。

 鈍い音が、響く。

「……リ……」

 幽の頬に、真紅がはねる。

 徇の胸を、背中から貫く白刃があった。

「……なるほど……」

 声とともに、滴るくれない。徇は薄く笑った。

「たしかに、優秀な弟子をお持ちのようだ」

 くずおれる徇の影から、黒髪の少年が姿を現す。

「急所は外しました」

 淡々とした口調で、少年は言う。続いて、ひらりと、白髪の少年も傍に降り立った。

「どうする? 主」

 白髪の少年が尋ねる。

「致命傷ではないけど、ほっとけば死ぬよ」

 殺せるよ。

「……徇」

 漆黒の瞳が、徇の袍を染める紅を映す。

「おまえなら、気づいていただろう。彼らの配置を」

 斬られるとわかっていながら、なぜ私に刃を向けた?

「……罪人として捕らえられる……あなたを……見たくなかった……」

 徇の喉の奥で、ぜいぜいと雑音が立つ。

「兄上は……私の理想でなければならないのです……私が求めてやまない……宮司の座……手が届かなくて当然なのだと……望みを諦めるために……完璧な兄上という理由が必要だったのです……」

 たとえ、陽炎のような、幻想でも。

「だから、兄上」

 さいごの一振りを、私に。

「心を抱えて、私はゆきたい」

 あなたを愛した心を失いたくない。

「……私は、おまえの神か、徇」

 幽の声が降る。徇は笑った。

「お救いください……私の心が、神を呪ってしまう前に……」

 私の亡骸は、どこかに埋めて。

 この国の法律が、あなたを裁かないように。

 この国の信仰が、あなたを宮司たらしめるために。


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