第二部

第55話 

 生まれて初めて、人に好きだと伝えた。

 それがどれだけ難しいことなのか。

 そして、その言葉がどんなに大切で、どれほどの重みがあるのかを知った。

 

 その思いが相手に届いてくれたのならば。

 こんなに幸せなことはないだろう。


 ――しかし現実というのはそう甘くない。


 例えるなら、間違えて買ってしまったプレーンヨーグルトのように。砂糖を入れ忘れたブラックコーヒーのように。

 たったひとつたがえるだけで、思っていたのとは全く異なるものになることがある。


 けれど俺は、信じていたのだ。

 プレーンのヨーグルトも、ブラックのコーヒーも。後から砂糖を足してしまえば、思い描いていたものになってくれるのだと。


 ならば、俺が見落としていたものは?


 ――好きな人は、きっと二人いた。

 だからこそ俺は考えて考えて考えて抜いて。ひとつの答えを出すことが出来たはずだった。


 …………その結果が、これである。


 これはきっと。

 砂糖と塩を、入れ間違えたクッキーだ。


 それはきっともう取り返しがつかなくて。

 それでも、取り返しのつかないものを取り戻すため。

 

 彼女と、後輩と、俺は。夏を迎える。

 


***



 忘れることの出来ないあの土曜日から、ちょうど一週間が経過した。俺はというと、本来なら訪れることのない最寄駅の一つ隣の駅前にあるファミレスに居た。


「……なあ千歳。俺って今、七瀬と付き合ってるんだろうか」


 目の前に座る千歳憂に聞いてみる。

 勝手に三種のハンバーグセットとドリンクバーを注文した彼女は、もぐもぐと口いっぱいに含んだハンバーグを飲み込んでから言った。


「……い、いや。先輩、逆の立場で考えましょうよ。もし先輩が好きな人に告白して付き合えた瞬間、間男とその好きな人がキスしたとしましょう。さて、先輩と好きな人は付き合っているでしょうか?」

「一体どんな状況だよ……頭おかしいだろ」

「これ先輩の話ですからね。あんたの話ですからね」


 千歳は呆れたように漏らす。

 そう。今でも信じられない。俺の話なのだ。

 七瀬と付き合ったかと思えば、潮凪さんに……その、キスをされて。その結果七瀬にはこの一週間全てのコンタクトを無視され、潮凪さんも俺を避けている。地獄である。

 

「……でも俺は。もし七瀬が俺と付き合った瞬間に間男とキスしたとしても、付き合える」


 俺は真剣な眼差しを千歳に向ける。


「いやそこで男としての度量見せなくていいんで。そういうのいらないんで」

「……七瀬は、怒ってるだろうな」

「激おこでしょうね」

「だよなあ……」


 もうため息をつくしかない。

 千歳はからからと手元のグラスの緑色の液体をストローでかき混ぜつつ、呆れたようにつぶやいた。


「で、どっちが好きなんですか」

「決まってるだろ。俺は、七瀬が……」

「ふうん。他の女とキスまでしておいて?」

「あ、あれは! 何かの間違いで」

「ふうん。潮凪さんの気持ちは間違いだと。先輩にしてみれば一時の身体の関係、ってことですか」

「……いや。言い方よ」


 それくらいしか返せる言葉がない。

 人をとんでもない遊び人みたいに言うな。

 きっと一番動揺しているのは俺なのだから。


 千歳はハンバーグの最後のひと口を小さな口に放り込むと、もぐもぐもぐもぐと咀嚼してから口を開く。


「まあ、アドバイスもくそもないですが。俺は七瀬が好きなんだってハルちゃんに言いに行くしかないですよ」

「女の子がくそとか言うんじゃない」

「はあ。そういう所が甘いんですよ。女の子だってくそくらい言いますよ。理想ばっかり追いかけてても……あ! わ、渡くんだ」


 机の上で震えたスマホの画面を眺めながら、可愛らしい声を上げる千歳。俺と話す時と声音が違いすぎないだろうか。にやにやと微笑む千歳を眺めつつ。


「幸せそうでいいな」

「ふ。一番の幸せ者が何言ってるんですか」


 幸せ者。そうなのだろうか。そうかもしれない。数ヶ月前の俺が今の状況を聞けば羨ましがることだろう。なのに何故、今の俺は嬉しいよりも焦りがはるかにまさっているのだろう。


 そしてかくいう千歳は、例の渡くんと割と上手くいっているらしい。色々と思うところはあるけれど、千歳が幸せならそれでいいと一人納得する。


 窓の外を眺める。放課後の空はどんよりと灰色に染まっていて、窓を雨がぱたぱたと叩く。もうしばらくはここから出ない方が良さそうだ。


「とりあえず、七瀬に謝ることにするよ」

「……へへ。楽しみ。……あ。先輩今なんか言いました?」


 嬉しそうに笑みがこぼれたかと思えば、興味無さそうにこちらを見る千歳。俺は今日何度目かのため息をつく。

 

「何も言ってない」

「そうですか。ご馳走様です」


 ぱん、と手を合わせる千歳。

 俺は差し込まれた伝票を眺める。痛い出費だが、相談料と思えば仕方ない。


「ぴんぽーん」

「え?」


 千歳は、わざとらしい声でそう言うと、店員さんを呼ぶボタンを押した。

 お会計だろうか。伝票を持っていけばわざわざ呼ぶ必要などないだろうに。そんなことを思った俺をよそに、千歳は店員さんに告げる。


「このもりもりマスカットパフェのキングサイズをひとつ」

「待て」

「ご注文以上でよろしかったですか?」

「はーい」

「………………」


 もうこいつに相談するのはやめよう。

 俺はそう思いつつ、手元のコーヒーを啜る。

 ぬるくなったコーヒーは、やけに苦かった。

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あの、晩ごはん作りすぎちゃってませんか? アジのフライ @northnorthsouth

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