第54話 私も
最寄駅から十分もかからない夜道を歩く。
時刻は既に二十一時を回っている。すっかり遅くなってしまった。
潮凪さんに事前にしていた連絡への返事は、『本当に良かった。千歳ちゃんと待ってるね』という内容だった。
かなり待たせてしまったし怒っているだろうか。それよりもずっと驚かれる可能性のあることを、俺と七瀬は今から話さなければいけないのだけれど。
ゆっくりのアパートの階段を登っていく。
七瀬の部屋の前まで来たところで、先を進んでいた七瀬がぴたりと立ち止まる。
そして、おずおずと腕を上げると俺の家のドアを指差した。
「せんぱいがドア開けてください」
「別にいいけどさ……。なあ七瀬、本当に言うんだよな?」
「……い、今更なにを。ただ付き合い始めたと言うだけの簡単なことです」
「それはそうなんだけど」
いざ話をするとなるとどうにも緊張してしまう。そもそも俺は七瀬の告白に答えを出せずに飛び出したわけで。まさか俺たちが付き合って戻ってくるとは二人とも思っていないだろう。
「ど、どうやって切り出す?」
「……まったくせんぱいは仕方ないですね。私が葵ちゃん役をやりますから、ちょっとやって見せてください」
「絶対に今やるべき事じゃないと思うぞ……」
「――あ、相馬くん。おかえり」
「なんか始まったし」
見ると、七瀬は見たことのないような満面の笑顔で俺に微笑みかけている。潮凪さんの真似のつもりだろうか。話し方だけはちょっと似てるけど。
七瀬はほら早く、とでも言わんばかりにしっしっとこちらに向けて手を振る。
仕方ない。少しだけ付き合ってやるか。
「……えーと。ご、ごめん潮凪さん待たせて。俺と七瀬、付き合い始め――」
がちゃ、と開いた扉の向こうで。
「――たん、だ……けど」
かつん、と潮凪さんのスマホが床に落ちる。
そちらには目をくれることもなく。彼女、潮凪葵は目を見開いたまま。ぱくぱくと口を何度か動かして。
「あ……お、おかえり。葵ちゃん。相馬くん」
寂しそうに、何かを誤魔化すように。
小さく笑った。
***
「――付き合う、ことになりまして」
この時間まで待ってていてくれた二人に向けて、俺は正座したまま開口一番そう言った。
同時に千歳が麦茶を吹き出す。
「げほ、けほっ。…………ま、まままマジですか? え? あの流れから一体何がどうなったらそんな」
千歳は信じられないとでも言わんばかりに机から身を乗り出して早口に捲し立てる。
「それはまあ、あれだ。色々あってだな」
「いやそんな説明で私が納得すると思いますか? キレますよ?」
キレないでください。
事細かに話すわけにもいかないし、俺はどうしたものかと頭を掻く。
ふと、潮凪さんと七瀬が見つめ合っていることに気づいた。千歳も同じようにそれに気づいたのか、俺たちは顔を見合わせる。
気まずそうに視線を泳がせる七瀬と、唇を噛んだまま真っ直ぐに彼女を見つめる潮凪さん。
何か声をかけるべきかと考えたところで。
「……そうなんだ。二人とも、おめでとう」
柔らかく、潮凪さんが笑った。
それを見て七瀬は驚いたように顔を上げる。
「あ、あおいちゃ……」
「私より先に彼氏出来ちゃうなんて、いいなあハルちゃん。しかも、相馬くんなら優しいし」
……いつもの潮凪さんの笑顔。声。
やっぱり七瀬の言っていた彼女が俺のことを好き、というのは、勘違いじゃないだろうか。
「私にのろけ、聞かせてね? 相馬くん、隣の席だからそれをネタにからかうから」
「いや潮凪さん?」
俺は思わず突っ込む。
「相馬くんも、私の可愛いハルちゃんに変なことしたり悲しませたりしたら教室から席が無くなるからね?」
「なんか聞いたことのあるセリフだ……」
それだけは避けなければ。
いや、しかし潮凪さんの持つ力を考えれば、俺の席を教室から消すことなど容易いのかもしれない。普通に困る。
「――あ、葵ちゃん!」
と、そこで七瀬が大きな声で名前を呼ぶ。
び、びっくりした。どうしたのかと俺が口を開くよりも早く、彼女は立ち上がると。
「ち、ちょっとだけ二人で話したいんだけど」
真剣な表情でそう言った。
「……うん。いいよ」
少しの間を置いて潮凪さんも立ち上がる。
俺と千歳は急な展開についていけず、二人を交互に眺めるしか出来ない。
玄関に向かう二人の背中を見送る。
残された千歳は「あの」とだけ前置きをして、つぶやいた。
「……私だけなんで誘ってもらえなかったんですかね? ひどくないですかね?」
千歳がそうぼやくので、俺は半目で彼女を見返す。
「今日の自分を振り返れ、お前は」
***
どれくらいの時間が経っただろうか。
千歳と二人残された俺が、彼女の渡とのデートプランを二周くらい聞かされたところで玄関のドアが音を立てて開いた。
戻ってきたのは息も荒く顔を真っ赤にした潮凪さんと、慌ててその後を追う七瀬。
「……そ、相馬くん。ちょっといいかな」
「葵ちゃん、その、私が悪かったからっ」
据わった目で俺を見下ろすと、潮凪さんはそんなことをいきなり言い出す。七瀬は半泣きで彼女の腰の辺りに抱きついてぐいぐい引っ張っているらしいが、潮凪さんは止まらない。
ずんずんと進んだ潮凪さんは、机を通り過ぎて俺のすぐそばに腰掛ける。睨みつけるように向けられた目線に俺はたじろぐ。
い、一体どんな話をしてきたんだこの二人は。俺は七瀬に説明を求めるように視線を向けるが、それに気づかないほどに彼女は動揺しているのか、潮凪さんを止めようと必死だ。
「ハルちゃんから、色々聞いたと思うけど」
「ええ、と」
――色々。
それはきっと、潮凪さんが俺のことを……というやつのことだろうか。
違うから、と否定されるのだろうか。まあ、それは当然と言えば当然か。
それにしても様子がおかしい。
こんなに動揺して焦っているような潮凪さんなんて初めて見た。
「……ええと。とりあえず潮凪さん、これでも飲んで落ち着いて――」
俺の差し出した麦茶の入ったグラスを、通り過ぎて。
潮凪さんの手が俺の肩に乗せられる。
「あ、あああ、葵ちゃ――」
七瀬の声が、どうしてかスローに聞こえた。
俺の手からグラスは落ちて。視界の端で溢れた液体が宙に揺れて。
「――私も、好きだから」
そんな声とともに。
俺の視界を、潮凪さんが覆い尽くして。
ちゆ、と唇に柔らかいものが触れて。
そして、甘い香りが駆け抜けていった。
「ああああああ!!!」
七瀬が叫ぶ。
何が起きたのか分からない俺は、ただ呆然と潮凪さんを見つめることしか出来ない。
ゆっくりと俺から離れた潮凪さんは赤い頬のまま、蠱惑的な笑みを浮かべてこう言った。
海で見たあの星空のような、深く暗く、ただどこまでも輝く瞳で。
「――相馬くん、私も好きだよ」
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