第3話(終)「Waiting for you」



みどり、入るよ」


 娘はあっという間に大きく育った。順調に幼稚園、小学校、中学校、高校と進んでいき、大学受験を控えた多忙な時期に突入した。


「夜食作っといたよ。お腹空いたら食べな」


 緑の大好物のグラタンだ。彼女が運動会のリレーで一番になったり、合唱コンクールで金賞を獲ったり、祝い事がある度に作っている。追い込みの時期にこそ、彼女の大好物が背中を押してくれるに違いない。


「ねぇパパ、私ほんとに合格できるのかな?」

「え?」


 ふと、彼女は弱味を口にした。


「私、肝心な時にヘマしちゃうからさ、もしかしたら受からないかも……」

「何言ってるんだ。緑の成績なら十分可能性はあるよ」


 彼女が目指しているのは明智大学。中部ではそこそこの名の通った名門校だ。緑は日頃から努力を重ね、先生にも認められるほどの優秀な成績を確立している。合格する可能性は十分にあるはずだ。


「私、怖いの……もし落ちたらどうしようって……つい考えちゃうの……」

「そんな後ろ向きじゃダメだよ。そんなんじゃ合格できるものもできなくなる。もっと自信を持っt……」




 僕の口が止まった。緑の瞳に大粒の涙が浮かんでいたからだ。


「でも怖いの! 怖くてたまらないの!」

「だから緑、そうやって後ろ向きに考えてたら……」

「どうせパパにはわかんないよ! 私の気持ちなんか!」


 そう言って、緑は勢いよく立ち上がった。僕を突き飛ばし、部屋を出ていった。突き飛ばされた時にバランスを崩し、せっかく作ったグラタンが床に散乱した。


「緑……」


 床から立ち込める温かい湯気が、励ますように僕の頬に触れた。






 あれほど弱音を吐いていた娘だったが、無事に志望校に合格し、一人暮らしのために家を出ていった。結局関係はギスギスしたままだ。


「ねぇ、茜」

「どうしたの?」


 不安になった僕は、茜の声が聞きたくなった。


「僕、緑の気持ちを全然理解してあげられなかった。そんな僕は、父親失格なのかな……」


 遠足の日を待ちわびる子どものように、僕は娘の成長を楽しみに待っていた。それなのに、どうしてこんな不安な気持ちばかり心に蓄積されていくんだろう。


「そんなことない。緑はあなたにすごく感謝してるもの。いつも温かく見守ってくれて、辛いときにはしっかり励ましてくれてる。それをしっかり理解してる。子どもだから、ただそれを言葉にして伝えられないだけ」


 茜の励ましが心に浸透する。優しげな声と相まって、体全体が温もりに満たされていく。どうしてスラスラと言葉を紡ぐことができるんだろう。まるで人生の教科書を暗記しているみたいだ。


「あなたは素敵な父親よ」

「ありがとう……」






 娘が結婚すると言い出した時は、とても驚いたものだ。もうそんな歳になったんだなぁ。つい先日大学を卒業して就職したかと思いきや、愛しの誰かと結ばれるなんて。時の神様は相変わらず僕を呪いたがっているらしい。


 バージンロードを緑と共に歩いた。純白のウェディングドレスを身を纏った彼女は、誰かのものにしておくには勿体ないほどの美しさだった。茜と結婚した時の記憶が鮮明に甦る。本当に母親そっくりに育ったなぁ。


 結婚式の最中でも、緑に対する不安な気持ちは解消されなかった。




「私は二人に伝えなければならないことがあります」


 そんな不安を取り除いてくれたのは、なんと緑本人だった。彼女はスピーチで両親に対する感謝の言葉を述べた。


「お父さん、お母さん、いつも迷惑かけてごめんなさい。わがままばかり聞いてもらって、困らせてしまってごめんなさい。こんな私が立派に成長できたのは、間違いなく二人のおかげです」


 彼女が僕の不安を理解してくれている。茜が言っていたことは本当だった。


「今日は声を大きくして言いたいです。お父さん、お母さん、こんな私を育ててくれて、ありがとう……」


 あぁ……もうその言葉だけで十分だ。僕は茜と一緒に瞳が腫れるまで泣いた。僕らの方こそ、立派に育ってくれてありがとう。


 緑、お前は最高の娘だ。




 待つ楽しさというのは、先を生きて得たものを、後から続いた者へ授与できること。先を生きる大人から後に続く子どもへ、生きる上での大切さを教える。待つ大人から追いかける子どもへ、精一杯の愛を与える。


 なんとも美しいこの世の摂理にたどり着き、僕は気分が高揚した。待つという行為を広義的に捉えると、ここまで素晴らしい世界が見えてくる。






 だけど、不安というものは容赦なく何度も襲いかかる。


「うぅっ……」

「あなた、大丈夫!? しっかりして!」


 茜に支えられ、僕は病院に向かった。医者から肺炎を言い渡された。老衰で消化器官や喉の神経が弱まり、気管に異物が溜まってしまったのが原因だという。


 症状は末期まで進んでおり、死ぬのは時間の問題らしい。しばらくの入院生活が続いたが、医師の予想を上回る形で意識の限界が近付いた。


「茜、緑……」

「あなた!」

「パパ!」


 二人が僕に呼び掛ける。まさかこんなに呆気なく死の瞬間が来るなんて、誰が想像できただろうか。いつか死ぬとはわかっている。人間とはそういう生き物だと理解していたから。

 しかし、いきなり今日ですと呆気なく言い渡されるとは。時の神様は、僕に命乞いをする余裕すら与えてくれない。




 死ぬ……腕も足も動かせなくなって……二度と息もできなくなる。茜を抱き締めることも、緑の頭を撫でてやることもできなくなる。






 あれ?


「……」


 不思議だ。これから死ぬっていうのに、恐怖を感じない。茜の出産の時も、緑が進路で悩んだ時も、底知れない不安と恐怖が襲ってきた。今回も死という化け物が僕を狩ろうとしている。


 それなのに、ちっとも怖くない。




「ふふっ」


 あぁ、そうか……わかった。






 僕、幸せなんだ。


「あなた?」

「パパ?」


 僕は遅れてばっかりのだらしない自分を変えたくて、待つ側の人間を目指した。もちろん全部上手くいったわけではない。数えきれないほどの挫折を経験した。

 それでも努力を重ねた結果、今僕の目の前には、笑っちゃうくらいの幸せな光景が広がっている。茜という愛しの人、緑という大切な娘、二人がくれたたくさんの思い出。


 誰かを追い越して、待ってあげて、追い付いたら手を差し伸べてあげる。そんな人生を送ることができて、すごく楽しかったんだ。


「緑、これから……しっかり……生きるんだよ……彼のこと……大切にしてやるんだよ……」

「うん……わかった……」


 緑は僕の右手を握った。


「茜、僕と出会ってくれて……ありがとう……いつまでも……いつまでも愛してるよ……」

「航成……ありがとう……私も……愛してるよ……」


 茜は僕の左手を握った。僕が最後に感じたこの世の温もりだった。




「向こうで……待ってるよ……」


 それだけ言い残し、僕は静かに目を閉じた。それから何も見えず、何も聞こえなくなった。僕は北山航成という生涯に幕を閉じた。


 それは、短くともたくさんの温もりに溢れて言って、間違いなく幸せと言ってもいい出来すぎた人生だった。






 よかった。僕は最後まで待つ人でいられたみたいだ。死でさえ先取りしてしまうほどに。僕が待つ場所はきっと天国だ。僕の人生を彩ってくれた全てが、そうしてくれたと思う。




 今……この世に生きるみんなに告げる。僕はここで待ってる。どれだけ遅くなってもいい。泥だらけで、傷だらけになっててもいい。僕が許してあげる。だから、いつか会いに来てよ。


 僕に会いに来るということは、つまり死んでしまうということ。それだと悲しい気がするけれど、僕は精一杯抱き締めてあげるんだ。会いに来てくれた人をね。とびっきりの笑顔で「久しぶり」みたいなこと言ってさ。




 茜と緑も、いつかここに来ることだろう。死んでほしくないとも思うけど、会いに来たら迎えてあげよう。大きな愛で、優しく抱き締めてあげよう。それまで気長に待ってあげよう。


 心配はいらないよ。これからどんな人生を歩むのか、どんな大人になってくれるのか、そんなことを考えながら時間を潰すさ。それがすごく楽しいんだ。何だかわくわくするよ。


 ほら、待つって楽しいだろう?




 だから、僕はいつでもここで待ってるよ。君がここに来てくれるその時まで。




   KMT『Waiting for you』 完


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