第2話「君のおかげで」
「よし!」
僕は自室の勉強机の上に、問題集と参考書を山積みした。勉強に勤しみ、学力向上に取り組んだ。みんなが知らない知識を習得していたら、後から学ぶ人に教えてあげられる。待つ人というのは、そういうことだ。
努力を重ねたおかげで、僕は学年一位と賞されるほどの成績を掴み取った。
「北山、前回よりも記録が伸びたぞ。よく頑張ったな」
「はい!」
体力測定の50メートル走で、新記録を次々と樹立した。ゴールする順位はもちろん一位だ。自分が一番にゴールテープを切り、後から続く者を待つ感覚。それがたとえ数秒にも満たない僅かな時間でも、僕はとても優越感を覚えるのだ。
それが、僕が一番早く走れることの証なのだから。
「航成君、ここがわからないんだけど……」
「あぁ、ここはね……」
山下さ……茜さんとはすっかり仲良くなり、今では定期的に勉強会を開催するほどの仲になった。数ヶ月前までは彼女に支えられた僕が、今では彼女に頼られ、勉強を教えてあげることができる。
そんな立場になれて、僕はとても嬉しかったんだ。遅れてばっかりの僕が、初めて誰かより優れた者として、困ってる人に手を差し伸べることができた。
でも、忘れてはいけない事実がある。僕が変われたのは、茜さんのおかげであることだ。
「茜さん、ありがとう」
僕達は夏休みに海に遊びに行った。一緒に映画を見たり、カラオケに行くまで仲は進展した。茜さんを浜辺に呼び、僕は感謝の言葉を告げた。
そう、忘れてはいけないのは、彼女の優しさのおかげで、今の僕がいるとうこと。
修学旅行で彼女が僕の過ちを許してくれたことで、僕は変わろうと思ったんだ。きっかけを作ってくれた彼女に、僕は心から感謝しなくちゃいけない。
「君のおかげで僕は変われたんだ。誰かの後を追いかける人間から、誰かを待つ人間になれた。本当にありがとう」
「航成君……」
僕は彼女に手を差し伸べた。かつて彼女が僕にしてくれたように。
「茜さん、僕はあなたが大好きです。僕と付き合ってください」
僕は彼女に告白した。いつも僕のそばにいてくれて、優しさを振り撒いてくれる彼女を好きになった。これも前から決意していたことだ。僕から先に告白して、返事を待つ。恋愛においても、僕は待つ側の人間を目指した。
「ありがとう。私も航成君が大好きです。これからもよろしくお願いします……」
茜さんは僕の手を握ってくれた。二人で抱き合い、キスをした。彼女の細胞一つ一つから溢れ出る温もりを、未来永劫大事に取っておきたくなるくらいに、僕は彼女が大好きだ。
「茜さん、こっちこっち!」
「ごめん、待った?」
「ううん、茜さんがどんな服を着てくるか想像してたから、ちっとも退屈しなかったよ」
「航成君……///」
無事茜さんと付き合うことができ、週に一度はデートを思う存分楽しんだ。誰に対しても平等に優しくしていた茜さん。そんな彼女の優しさを、僕が全部一人占めすることが許されたような気分になって、並々ならぬ優越感で僕の心は浮かれてしまう。
当然デートの待ち合わせは、僕が先に辿り着き、彼女を待つ。どれだけ彼女が遅れたとしても、笑って許してあげるんだ。それが男の役目というものだろう。
「さぁ、行こうか」
「うん」
遅れた彼女と手を繋ぎ、その後の時間を共有する。
「茜、愛してる」
「ありがとう……私もよ」
それからシナリオとして決まっていたかのように、僕らは結婚式を挙げた。27歳の時だ。プロポーズはもちろん僕から。自分から「結婚しよう」と伝え、茜からの「喜んで」を待った。彼女と共に過ごす未来が、楽しみで仕方なかった。
夫婦になってからも、待つという立場に居続けることは変わらない。行動は常に先を急ぎ、決して遅れを取らないこと。僕の心に辞書があるとしたら、『理想』という言葉の欄にはそう書いてあると思う。
「茜、苦しくない?」
「うん、大丈夫。ありがとう……」
茜は大きくなった腹を抱える。僕は背後から、その弱々しい背中をさすることしかできない。それから出産間近になり、彼女は分娩室に運ばれた。
そばに付き添ってあげるつもりだったが、彼女が「自分が苦しむ姿を見せたら、あなたまで苦しい思いをするから」と、廊下で待つように言われた。
彼女に従い僕は部屋の前に置かれたベンチに座って待つ。時刻は深夜2時。果てしなく続く暗い廊下が、出口のない時空の間みたいで恐ろしい。
「……」
いつしかの決意から、待つことが好きになった。後に続く人にどんな言葉をかけ、どんなことをしようか、考えるのを楽しんでいた。
それなのに、この時は不安で仕方なかった。子どもは無事に生まれてくれるだろうか。茜の身に危険が及ぶようなことが起きたらどうしようか。
ただ待っている……それだけしかできない自分は、本当はどうしようもなく愚かな人間なのではないか。こんなことを考えても仕方ないが、思考が言うことを聞かずに勝手に悪い方向へ加速していく。
「茜……茜……」
形の見えない恐怖が、ここまで自分を狂わせるとは思わなかった。ひたすら神か誰かわからないものに、手を重ねて祈り続ける。僕にできる抵抗はそれだけだった。
「えぇぇぇぇん、えぇぇぇぇぇぇん」
「あっ!」
分娩室の奥から、微かに赤ん坊の鳴き声が聞こえた。
生まれた……生まれたんだ……。
僕は汗まみれの茜の手をぎゅっと握った。赤ん坊は元気よく泣いている。きっと無事に生まれることができて、喜んでいるに違いない。茜、ありがとう。
「よく頑張ったね……」
「ううん、頑張ったのはこの子よ」
二人で赤ん坊の泣きじゃくる様子を眺めた。この世界に僕らの血を受け継いだ生命が誕生したと思うと、嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
「茜、本当にありがとう……」
「私も、ありがとう」
いつの間にか、生まれる前の不安はどこかに消え去っていた。あれだけひどく怯えていたのに、無事に出産を終えたことを噛み締めると、安心感で心が満たされた。
彼女と彼女が生んでくれた子どもが、僕の心の中の恐怖を追い出してくれたのだ。
「これも待つことの楽しさ……か……」
「ふふっ」
やっぱり、待つっていいなぁ。怖いことや苦しいこともあるけど、それ以上に待った先に迎えた未来の温もりや眩しさは、何事にも変えがたいほどに尊い。そう思えたのは、君のおかげだよ……茜。
でも今度は、僕と茜だけじゃない。この子を加えた三人で待つんだ。僕達がこれから作り上げるであろう、幸せな明るい未来を……。
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