第2話

 明子あかねは黙っていた。押し黙っていた。

 智昭は、ずっと指輪を掲げて頭を下げていたが、動きのない明子あかねを不審に思ったようだ。そうっと顔を上げ、もう一度「アカネ……?」と言って、しかしそのまま硬直してしまった。

 目の前の明子あかねが、不動明王のような炎を背負っているのが見えたから、かもしれない。

「トモ。いえ。智昭さん」

「は、はい」

「あなたは、私の、フルネームを覚えていますか?」

「え、え? えーと星野谷、アキコさん……」

「私は、ホシノヤ・アカネです」

「え!?」

「何よ? 何で驚くの? フルネーム教えたときに、『へええーこれでアカネかあ! ひねった読み方だよね。ふつうアキコだよね?』て笑ってたのに、いつからアキコを正解にしちゃったの!? ていうか、私を普通にアカネアカネと呼んでいたけど、あの名前はどこからきたと思ってたの!?」

「え……あ、あれ? アキコが本名で、アカネはただのハンドルじゃなかったっけ……あれ?」

「悪いけどアカネが本名なの! それから、」

 明子あかねは、じいっと、智昭の顔を見た。

「ちょっと気になったんだけど、この音楽。何だかいいタイミングで切り替わったよね? もしかしてトモが、音源を、お店に提供したの?」

 指輪を中途半端な位置に捧げ持ったまま、智昭は、心なしか汗ばみ始めた。

「ええと……はい……実はそうです。俺が、コーヒーを運んで5分たったらよろしくねって、お店の方にお願いさせていただきました。それが何か……」

 なぜか敬語になっている。明子あかねの中にもくもくと充満し始めていた蒸気が、とうとうぷしゅーと音を立てて脳天に突き抜けた。

「あんたは何を考えてんのよーっっ! これは『別れの曲』でしょ! よりによってプロポーズの瞬間に、なにこんな曲かけてんのよ!」

「えっと、その……深い意味はなくて……。ただ俺が知る中では最高にムーディーなクラシックだったし、前にアカネもこの曲は好きだよ、いい曲だよねって聴き入ってたことがあったでしょ。んで、純粋にこれなら盛り上がるかなーと……」

「確認だけど、あなたは私よりずっと音楽に詳しいよね? ウンチク魔だしね? ということは、別れの曲という通称は、あなたは当然知ってるよね?」

「はい、すみません、もちろん知っていました……けど、俺はあんまり気にしなかったし、アカネがそこを気にするとも思わなかった、です。だってアカネは、そんなに音楽にこだわるほうじゃないし……綺麗な曲ならいっかーて……」

「はあああ!? なんなのそれ。人の名前はちゃんと覚えてないわ、わざわざプロポーズで別れの曲をチョイスするわ、そのうえ『どうせわかんないだろ』的な考え!? ふざけんな! バカにしないでよ! もう別れる!」

 明子あかねは智昭の手からジュエリーケースをひったくり、それを智昭の顔のど真ん中に叩きつけた。そして、店を後にした。


**


 大きく息をついて、明子あかねはコーヒーに口をつける。ブラックコーヒーの苦みはいつもなら心地よいのに、今日はただただ苦いだけに感じる。

 まだスピーカーから響いているジャズアレンジの「別れの曲」は、すみからすみまで美しいオリジナルの旋律と違い、時々どこか物悲しい音を含んでいるように感じられた。ああ、こういうのをブルーノートって言うんだったかな……と心の中で呟いて、それが智昭から得た知識であることに気づいてしまって、明子あかねは何ともいえない苛立ちを覚えた。

 大きく息をつき、組んだ手の甲で額を支える。

 智昭は音楽が好きらしく、広く浅く変な知識を持っていて、よくウンチク語りをすることがあった。ジャズが流れてくればそれこそブルーノートがどうのこうのと語り出したし、クラシックを聴けばなんとかいう巨匠がいつ頃書いた曲で技法がどうでと話し始めたし、かと思えばボーカロイドやVtuberの曲の構造について話し始めたりもした。それは、山のこと以外ではあまり頼りにならないし語れることも少ない彼が、唯一熱心に語るジャンルであったかもしれない。

 ――つきあって、3年。

 明子あかねにとって音楽は特別嫌いでも好きでもなく、ただ流れていたら心地よい……という程度のものだった。それなのに、何かを聴いたらなんとなく知識めいたものが浮かんでくるようになったのは、この3年、そばにいた智昭の影響に違いなかった。そういえば、当の「別れの曲」のタイトルはこの曲が使われた映画の邦題からきている……ということも、雑学として明子あかねの頭に入っているけれど、それを最初に教えてくれたのは、ほかならぬ智昭本人だったのかもしれない。

 音楽に関してはウンチク魔な智昭。山や海を良く知っていて、自然の中では頼りになる智昭。しかし、およそ洗練された行動はできず、時々「ありえない」と思うようなずれたこともやらかす智昭。そんなだからいつの間にか名前を間違えて記憶して、プロポーズで「別れの曲」なんて、信じられない選曲をやらかして……。

 でも、そんな智昭が、すでに自分の一部を創っている――。

 明子あかねはずるずると机につっぷす。強く、腕に額を押しあてる。

 別れると叫んで去ってきたし、実際そのつもりだった。しかし、否応なく智昭を取り込んでしまった3年間をこれからどう昇華していけばいいのかと思い始めると、頭の中がぐらぐらした。ふたりで過ごした時間。共有した体験。好きなところ。嫌いなところ。今の感情。過去。そして、これから――明子わたしは、明子わたしから、智昭を排除できるのだろうか。

 ふと、隣の窓がドンドンと鳴るのに気づいて、明子あかねは少し額を持ち上げた。

 風のかたまりがぶち当たって窓が揺れたのかと一瞬考えたが、そんなものではない。音はもっと情けなく弱々しい。だけど、繰り返し繰り返し、語りかけるように、こちらに向かって響いてくる。

「……」

 なんとなく、何が起こっているのかは推測できた。

 正直なところ、確認したいかといえば、そうでもなかった。それでも結局、じわりじわりと頭を上げ、明子あかねは顔を窓に振り向けてみた。

 案の定だった。このカフェの売りであろう「全面ガラス張り」の外側に、智昭がぴっとりと張りついていた。こっちにはまったく聞こえないが、一生懸命何か言いながら、窓にこぶしを叩きつけている。

 明子あかねは残っていたコーヒーを一気にあおり、店員に「おつりはいいので」と千円札を押しつけて、外に飛び出した。ガラスにひっついている智昭の目線がこっちに向いたのとほとんど同時に、襟首をつかんでひっぺがす。

「何やってんのよ、恥ずかしい! お店に迷惑でしょ!」

「えっ、でもアカネがいるのが見えたから……」

「入ってくればよかっただけでしょ!」

「だってもう腹いっぱいだし、コーヒーもさっき飲んだし……」

「……」

 明子あかねはうつむいてぶるぶる震え出す。こういうとこだよ。こういうとこがずれてるんだよ。

「……あのね。誰もコーヒー飲めって言ってないから。そうじゃなくて……そうじゃなくって、もう少しフツーに考えてよ! この場合だったら、迷惑にならない方法は……っ」

 風がびゅっと襲いかかってきて、大きく開けた口を直撃したものだから、明子あかねは言葉を中断するしかなかった。

 智昭は、ひょろりとした体躯でもさすがに山男だからか、それほど風に動じない。静かに明子あかねを見下ろしていたが、やがて、するすると頭を下げた。

「……ごめん」

 深々とお辞儀をされて、今度は明子あかねが見下ろす形になる。

「何のことを謝っているの? 中に入らなかったこと?」

「そうじゃなくて、いろいろ、ごめん」

 智昭は頭を上げないまま、続けた。

「俺、基本的にその“フツーはどうする”っての、よくわからない。もちろん自分なりに考えてはいるけれど、いいと思ったことが悪かったり、悪いと思ったことが良かったり。で……今日、俺はわりと頑張ったつもりだけど、すごく大事なとこで盛大にやらかしたと思う。それを謝ってる。本当に、ごめん」

 智昭はもっと深々と頭を下げる。

 明子あかねは何も言わずに智昭を見下ろし続ける。ふたりの間を、もう一回、びゅっと風が吹き抜けた。

 智昭が気持ち頭を上げ気味に、ふたたび口を開いた。

「ごめん。ごめんっていわれても、困るよな」

「……」

「だけど、別れないでほしいんだ」

「――」

 明子あかねは大きく息を吸った。何か言ってやろうと思ったのだが、また言葉を遮られた。襲いかかってきた風のせいだ。

 明子あかねがしゃべれないのを好機と見たのかどうか知らないが、智昭は今度はちゃんと背筋を伸ばす。そして、明子の目をきちんと見た。

「アカネ――アカネはさ、基本ユルいっていうか寛容なんだ。今日はさすがに言わせちゃったけど、たいていのことならフツーはこうだって押しつけない。俺が山ばっか行くのも、服とか興味ないのも、音楽のウンチク言うと止まらないのも、どっちかというと引かれることが多いけど、アカネはそれが俺なんだって受け入れてくれる。こんな人は……まあ他にいないわけじゃないと思うけど、俺にとってはとても貴重で、失いたくないというか……。だから、えーと、その、俺と」

「……」

「もう一回付き合……いや、それはもうめんどくさいや。やっぱり――結婚してください!」

 またまた彼は頭を下げる。と同時に、右手が勢いよくこっちに突き出されてきた。どこかの婚活番組やリアリティーショーで見たことがある、いわゆる「交際お申込み」のポーズ。あんまりテレビは興味ないと言っていたわりに、こんなことは知っているようだ。

 明子あかねは手を取らなかった。

 差し出された手がぷるぷると震え出しても、取らなかった。

「……あの……」

 疲れてきたのだろうか、智昭がそうっと上目遣いをしてきた。

「あの、もういい? どうかな、アカネ……」

「50点」

「へ?」

「今のプロポーズ。50点」

「ええー……っ」

 顔を上げ、ため息と小さな悲鳴が混ざったような言葉を漏らす智昭に、明子あかねはつめよる。風に邪魔されないよう、ちゃっかり智昭を風よけに使える位置に移動しながら。

「まずね、ネガティブな言葉は使わない。私は慣れてるからあなたの言わんとするところが分かるけど、『ユルい』は褒め言葉になんない。『寛容』だけでいい。それから、『他にいないわけじゃないけど』は、そりゃ確かに本当だけど、そこは『そんな人は君しかいない』って言って特別感を出しとくの。そう言えば女性は高い確率でポーッとするの。フツーはそうなの、『フツー』は。わかった!?」

「ご、ごめん。やり直します」

「もういいよ」

 ずっと気おされたようにおどおどした顔をしていた智昭が、きょとんと目を見開いた。

 理由は分かる。たぶん明子あかねが、智昭の腕に自分のそれを絡ませたから。

「……分かるから、いいよ」

 分かるようになってしまったのだ。付き合った年月の分だけ。


 帰ろう。明子あかねは智昭を促し、腕を絡ませたまま歩き始める。

 我知らず、口ずさむのはショパンのエチュード、Op.10-3。

 通称――別れの曲。

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初夏色ブルーノート 岡本紗矢子 @sayako-o

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