初夏色ブルーノート
岡本紗矢子
第1話
びゅっと襲いかかって来る風の力を、
目を細め、歯を食いしばりながら、
幅の広い散歩道の一方には、洋館風の外観を持つホテルや可愛いカフェ、それに雑貨屋などなどが立ち並ぶ。もう一方は、まっすぐな港の岸壁で切りっぱなしにされた海。普段なら屈指のデートスポットとして、朝から夜までカップルまみれになるベイエリアだ――しかし、この風の中、こんなところをそぞろ歩いているような物好きはもちろんいなかった。
華奢なヒールと、風圧に耐えての歩みのせいか、歩いても歩いても駅は近づかない。いつしか、手先が氷のように冷えてきた。今は5月の終わりだ。夜とはいえ夏の入り口であり、薄いワンピース一枚で十分の気温だったはずなのだが、強風というのはずいぶん身体を冷やすものらしい。近道だからと海側の散歩道を歩き続けたことを、
少しずつ少しずつ近寄っていくうちに、カフェらしいとわかってきた。白っぽい木の壁、壁と同色のテーブルと、深海ブルーの椅子。色合いには落ち着きがあったが、ところどころに置かれた大きな観葉植物にはなんとなくトロピカルな雰囲気が見て取れた。
つい入り口に歩み寄った
「いらっしゃいませ」
迎えてくれた店員の声は明るかった。風が来ない、ただそれだけでも心地よかったのだが、なんとなく受け入れられたような気がして、
店内にはけだるいジャズが、小さな音でかかっている。サーフボードを思わせる壁飾りや、碇やうきわ、ハンモックに人魚と南国的なモチーフをふんだんにちりばめた店内装飾は、実際の季節である初夏よりも、真夏の昼下がりをイメージさせた。外からも見えていた観葉植物の足元には、「アレカヤシ」という札が刺してあった。
雰囲気につられて、風の寒さに固まっていた身体から力が抜け、とげとげしていた心もほぐれていくような気がする。
「あの」
ちょうどコーヒーを運んできた店員を、
「すみません。曲を変え――」
明子のどこか険しい声に、店員は困惑をにじませた。
流れている曲は、ピアノジャズにアレンジされたショパンのエチュード、Op.10-3。
通称・別れの曲。
**
「今日はありがとう。『トモ』がこんなキラッキラのデートスポットに誘ってくれるなんてすごく珍しいから、びっくりした」
ほんの2時間前の
「たまには小洒落たデートくらい……ね。ちょっと頑張ってみた」
少しずつ目立ち始める船の明かりを見やりながら、智昭がほんの少し胸を張った。
窓からは、ほぼ沈みきった夕日が残した最後の明かりと、みるみる夜色を濃くしていく海が見渡せる。ベイエリア屈指の人気レストラン。オーシャンビューの個室。智昭にしてはやりすぎなくらいの気合いの入った選択に、
「お店の予約をしたのすら初めてだよね。普段なら、デート帰りでも居酒屋か回転寿司か餃子のナントカだもん」
「いやそれは『アカネ』、いつもはデートったって山歩きだからだろ。格好も汚れているし、疲れているし、だから手近なとこになるわけで……」
「まあそうだけど。でもやっぱり、ほんっっとーに珍しい!」
「あんまり珍しい珍しい言うなよ……」
「今日って、何かの記念日だっけ? それとも何か頼みごとでもあるの?」
『アカネ』と『トモ』。本名そのもの、もしくは近い呼び名であるが、これはそれぞれSNS上で使用していた名前が、そのままお互いの呼び名として定着したものだった。軽いアウトドアの趣味があった
智昭はどこか頼りないひょろりとした体躯のくせして、
いつも居酒屋や回転寿司や餃子のナントカでのディナーになるのは、疲れがどうのこうのではなく、本当は他の店に入り慣れていないからだということを、
「何だか、ずっと楽しそうな顔してるね」
デザートの皿が下げられ、最後にコーヒーが出てきたあたりで、智昭が言った。
「そんな顔だった? ちょっと嬉しいだけだよ」
「ふーん。このあともっと、嬉しい顔してくれるといいんだけどな」
「え?」
「あのさ、アカネ……これ。受け取ってくれる?」
智昭がごそごそとテーブルの下を探るようなしぐさをし、それから手を前につきだしてきた。
差し出されたのは、ジュエリーケース。貝のように開いたその中に光っているのは、指輪だった。
「これは……これはなに?」
「指輪……」
「じゃなくて、あの、この意味は……」
「あ。そうか。ちゃんと言わなくちゃ」
智昭は照れ隠しのように、がしがしと頭をかく。
もちろん
自然にほおが紅潮する。本当に空に舞い上がってしまいそうなふわふわ感。うるみそうな瞳を大きく見開いて、
「あの――」
智昭が、大きく息を吸う。そして、指輪を掲げて、深く頭を下げた。
「アキコさん。僕と結婚してください」
その瞬間、どういうわけだかこれまでかかっていたBGMがフェードアウトして、ゆるやかなピアノの音が室内に響き始めた。
間違っていなければ、それはショパンの「別れの曲」だった。
外で次第に強まっていた風が、オーシャンビューの窓を強く揺らすようになったのも、ちょうどその頃からだった。
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