フランケンシュタインと烏

尾八原ジュージ

フランケンシュタインと烏

 ヨナが「烏」という男を訪ねていったのは、自分は体を張る以外に大したことはできないと知っていたからだった。彼は若くて人一倍頑丈な肉体を持ってはいたが、岩を岩で削って作ったみたいな顔をしていたし、頭もさほどよくなかった。

 ビル街の一角、洒落た近代的なオフィスの一室にある映画配給会社。そこが烏の巣のひとつだった。ヨナはこの場所を、雑用として雇われていた酒屋の店主から聞いたのだ。

「お前、やめた方がいいぞ。ああいう奴に関わるのは」

 半ば呆れたような顔で店主はそう言ったが、ヨナに金が必要な理由を知っていたので、はっきり「やめろ」とは言わなかった。

 烏はオフィスの一角を衝立で仕切った影にその席を占めていた。普通のデスクに背もたれの厚い椅子、背後には背の高いキャビネットがいくつも並んでいた。ストライプのスーツを着て眼鏡をかけた中肉中背の若い男は、最初ヨナの目にはさほど恐ろしげに見えなかった。

 烏はヨナの顔をちらっと見上げると、「『大蜈蚣オオムカデ』に入りたいって?」と尋ねた。

「はい」

 とは言ったものの、ヨナは「大蜈蚣」について、帝都最大規模のマフィアらしいという情報しか持っていなかった。どの道、まっとうな方法では手に入らない額の金が必要だったので、あえて深く考えずにいた。

「お兄さん、いくつ?」

「十六です」

「ふぅーん。あのね、言いにくいんだけど、うち顔採用なのよ」

 そう言われて、ヨナは思わず烏の顔をじろじろ見た。

「いや、俺も昔はカワイかったんだって! マジで」

 そのとき衝立がコンコンと鳴って、ヨナと同い年くらいの少年がスルリと中に入ってきた。艶のある黒髪を伸ばして後頭部でひとつにまとめ、女の子と見間違うような顔をしていた。なるほど顔採用か、とヨナは納得した。

 少年は肩から提げていた大きなクーラーバッグをデスクの上に置いた。烏はジッパーをチラッと開けて中を確認し、「早かったな」と言った。

「それですよね?」

「ああ、これこれ」

「あの」

 ヨナは二人の会話に割って入った。このまま無視され続けたら、追い返されて終わりだと思ったのだ。「俺、腕っぷしには自信があります」

「腕っぷしねぇ」と烏は言って、煙草に火を点けた。「多いからねぇ、そういう奴。ていうか、お前酒屋の従業員だよな? 仕事はどうした? 勤労少年」

「辞めました」

「じゃあ酒屋のオヤジに頭下げて、すいませんさっきのナシでって言いに行け」

「言えません。金がいるんです」

「俺もだよ。いくら稼いでも足りなくて困ってる。だが腕っぷしに自信があって顔のまずいやつは、とりあえず間に合ってる」

「絶対に役に立ちます。喧嘩で負けたことないです。それに俺、痛みを感じません」

 ヨナが必死でそう言うと、初めて烏は「ほう?」という顔をした。

「本当です。いくら殴られても平気です。傷の治りも異様に早いって医者に言われたことがあります」

「ははー、採用」

 烏は突然そう言って笑った。「なるほど、本当に痛くないらしい」

「そうですね」

 黒髪の少年が手品師みたいにハンカチを取出し、右手に持ったナイフを拭いていた。いつの間にナイフを出したのか、ヨナには少しもわからなかった。

 烏は煙草を灰皿に押しつけるとデスクの引出しを開け、「絆創膏やるよ。ここんとこ貼っとけ」と言って頬を指さした。ヨナが自分の顔を触ると、手に血液がついた。驚いているうちに、いつの間にか少年は姿を消していた。

「貼ったらこれにサイン。最近は一応一筆取ることになっててね」

 烏はデスクの上に書類を押し出した。びっしりと文字が書かれていて、ヨナは見ただけで目眩がしそうだった。

「何ですか、これ」

「雇用契約書ってやつかな。後で社長に回さなきゃならんが、決定は実質俺に任されてる。まぁ、おたくで働きます。つきましては上司の命令を聞きます、ってことだよ。上司、つまり今のところは俺だ」

「はぁ」ヨナは呆けたように頷いた。

 サインをすると、烏はヨナの下手くそな署名を見て、

「ヨナね。覚えたよ。俺はゲイブリエル・クロウ。ガブさんって呼んでもいい」

 と言い、右手を差し出してきた。ヨナがためらいがちに握手をすると、クロウはニヤニヤ笑った。

「大蜈蚣にようこそ、ヨナ。一緒に稼ごうぜ」


「お前の仕事は簡単だ。リングに上がって対戦相手をぶちのめす。最後まで立ってた方が勝ちだ」

 クロウに雑な説明を受けた後、ヨナは両手にグローブをつけて、大蜈蚣が経営する地下格闘技場のリングに上がった。初試合で右膝の皿を割られたが、痛くも痒くもなかった。夢中で相手の顔を殴っていたら試合は終わった。

 歓声がどっと湧き上がり、ヨナを包んだ。


 ヨナの手元には、酒屋で一月働く金額の十倍近くが転がり込んできた。

「ヨナは何で金がいるんだ?」

 博打もやらない、女もいないと聞いて、クロウはそう尋ねた。

「妹が病気なんで、入院させてやらなきゃならなくって」

 我ながら古典的な理由だ、と思ったが、実際ヨナは必死だった。種違いの妹は彼のたった一人の家族だった。三年前に母親が付き合っていた男に刺されて死んでから、ふたりは必死で生きてきた。

「そりゃ大変だな。入院って、入る先はあるのか?」

「なかなかベッドが空かないんですけど、正直金がないからそれどころじゃなくって」

 ははーん、と言いながら話を聞いていたクロウは、翌日「とりあえずここで検査受けてみろ」と言って、総合病院の名前を書いた彼の名刺をヨナに渡した。

 彼はさっそく妹を連れて病院に行った。病名を言い渡された後、とんとん拍子に入院が決まり、冗談みたいなスムーズさでベッドが用意された。

「本当に大丈夫なの? お金とか……」

 ヨナはしきりに心配する妹を抱きしめた。

「すげぇ親切な人がいるんだ。大丈夫、金も稼げる。俺たちは大丈夫だ」

 病院を出ると、ヨナは映画配給会社のオフィスに向かった。クロウはデスクの向こうで煙草の煙を揺らしながら書類をめくっていたが、ヨナを見つけるとヒラヒラと手を振った。

「ようヨナ。膝の調子はどうだ?」

 その瞬間、ヨナにはクロウの姿が、まるで後光が差しているように見えた。


 ヨナの怪我は急速に回復し、医師を驚かせた。約一ヶ月で彼はリングに復帰した。

 仕事は実に単純明快だった。目の前に立った奴をできるだけ痛めつけて立てないようにする、それだけだ。額が割れても肩が脱臼しても、ヨナは膝を折らなかった。

 無骨な老け顔にはいくつもの傷を縫った痕がつき、いつの間にか「フランケンシュタイン」というあだ名が与えられていた。人気と共に、ファイトマネーは上がっていった。

「やるなぁヨナ! さすが俺の見込んだ男!」

 クロウは調子のいいことを言いつつ、ある日花束を持って妹の病室を訪ねてきた。バカバカしい話を次々に、しかもやたらと表情豊かに繰り出すので、ヨナと妹は涙が出るほど笑った。終いには渋い顔をした看護師に「静かに」と注意されてしまった。

 連れ立って病室を出ると、クロウはヨナに話しかけてきた。

「いい子だな。こう言っちゃ何だが、お前に似てない。なかなか美人だ」

「あいつ、父親が違うんで」

「そうか。二つ下だっけ?」

「そうです。十四歳」

「そうかぁ。元気になるといいな」

「……ありがとうございます」


 ひさしぶりに酒屋を訪れたヨナの少し垢抜けた格好を見て、店主は深いため息をついた。

「お前、やっぱり烏のところに行ったな」

「うん。でもよ……」

 おやじさんが言ってたような人じゃないんだ、と言いかけるのを店主は遮った。

「あいつに恩売られるなよ。死ぬまで使い潰されるぞ」

 突き放すような口調に、ヨナは何も言い返せなくなった。違うんだ、という言葉を何かが喉の奥に留めていた。違うんだおやじさん、ガブさんはいい人なんだよ、俺の恩人なんだ、俺は間違ってない――しかしヨナは店主の顔から目を逸らしてしまった。

 店主はこの店で最上級のシェリー酒を箱に詰めていた。あれだって今の俺なら買おうと思えば買える、とヨナは思った。この酒屋で働いていたときよりも、ずっとずっと多くの金を稼ぐことができる。今の彼にはそれこそが重要だった。たとえ自分が「死ぬまで使い潰される」運命だとしても構わなかった。

 酒屋を出たヨナは、次の試合の打ち合わせのために映画配給会社のオフィスに向かった。やっと降りてきたエレベーターに少し苛立ちながら乗り込むと、いつの間にか隣に、いつか会った黒髪の少年が、相変わらず女の子みたいな顔をして立っていた。ギョッとしている彼に、少年は「18階」と言った。

「ああ、うん……」

 ヨナは気圧されてしまい、言われた通りにボタンを押した。

「お前、ガブさんの……クロウさんのことよく知ってるか?」

 ふとそう聞いてみたくなったのは、ヨナのどこかに酒屋の店主の言葉が引っかかっていたからだろう。問いかけられて、少年はどこか爬虫類めいた目で彼を一瞥し、「よくは知らない」と答えた。

「そ、そっか……」

「とんだクズ野郎ということは知ってる」

 そのときポン、と弾んだ音をたてて、エレベーターが18階に止まった。ドアが開き、少年は廊下の向こうに歩き去った。


「ようフランケンシュタイン、クリスマスにでかい試合をやるぞ」

 相手を見とけ、とクロウに言われて、ヨナは初めて観客席に座った。

 半年リングで戦っても、ヨナはまだ格闘技の素人に毛が生えたみたいなものだった。が、その彼が見ても対戦相手は別格だとわかった。今まで戦ってきたどの相手よりも、明らかに強い。

「お前が勝てば胴元の大勝利だ。なに、いつもと同じようにやりゃいい。最後に立ってた奴が勝ちなんだ」

「勝てますかね、俺……」

「はぁ? 何だ何だ、弱気になってんじゃねぇよ」

 クロウはヨナの肩を叩きながら、地下格闘技場の事務所に連れて行った。殺風景な部屋には二人しかおらず、クロウはパイプ椅子に腰かけるとヨナにも椅子をすすめ、煙草を咥えて火を点けた。

「いいかヨナ、負けたらどうするなんて考えてる余裕はねえんだ。今まで無敗じゃねえか。リングに立ってぶん殴れ。死ぬ気でな」

「死ぬ気で……」

「そうさ、死ぬ気でな。お前が負けたらうちがどれくらいの大損こくか、教えてやろうか?」

 今までに得たファイトマネーを全部足しても、とても払い切れない金額を告げられて、ヨナは血の気が引くのを感じた。クロウはゆっくりと煙を吐いた。

「だぁい丈夫、お前なら勝つ見込みがあると思って組んでんだよ」

「でも……もし負けたら」

「だからよ、そんなこたぁ考えないんだ。俺たちはプロだ。勝負に負けたときは死ぬ時なんだよ。死んだ後のことなんか考えなくていい。しかしまぁ、お前だったら特別に、負けたときのことを教えとくのもいいかもな」

 クロウの顔に不吉な笑みが浮かんだ。ヨナは思わず拳を握りしめた。

「損失はお前の内臓をばらして補填する。それじゃあまだ足りないから、お前の妹を売ってそれも充てる。まぁまだ足りないが」

 頭の中がさっと冷たくなった。

 後先も考えず、ヨナはかっとなって立ち上がった。クロウは変わらずニヤついた顔で彼を見つめながら言った。

「なんだ、俺をぶん殴るか? リングの上みたいによ。俺はあんまり喧嘩強くねえからな。ただ俺に何かあったら、妹ちゃんは即売り飛ばす手筈になってる」

「あいつ、病気が……」

「なーに、問題ない。一晩保てばいいってところに売るんだから。お顔がいい若い女の子なら、持病持ちでも何でも構わないってな。どうだ、やる気出たか?」

 クロウは煙草を消すと立ち上がり、ヨナの前にすっと立ち塞がった。悪魔がいるならこんな笑い方をするだろう、という表情になり、

「勝ちゃいいんだよ、勝ちゃあ! 死ぬ気で稼げ! フランケンシュタイン!」

 聞いたこともないような声で怒鳴ると、突然高らかに声をたてて笑い始めた。


 クリスマスの試合は大盛況だった。フランケンシュタインの奮闘を期待つつも、誰もが対戦相手の勝利を確信していた。照明の熱と観客の熱気は、今が真冬だということを忘れさせた。

 ゴングが鳴ると、ヨナは無我夢中でかかっていった。

 対戦相手の脚がヨナの胴体の左側面を捉え、肋骨を砕いた。少しも痛くなかった。続いて相手はヨナの右腕をとると関節を極め、降参しないとみるや腕を折った。それも痛くなかった。彼は無表情のままだった。

 さすがに怯んだ様子を見せつつ、相手は拳を固めてヨナの鎖骨を砕いた。やっぱり痛くなかった。両腕を体の両脇にぶらぶらと、荷物みたいにぶら下げながら、ヨナは決して膝を折らなかった。

(クソ野郎、勝ってやる。勝ってやる。勝ちゃいいんだろ)

 この、とんだクズ野郎め。

 ヨナは相手に飛びかかった。自由の効かない腕を必死に伸ばして相手の髪を掴むと、脚を絡めてリングに押し倒し、首筋に力いっぱい噛みついた。

 断末魔のような悲鳴が上がった。

 対戦相手の親指がヨナの目に入り、視界が暗くなった。痛くはなかった。こめかみに何度も尖った拳が叩きつけられた。痛くはなかった。太いウインナーを噛み千切ったような音がして、ヨナの口の中に温かいものが溢れ出した。

 気がつくとゴングが鳴り、割れんばかりの怒号と歓声が地下格闘技場を揺らしていた。

「フランケンシュタイン!」「フランケンシュタイン!」

 ヨナはよろよろと立ち上がった。首を振って周りを見渡したが、あいにく真っ暗だった。喧騒がどんどん遠くなり、やがて何も聞こえなくなった。

 ヨナの瞼の裏にふと妹の顔が閃いた。それに被さるようにして、頭の中にクロウの哄笑が響いた。


 立てておいた丸太ん棒を押したように、ヨナはリングの上に倒れた。

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フランケンシュタインと烏 尾八原ジュージ @zi-yon

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