初夏色の決意

 私はその後、すぐに彼に連絡を取ろうとしたが、スマホは通じない。朝を待って彼の住むマンションに向かった。

 部屋はすでに、もぬけの殻で、ピアノも運ばれた後だった。


 彼は何も告げずに去っていった。

 おそらく東京行きと引き換えに、私に二度と会わないように約束させられたのだろう。

 音楽の分野で顔が利く父の申し出を拒否すれば、ピアニストとして成功するのはかなり難しくなる。

 彼の夢を叶えるためには、こうするしか方法がなかったのだ。彼にとっても苦渋の選択だったはず。私は自分に言い聞かせようとする。想いを踏みにじられたのは彼も同じ。わかっている。わかってはいるけれど。


 私はがらんどうの部屋で立ち尽くす。

 その時、玄関から彼の部屋に来たときに何度か会って、顔見知りになっていた管理人さんが入ってきた。

 彼女は彼から預かったと、茶封筒を私に渡して部屋を出ていった。

 確かめてみると、中には手描きの楽譜が入っていた。『恋』の楽譜だ。そして、葉書サイズの紙が入っていた。

『君は僕が見つけた宝物。どうか幸せに』


 私の初恋が終わった。

 私は床に膝をついて涙を流し続けた。


 あれから私はピアノをまったく弾かなくなった。貰った楽譜も封筒に入ったままだ。そして、20歳になった今もあの時のまま変われずにいた。



***


 回想が途切れ現実に戻ってくると、店主がまたコーヒーを持ってきた。 テーブルには冷めたコーヒーが置いてある。どれくらい時間が経っていたのか。

「新しいものをどうぞ」 

「いや、そんなわけには」 

 私は慌てるが、店主は落ち着いた様子で冷めたコーヒーを下げる。

「ここはお客様と音楽を繋ぐ店。音楽を介し心の旅に出られたのなら。私にとってこれ程嬉しいことはないのです」

 店主の言葉は心に染み込むように私の心を落ち着けた。


「先程の曲、『恋』でしたよね」

「おや、ご存知でしたか。あの曲の作曲者はこの店でピアノを弾いてましてね。2年程前に東京に出て、先日、CDが出せたと送ってくれたのですよ」

 店主は目を細めて嬉しそうに言った。

「『恋』はこの店の最後の演奏の時に弾いていましたが、自分の音を変えてくれた人に贈る大切な曲だと言っていました。ずっと心に住み続けるだろう最愛の人だとも」 

 それを聞いて言葉が出ない私に、店主は優しげな眼差しを向けた。

「少しお喋りが過ぎましたね。どうぞごゆっくりなさってください」


 店主が席を離れてから、湯気がたっているコーヒーを一口含む。丁寧に入れられたことがわかる雑味のない味だった。

 体中に行き渡る温かさに私はほっと息を吐く。

 彼は、私の知らないところで夢に向かって走り続けていたのだ。ずっと私のことを心の隅において。

 そう思うと、ずっと仕方がないと諦めていた想いが心の中を駆け巡った。

 もう一度、あの想いを追いかけて良いのだろうか。私の心に小さく火が灯る。


 私はコーヒーを飲み終えると、席を立った。店主にお礼を言い会計を終えると、重たいガラス扉を開ける。外の熱気が私を包んだ。

 次に会ったときは『恋』を弾きこなして、彼をびっくりさせよう。

 私はメロディーを口ずさみながら初夏の街を歩き出した。




(了)

 


 

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初夏色ブルーノート 万之葉 文郁 @kaorufumi

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