ホットミルクのピエトーソ

「やめなさい!」


 突然の叫び声と共に、右腕を強く掴まれホームへと引き戻された。右半身を下にして叩きつけられるようにホームへと倒れ込んだ瞬間、新快速列車が猛スピードで侵入して来た。列車の巻き起こした風の冷たさと、コンクリートの床に体を強打した痛みとが全身へと伝わり、拓海にまだ生きているんだということを伝えてくる。

 列車はけたたましいブレーキ音を立てながら一気に減速し、車両の半分程がホームから飛び出した状態で停止した。


 拓海は意識を保ってはいたが、動くことができなかった。倒れた時の姿勢のまま傾いたホームを見つめる。


  ――まさか失敗するとは思わなかった。これから、一体どうやって生きて行こう……?


 涙が溢れ、視界が滲んだ。目を閉じると、途端に生暖かさが頬を伝い嗚咽が漏れた。


「君、大丈夫かい?」


 誰かに声をかけられたが、目を開けることができなかった。嗚咽を漏らすだけの存在と成り果てている拓海に、声の主は困ったように唸り声をあげる。


「泣きたいのは轢きそうになった運転士の方だよ……。ほら、起きて」


 左腕を引かれたが、立ち上がれるほどの力が入らない。この場で命を終えようとしていた体は、生き続けるという方向にまだ舵を切れないらしい。

 重い扉を閉めるような音やバタバタと慌ただしい足音が辺りに響き、何か会話が聞こえる。だが、自身の嗚咽のせいで会話の殆どは聞き取れなかった。


「……ああ、大丈……。車体には当た……から」


 声の主が、泣きじゃくる拓海の肩を叩き問いかける。


「君、どこも怪我してないよね?」


 その問いかけに、拓海は洟を啜りながら頷いた。程なくして列車がゆっくりと発車し、ホームには再び静けさが戻る。雨が酷くなってきたのか、激しい雨音が耳に届いた。


「……さてと。まだ立てないかな?」


 再度手を引かれる。一度目よりも力が弱く優しい。拓海が過呼吸ぎみになっている体を懸命に動かすと、そっと抱き起こして服の汚れを払ってくれた。床に両膝を立てて座り、ゆっくりと深い呼吸を繰り返す。


 拓海は、そこで漸く目を開けることができた。深呼吸を繰り返しながら、目の前の人物に焦点を合わせていく。

 その人物は駅員のようだった。黒色の制服を着ており、歳の頃は四十代。戎様のような体型をした恰幅のよい男性。胸ポケットに付けられた名札には『島田』と印字されていた。


「君、名前は?」


 島田からの質問に答える気になれず、拓海は俯いた。


「どこから来たの?」


 再び無言を貫くと、島田の困ったような唸り声が聞こえた。そして、「仕方ない」と島田が小さく声をこぼす。


「これ、君の財布?」


 島田はそう尋ねながら拓海の肩を叩き、右手に持つ黒色の財布を見せる。間違いなく自分の財布だった。どうやら飛び込みを引き止められた際に落としたらしい。ポケットに入れていただけなのだから当然だろう。

 拓海は黙って頷く。


「悪いけど失礼するね」


 島田は財布を開くと中身を確認し始めた。身分証明書を発見したのか、名前を読み上げる。


「三条拓海くん……だね?」


「……はい」


「住所は、京都市右京区……か。どうして新長田駅にまで来て飛び込もうとするかね」


 「別の駅ならいいって訳じゃないけどさ」と愚痴をこぼしながら財布を閉じると、拓海を見る目を険しいものに変えた。


「君、家からここまでどうやって来たの?」


 答えたくない質問に、拓海は口をつぐんだ。


「靴が随分と汚れているし、服も皺だらけで雨に濡れているよ」


 沈黙。


「……もう一度聞くけど――」

 

「歩いて、来ました」


 拓海が白状すると島田は優しい笑顔を浮かべ、小さく「そうか」と言って頷いた。明らかに家出少年であろうというのに、叱らないことが意外だった。

 若い駅員が小走りで応援に駆けつけて来た。島田は彼と一言二言交わした後、拓海の学生証を手渡した。


「警察に連絡して、捜索願いが出てないか調べてもらって」


 若い駅員は「分かりました」と告げて、再び小走りで去って行った。島田が拓海を振り返る。


「さて。取り敢えず、暖かい部屋で何か飲もうか」


 島田に手を取られ、拓海はゆっくりと立ち上がった。




 通された駅務室は暖房が効いており、島田の言う通り暖かかった。初めての空間に目移りしていると、キッチン近くの椅子に座るように示された。拓海は言われた通り、食事場と思われるダイニングチェアに腰掛ける。


「君、ホットミルク好き?」


「え?」


 突然の問いかけに声が漏れた。


「いや、今日はやけに冷えるでしょう? 何か温かいものをと思ってね」


「……嫌いでは、ないです」


「なら作っちゃうね」


 島田はそう答えると、連絡事項などが書かれた紙が無造作に貼り付けられている冷蔵庫を開けて、紙パックの牛乳を取り出した。それを薄茶色のシンプルなマグカップに注ぎ、電子レンジに入れてスイッチを押す。


 駅務室の扉が開き、先程の若い駅員が顔を見せた。


「島田さん、やはり捜索願いが出ていました。駅の方からも、ご家族に連絡した方がよいでしょうか?」


「そうだね。よろしく頼むよ」


 島田は若い駅員に連絡を依頼すると、拓海の向かい席に腰かけた。


「何があったのか聞きたい気持ちはあるけれど、初対面の人間になんて話せないよね」


 島田が優しい笑顔を見せながら言う。島田の言う通り、拓海は家出の理由を話す気にはなれなかった。それは自らの傷を抉ることになるし、「その程度のことで?」と呆れられる可能性も秘めているからだ。


 電子レンジが作業を終え、完了の合図の電子音を鳴らす。島田は「よいしょ」と声を漏らしながら立ち上がると、電子レンジの扉を開けてホットミルクを取り出した。

 それを、拓海の目の前にそっと置く。


「まあ、これでも飲んで落ち着いてね。温かいよ」


 甘いミルクの香りを感じながら、マグカップの中を覗く。温められた牛乳の表面にには特有の膜ができていたが、拓海は特に苦手ということもなかった。

 マグカップに手を添えると、冷え切った手がじんわりと温まった。ゆっくりと持ち上げ、息で冷やしながら慎重に口内へと流し込む。

 甘い。そして温かさが、喉を通り体全体に染み渡っていく。ホットミルクの優しさは拓海の冷えて凍りついた心を溶かし、包み込んだ。飲み込むと同時に涙が溢れる。先程とは違う種類の涙。

 嗚咽が止まらず、二口目を飲むことができなかった。仕方なくマグカップを机の上に戻す。両肩が激しく上下し、拓海は右腕の袖で止まらない涙を拭った。


「うんうん。嫌なことがあったんだね。思いっきり、ここで泣いていけばいいよ」


 島田は相変わらず戎様のような笑みをたたえ、拓海を見ている。まるで孫を見守るようなその視線に心を解され、拓海は家出の経緯を全て話した。



***



 島田は何も言わなかった。静かに頷きながら話を聞き、話が終わると「そうか」と呟くように言うだけだった。


「呆れたり……しないんですね」


「しないよ。だって辛さの感じ方は人それぞれだろう? 自分の物差しで勝手に測っていいものじゃないさ」


 島田がニコリと笑顔を作った時、駅務室の扉が開かれた。顔を見せたのは、先程の若い駅員。


「島田さん、ちょっと……」


「はいはい?」


 名前を呼ばれ、島田が席を立つ。拓海に「ここから動いちゃ駄目だよ」と念押ししてから駅務室を出て行った。残されたのは拓海と机の上のホットミルクだけ。


 拓海は少し冷めたホットミルクを一気に飲み干すと、駅務室の中へと視線を這わせた。

 二十畳程度の空間には、今いる食事場の他にテレビとコンパクトなソファが置かれた休憩スペースなどが押し込められるように配置されている。壁紙は煙草のヤニなのか薄黄色の年季の入った汚れが着色しており、決して綺麗で落ち着ける空間とは言い切れないのだが、拓海は何故か妙な安心感を覚えた。


 そんな薄汚れた壁には日付表示機能付きの時計が掛けられており、現在時刻が九時二十分であること。そして、十月二十三日であることを知らせていた。

 家を出てから六日が経っていた。流石に両親は怒り心頭だろう。原因となった姉は、きっと自分を笑うに違いない。この程度で家出などしていたらピアニストの重圧には耐えられない。などと莫迦ばかにしながら笑うはずだ。


 帰宅後に起こりうる様々な出来事を想像して胃がキリキリと痛み始めた時、島田が駅務室へと戻って来た。


「お待たせ」


 食事場の椅子に座り、ふーっと細く長い息を吐いた後に拓海と視線を合わせた。


「早川君……あの若い子ね。電話した時のご家族の様子を教えてくれたんだけれど……」


 僅かな沈黙の後、島田が続きを話す。


「お姉さん、電話口で大泣きされていたそうだよ」


 それは、意外な言葉だった。


「一日経てば帰って来ると言うご両親を強く説得されたそうだ。『自分のせいで弟が危険な選択をするかもしれない!』とね」


「そうですか……」


「家に帰ったら、お話ししてみるといいよ。また仲良くできるといいね」


「……そうですね」


 そう返したものの、拓海には姉と再び仲良くするというビジョンが描けなかった。これからギスギスした関係が未来永劫続いて行くのだろう。だが、姉の進学する音大は東京にあるため、ストレスで生活に支障が出ることはない。それが唯一の救いだった。


 問題は、これからの進路だ。姉からの謝罪があったとしても、自分はもうピアニストの夢は追えない。追うことが怖くなっていた。次に誰かから同じ言葉を投げられたら、間違いなく立ち直れないだろう。

 ピアノを失った自分には、一体なにが残っているのか……?


「……何をすればいいんでしょうね」


 心の声が口から漏れる。吐息と共に吐き出された囁くような声だったが、島田の耳には届いていたようだった。「ふむ」と考える素振りを見せた後、静かに語り始めた。


「拓海くんの名前は、海を拓く。と書くんだったよね? 良い名前だ」


「はぁ……」


 『良い名前』と言われることに慣れておらず違和感があった。海という漢字が入っているのに泳げないのか。と揶揄われた記憶しかない。


「拓海くんは、今とても辛い思いをしている。でもね、海は広いよ」


 島田は机の上で両手を組んだ。


「拓海くんが今立っている島以外にも、沢山の島がある。その何処かに君が永住できる場所がきっとある筈だ」


「大海原を切り拓いてごらん」と言って島田は笑った。その言葉に、拓海はほんの少し高揚感を覚えた。今まで意識してこなかった『名前に込められた意味』が語りかけてくるよう。


「どうすればいいか分からなくなったら、またここに来てもいいよ。お話ならできるからね」


 その言葉に「はい」と返事をした直後、駅務室の扉が開き、早川と呼ばれた若い駅員が顔を出した。


「島田さん、パトカー到着しました」


「流石に早いね」


 「よいしょ」と相変わらず声を上げて立ち上がる島田に、拓海は「パトカー?」と問いかけた。


「もう夜遅いから、今日は警察署に泊まってもらうんだよ。ご両親は明日迎えに来るそうだから」


 どうやら自分は警察に保護されるらしい。拓海は面倒くささを感じながらも、島田に連れられ駅の外に待機しているパトカーへと向かった。

 パトランプは回っておらず、中には若い警察官が二人乗っていた。一人は運転席、もう一人は助手席に。助手席の警察官が拓海に気付き、ドアを開けて降りてきた。綺麗な敬礼をする彼に、島田も敬礼を返す。


「ご協力ありがとうございました!」


「いえいえ。よろしくお願いしますね」


 警察官に名前を尋ねられ拓海はフルネームを答えた。書類の項目を幾つか確認した後、警察官が後部座席のドアを開けた。

 背中を優しく押されながらパトカーへと乗り込む。まるで何か悪いことをしている気分になったが、家出は充分悪い行為だったと思い出す。

 警察官が拓海の隣に座り、ドア閉めた。


「じゃあ、須磨警察署まで行きますからね」


 運転席の警察官がそう告げてエンジンをかける。程なくしてパトカーが発車した。


 拓海はパトカーの後部座席から小さくなっていく新長田駅を見つめた。島田が手を振っている様子が見える。


 ――君が永住できる場所がきっとあるよ。


 ――どうすればいいか分からなくなったら、またここに来てもいいよ。


 島田の言葉を思い返しながら、拓海は正面に向き直った。自分にとって永住できる場所はどこだろうか……?

 考える程に同じ答えが出てくる。とても落ち着く場所だった。大きな存在に見守られているような、不思議な安心感があった。


 ――自分が目指すべき島は……。


 拓海は再び振り返る。駅は、もう見えなくなっていた。

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クレマチスの動輪【短編集】 ポエム @syuon

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