哀哭の音
絶念のアッファンナート
「また全国行けなかったんだって?」
三歳年上で十八歳の姉『三条梓』の揶揄うような口調が耳に入り、拓海は荷物を整理する手を止めて振り返った。腰に手を当て、弟を見下ろす梓の姿が視界に映る。身長一六〇センチ前半の健康的な肉付きの身体に、黒色のスキニーデニムと真っ白な長袖ニットを合わせている。髪は、淡い茶色に染められ緩くウェーブのかかった長髪。
「……そうだよ」
拓海は立ち上がりながら答える。自分を見下ろしていた梓と視線の高さが揃った。
「今年こそはと思っていたんだけど、結局落選か」
梓はわざとらしくため息をつくと学習机に手をやり、拓海が鞄から取り出したばかりの楽譜を手に取った。ショパンの二十四の
拓海が参加していたのは、日本でも広く名の知られた大規模な音楽コンクールだ。ピアノ、バイオリン、声楽、フルート、チェロの五部門があり、拓海が参加したのはピアノ部門。
参加者百名中、通過者が十名という厳しい予選を例年通り突破できていた拓海だが、本日行われた地区本選にて敗れ、全国大会進出とはならなかった。
「これで六年連続? せめて一度くらいは全国に行って一位とか取りたいよね」
梓は肩をすくめて見せると、自らがそのコンクールでどのような成績を残したかを話し始めた。拓海にとっては、もう聞き飽きた話だ。
梓が自慢げに語りながら細める両目は、拓海とは違いはっきりとした奥二重だ。顔だけではなく性格も父親に似ており、非常に社交的で明るい。例えるなら陰と陽、黒と白だ。自分自身とは真逆の存在で、本当の
ハキハキと武勇伝を紡ぎ続けていた梓の口が突然止まり、不満げにへの字に曲げられた。
「ちょっと! 拓海、聞いてるの?」
「……え、うん。聞いてるよ」
「とにかく、そんな成績じゃ音大なんて無理ね。私みたいにずっとトップを走ってないと」
梓は勝ち誇ったような口調で言うと、数多のコンクールで優勝を飾ったことや、有名音楽家による特別講習を優遇してもらったこと。音楽大学への返済不要の奨学金を勝ち取ったことなどの武勇伝を、再びその艶のある唇から忙しなく紡ぎ始めた。この話も、もう何度聞かされただろう。
姉の実力は拓海自身もよく分かっていた。昔から神童と持て囃され、類稀なピアノの才能を遺憾なく発揮していた。そして、その姉と同じ血を分けた姉弟である自分にも優れたピアノの才能があると信じ、十年もの間必死に厳しい練習に喰らいついてきた。
そんな長年追い続けてきた姉が、僅かに哀れみのこもった目で拓海を見つめる。
「拓海ってさ」
二重瞼の瞳が瞬きをした。
「才能ないのかもね」
その言葉は、コンクール直後で弱った拓海の心をへし折るに十分過ぎる程の力を持っていた。脈が早まり、全身が熱くなる。乱れかける呼吸を整えながら、拓海は必死に言葉を紡いだ。
「な、んで……そんなこと、言うんだよ」
「だって拓海、レベルの高いコンクールで一度も上位入賞したことないじゃん」
胸の奥から悔しさと怒りが湧き出す。拓海は下唇を噛んで感情を抑え込んだ。
「普段の演奏は悪くないから本番に弱いだけなのかもしれないけどさ、本番で上手く出来ないのは普段から弾けていないのと同じだからね」
梓は「審査員は本番の演奏しか見ていないんだから」と付け足し、手にしていた楽譜を机に戻した。譜面を埋め尽くすようにびっしりと並ぶ自らの書き込みが一瞬目に入り、悔しさが更に溢れ出す。
「知ってるよ……そんなこと」
「仮に全国に行けても、そこで入賞できないとピアニストとしての箔なんてつかないよ」
梓は「まあ、まだ若いしもう少し頑張ってみたら?」言葉を残すと、「じゃあね」と悪怯れる様子もなく拓海の部屋を出て行った。
部屋の扉が閉まる。途端に酷い眩暈がして、拓海はベッドに倒れ込んだ。
自分にはピアノの才能がある! これまでの十五年間そう信じて生きてきた。姉からの「才能がない」などという言葉を簡単に信じられるわけがない。たが、姉の言う通りなのでは? と非情な現実を受け入れるようとする感情が小さく芽生え始めていた。まるで、自分自身ではない誰かが心に植え付けたようで気味が悪い。
姉からの言葉を受け入れたくないという強い感情と激しくぶつかり合い、心が破裂しそうだ!
――梓ちゃんの弟? 教えがいがあるわ!
突然、過去にかけられた言葉がフラッシュバックした。これは確か、五歳の時に姉と同じピアノ教室へ通い始めた時に教師にかけられた言葉だ。
――お姉さんコンクール金賞ですってね! 拓海君も頑張らなくちゃね!
再びフラッシュバック。まるで、今まさに耳元で投げかけられているような感覚がして、拓海は布団を頭から被り外界を遮断した。自然と呼吸が激しくなる。
――お姉さん音大進学が決まったのね、流石だわ! ほら、拓海君も頑張ろう!
――うるさい! 俺はもう十分頑張ってるだろ!
歯を食いしばり心の中で反論する。それは、決して口には出せなかった本心。
――また全国行けなかったんだって?
シーツを両手で強く握る。目頭が急速に熱くなった。
――才能ないのかもね。
拓海は布団に顔を押し付け、感情のままに叫んだ。涙が溢れて止まらない。脆くなった心に入ったヒビが急速に広がり、粉々に砕け散った。
深夜の二時。拓海はベッドから降りると、部屋のタンスを開けて着替えを始めた。姉からの言葉が忘れられず、どうにも熟睡できないのだ。グレーの長袖パーカーに黒色のジャケット、ベージュのチノパンという姿に着替えて、尻ポケットに愛用している合皮の二つ折り財布を突っ込む。
――少し、近くのコンビニにでも行こう。
夜風に当たれば気分も変わるだろう。と財布と鍵だけを持って家を出た。家族を起こさないように、そっと。
十月も半ばに入り、夜になると流石に冬の気配が強くなる。時折、刺すような冷たさを持った風が吹く夜の町を、何も考えずに歩いて行く。車通りも無く静かな道を進んで行き、やがてコンビニへと辿り着いた。
入店し、お気に入りの炭酸飲料を購入する。ガラ空きの駐車場で車止めに座り、ペットボトルを開封した。炭酸の抜ける爽やかな音が小さく響く。茶色の甘くて刺激のある中身を半分程一気に流し込むと、拓海は息をついた。
見上げた夜空には満天の星が輝いている。今日の天気は晴れ、そして満月だ。拓海の荒廃した心の真逆をいく美しい景色。そのような景色を見れば何か変わるかと思ったが、特に心に変化はない。自分の存在の小ささに嫌気が差すだけだ。
――家に帰ろう。
これ以上外にいてもやることなど何もない。ペットボトルに蓋をして車止めから腰を上げようとするが、体が動かなかった。両足に力が入らなくなったかの如く、ピクリともしない。
――家に帰っても何をすればいいんだ……?
今までなら翌年のコンクールに向けてピアノの練習に打ち込んでいただろう。しかし、姉から投げつけられた言葉が心の奥底に重石のように鎮座しており、沈み込んだ心が浮き上がらなくなってしまっていた。
気分転換になんてならなかったな。と苦笑しながら、歩いてきた道とは逆方向へと目を向ける。
――気分が晴れるまで、ひたすらに歩いてみようか。
ふと、そう考えた途端に足が動いた。車止めから腰を浮かせ、立ち上がる。
拓海は、ペットボトル片手に自宅方向へ背を向けて歩き出した。
***
家を出てから何日経ったのか、拓海には分からなかった。朝から雨が降り続ける肌寒い日の夜。知らない駅のホーム端にあるベンチに座り、もう一時間近く項垂れている。スニーカーに堆積した汚れが、途方もない距離を歩いてきたことを物語っていた。
スマートフォンを自宅に置いてきたため家族と連絡はとっていないが、もう家のことなどどうでもよかった。才能のない自分に、もはや居るべき場所はない。行きたい場所もない。
ホームに接近メロディが響いた。直後に列車通過を知らせるアナウンス。
先程も快速列車が通過して行ったが、勇気が出なかった。このまま過ごしていても何もないというのに。ピアノのため何もかもを切り捨ててきたこの自分に、今更何ができるというのか。
重い車体が高架を走行しながら近づいて来る。細かな振動が床を通して伝わってきた。
様々な思い出が拓海の脳裏に次々と浮かぶ。ピアノを始めた日、始めてコンクールの舞台に立った日、始めて地区本選へと進めた日……。
――早く行け……!
十年間、鍵盤を叩き続けてきた両手は震えていた。覚悟を決めるように、膝の上で強く握る。
――拓海ってさ
最後は姉の声。心臓が人生のフィナーレに向けて激しく鼓動を刻む。呼吸が荒くなり始めた。一気に、大きく息を吸う。
振動が大きくなる。鉄の塊が迫る。
――才能ないのかもね。
――早く行けよ! 根性なしが!
勢いよくベンチから立ち上がり、真正面の線路に向かって走った。踏みとどまろうとする本能を振り払い、一気に駆け抜けた。警笛が鳴る。前照灯の光が拓海の視界の全てを覆い、世界が真っ白に染まった。
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