チヂの花束【光】


 それは、嫌悪感すらもたらすほど、酷く醜いミトラだった。ただ、背に咲く花の芳しいことといったら、見目の悪さを差し引いても手にする価値が充分にあった。醜いミトラは狭い箱に押し込められ、背の花が枯れない程度に生かされた。

 暗闇――果てのない暗闇。逃げることも死ぬことも叶わない暗闇の中で、ミトラは生きていた。苦痛はなかった。自由だった時間があまりにも少なすぎたせいで、と思っていた。背の花を摘まれる時は少し痛く、その時だけは、誰にも聞こえないか細い声で泣いた。その繰り返しだった。ある時、光がさすまでは。


 ――ああ、まぶしい。

 眼球を貫く光は痛みをもたらし、ミトラは縮こまって防御体勢を取る。

 ――なんてまぶしいの。これが死かしら。ついにあたしのところに、死がやってきたのかしら。

 だとしたら、なんと美しい死だろう。ミトラは恐る恐る、光を直視した。生たる暗闇を突き破り、己が身を焼く光を見た。親しげな笑みを浮かべる、一人の男を見た。


 婦人は、夫が醜いミトラを高値で買い取ったことにしばらく不満を漏らしていたが、この夫にしてこの妻あり、ミトラを気に入るのにそう時間はかからなかった。

 坊やは始めから良き友人としてミトラを受け入れ、積み木やパズルなど様々な遊びにミトラを誘った。ミトラはボール遊びが得意で、坊やはミトラからボールを取り返すのに毎回ずいぶんと苦労した。

 ミトラは、狭い箱の中で身動きすら取れなかった日々が嘘のように、あらゆる場所に手足を伸ばし、あらゆるものを見た。

 チヂという短い単語が、自分を呼ぶ名前なのだと知った。人間の膝の居心地が良いことを知った。腹を撫でられると良い気持ちになることを知った。太陽の光が温かいことを知った。揺れる木漏れ日を追いかけるのが楽しいことを知った。星がまたたくことを知った。世界には光が満ち溢れていることを知った。


 しかし光の日々はあっけなく終わりを迎えた。背後から頭を殴られ、一瞬にして意識が消え失せるような、暴力的な幕引きだった。


「チヂ、とうとうお前は、逃げなかったのだね」

 今にも途切れてしまいそうなか細い声。捕食者の作り出した完全な暗闇の中には、太陽も木漏れ日も星明かりも入り込めない。ただ純白の香りだけが、かろうじて存在を許されている。

『旦那さまのおそばにいるって決めたのよ』

 人間には決して聞き取れないミトラの言葉で、チヂは囁く。男は不規則な呼吸を繰り返しながら、そっと微笑んだ。

「お前には、暗闇は恐ろしいだろう。私が死んだら外へ……光のもとへお行き」

『あたしは、ずっとここにいるわ』

 冷たくなりつつある男の身体に、チヂは小さな身体を擦り寄せた。

『あたしの光はここにあるもの』

 男の身体には、チヂの腹を撫でる力すら残されていない。やがて男が何も話さなくなるまで、チヂは男の優しい手のひらを、慈しむように舐め続けた。


 それから、多くの人間が暗闇に落ちた。チヂはそのたびに彼らを呼んだが、どんなに声を張り上げようと、ミトラの言葉は人間たちには届かない。

 人間たちは例外なく暗闇に喰われ、白骨として屋敷の床を覆った。チヂの光の残骸も、いつしか数多の白骨に紛れ、風化していった。


 そして、更に時は過ぎ……奇跡がやって来た。

「走れ! 捕まると食われるぞ!」

 緊迫した声。白骨の上を走る足音。

『こっちへおいで、人間! こっちへ!』

 決して届くはずのなかった声は、三人の人間を香りのもとへ呼び寄せた。久方ぶりの人間。久方ぶりの、他者の体温。

 この人間たちが、ずっと屋敷にいてくれれば良いのに。温もりに身を預けながら、チヂは心から願った。しかしそれは、彼らの死を願うことと同義だ。


 旅人に腹を撫でられながら、しがみついていた未練をそっと手放した。

 恐ろしくはない。狭い箱の日々に終わりが訪れたように、この日々にも終わりがやって来た。それだけのことだ。

 背の花を摘み、旅人に託す。かつて温かな手は光となって、チヂを暗闇から救い出した。今度はチヂの花束が、この人間たちの光になるのだ。


 旅人たちを見送ってしばらくすると、大広間に充満していた甘い香りは次第に薄まっていく。やがて暗闇から捕食者の手が伸び、もう二度と香りを放つことのない、チヂの小さな身体を捕らえた。

『チヂは……とってもとっても、幸せだったわ……』

 暗闇の中で目を閉じる。瞼の裏には、どんな暗闇にも塗りつぶされることのない、鮮烈な光が閃いていた。



<終>

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チヂの花束 深見萩緒 @miscanthus_nogi

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