チヂの花束【香】
「走れ! 走れ!」
はぐれないように手を繋いだまま、三人は必死に足を動かした。どこへ走れば逃げられるのか、確信などなくひたすらに走る。少しでも足を止めてしまえば、あれに捕まってしまう。
つい数分前まで、三人は見晴らしの良い丘の上を歩いていた。
地図を持った零夜が先頭に立ち、女性であるティエラを真ん中に挟み、戦闘の得意なキヤがしんがりを守る。地図によれば、丘を越えれば小さな村が見えてくるはずだった。実際、丘の上から人家がいくつか確認できた。
道を間違えたわけではない。それなのになぜ――こんな暗闇の中を走っているのか?
ことが起こったのは唐突だった。足元が突然崩れたかと思うと、次の瞬間には全員が、暗闇の中に放り出されていた。それだけならばまだ、何が起こったのかを調べる気にもなっただろう。しかし濁流の
「ミトラだ!」
叫んだのは零夜だった。
ミトラ――この世界を跋扈する、多種多様で不可思議な生き物。人には理解不可能な独自の言語を話すが、零夜は彼の特殊能力として、ミトラの言葉を理解することが出来る。暗闇の中に響く轟音は、ティエラやキヤの耳にはただの轟音としか聞こえなかったが、零夜には意味ある言葉として届いていた。すなわち――
『獲物だ! ごはんだ! おいしそう!』
「走れ! 捕まると食われるぞ!」
指先すら視認できないほどの闇の中で、三人は繋いだ手の感覚だけを頼りに、同じ方向へ走った。逃げているのか、追い込まれているのかは分からない。それでも、暗闇に気配のみ感じる追手から遠ざかるためには、走るしか手段がなかった。
足元は極めて不良。土の感触はなく、小石か木片が積み上がっているような不安定さがあり、走るだけでもかなりの体力を持っていかれる。このままでは、追いつかれてしまう。
『こっちへおいで、人間! こっちへ!』
轟音の中にその声を聞いて、零夜は咄嗟に――罠かも知れないなどと考える余裕もなく――声の方へ向いた。後に続く二人が、急な方向転換に難を示す気配があったが、気にしてなどいられなかった。
『そう、こっち! こっちよ!』
声の方へ走る。……ふわりと、甘い香りがした。
急に、足元が一段低くなった。バランスを崩して倒れ込む。まずいと思ったが、気付けばあれほど鼓膜を震わせていた轟音は嘘のように止んでおり、飢えた捕食者も追って来てはいないようだった。
「みんな……無事?」
ティエラが、繋いだ手に力を込めた。「おう」「大丈夫だよ」と、両脇のキヤと零夜がその手を握り返す。
「良かったあ。レイヤったら、いきなり走る方向変えるんだもん。びっくりしちゃった。それにしても……どうしてここが安全だって分かったの?」
声の反響と空気の流れから察するに、ここはかなり広くひらけた空間のようだった。「声が……」と、零夜は二人に事情を話す。
「俺たちを襲ったのとは別のミトラがいるのか? 確かに、甘ったるい匂いがするな」
キヤがスンスンと音をたてて、周囲の匂いを嗅ぐ。逃げている最中に漂ってきた香りとは比較にならないほど、ここには甘い香りが充満していた。
「そうだと思う。俺たちを助けてくれたミトラが……うわっ」
空いている左手の先に何か柔らかなものが触れ、零夜は短い声を上げた。
『人間……生きてる?』
暗闇の中から不安げな声が聞こえた。零夜をここまで導いてくれた声だ。一度は引っ込めた手を伸ばし、声の主を探ってみる。指先に、柔らかく温かな何かが触れる。
「きみが、俺たちを助けてくれたのか?」
『そうよ。……あなたは人間なのに、あたしの言葉が分かるのね』
「うん。おかげで助かったよ。ありがとう」
暗闇の中で、ミトラが動く気配がした。小さな身体を零夜に寄せ、身体の匂いを嗅いでいる。したいようにさせていると、「おい」とキヤが呼んだ。
「そこにミトラがいるのか?」
「うん、俺たちを助けてくれた……えっと、」
『あたしはチヂ。すてきな香りのチヂちゃんよ』
「チヂっていうんだって。俺は零夜。こっちの人間は……」
零夜はティエラを促して、暗闇の中に手を差し出させた。チヂがその匂いを嗅ぐ。「ティエラ。それからこっちが、……キヤ」
『人間が三人ね。全員生きてるのね、すてきね』
チヂが喜ぶと、甘い香りが踊るように、濃くなったり薄くなったりした。
墨で塗り潰した暗闇の中で、光を灯す試みはことごとく失敗に終わった。イマジアで作り出す炎や雷の光すら、発したそばから闇に侵食されてしまう。「駄目だな」と、ついにキヤが音を上げた。
「ミトラが作り出す、特殊な闇なんだろう。いっそミトラごと焼き払うってのはどうだ?」
「それって、私たちみんな生き埋めになっちゃうんじゃない? 私のイマジアで盾を作っても良いけど、さすがに盾が持つかどうか……」
「だよなあ」
手探りで出口を探そうにも、いつまた暗闇のミトラが襲ってくるか分からない状況では、迂闊に探索も出来ない。
深刻な声で議論を交わす人間を横目に、チヂはご機嫌で零夜の膝を陣取った。『久しぶりの、人間のお膝だわ。すてきだわ』
膝の上で身体をくねらせたり、時々零夜の膝頭を甘噛みしたりする。零夜はミトラに好かれやすい
「チヂは、人間と暮らしたことがあるんだ?」
尋ねると、チヂは『そうよ』と得意げに言った。
『旦那さまと奥さまは、あたしの香りがお好きなのよ。それから、坊ちゃまも』
「……その人たちは今、どこに?」
その問いにチヂが答えることはなく、零夜はやはり、と確信する。
「ここに落ちたんだね」
膝の上で、チヂが震える。
『どうしようもなかったの。あの日……奥さまと坊ちゃまと一緒に、お屋敷の大広間で遊んでいたの。そしたら急に真っ暗になって……』
丘の上に建つ大屋敷には、三人の人間が住んでいた。屋敷の主人は、見目醜悪なミトラを飼う変わり者だった。変わり者ゆえに屋敷に人は寄り付かず、広さの割に使用人の一人もいない有り様だったが、家族はとても仲が良かった。
「チヂ、おいで」「すてきな香りね、チヂ」「チヂ、遊ぼう」……
与えられた名を呼ばれるたびに、チヂは喜び、幸福な香りを振り撒いた。
ある日……本当に、何の変哲もないある日のこと、屋敷は闇の中に引きずり込まれた。一切の予兆はなく、従って何の対策もしようがなかった。運が悪かったとしか言いようがない。
屋敷の真下に営巣した暗闇のミトラは、真上にある生き物の巣を地下に取り込み、土をかぶせ草を茂らせて蓋をした。はたから見れば、屋敷があったはずの丘が瞬時に更地になったように思えただろう。それほどまでに見事な
かつての屋敷を幻視するように、零夜は辺りを見回した。さっき三人が走ってきたのは、屋敷の廊下だったのだ。そして、ここは大広間。丘の上に建つ屋敷はさぞ立派だったのだろう。今ではすっかり暗闇に支配され、真上を通る人間を捕食するための捕獲籠になってしまったが……。
「ってことは、ここは地下に埋もれた屋敷の中で、出口なんてどこにもないってことか?」
零夜から事情を聞いたキヤが、不機嫌そうに言う。
「やっぱ、一か八かで屋敷ごと壊すしかないんじゃねえか?」
「でも息が苦しくないってことは、どこかに通気孔みたいなものがあるってことだろ。そこから出られるんじゃないか?」
「その通気孔を、どうやって探すんだよ」
「それは……」
再び交わされ始めた議論の中、チヂが「くう」と小さく鳴いた。
『人間、お外に出たい?』
「うん」と零夜が頷く。
「ここから出ないと、いつかは餓死しちゃうし」
『そう。……ねえ人間、お腹を撫でて』
チヂの要求のままに、零夜は手探りで膝の上のチヂを撫でる。滑らかな腹は人の肌のような木の幹のような、奇妙な手触りだった。
しばらく撫でられて満足したのか、チヂは仰向けの状態から姿勢を正す。
『ほら、これを持って行って』
かさこそと何かを探る音の後、零夜の手に何かが握らされた。生い茂る枝葉の束。そういった感触のものだった。闇の中を舞う甘い香りが、いっそう濃く零夜の鼻腔をくすぐる。手に持っているものこそが、匂いの発生源のようだった。
『最後のひとたばなのよ。大切にしてね』
「これって……」
『あたしの花よ。背中に咲いてるの。あいつらは、あたしの香りが嫌いだから、その香りを持っていれば、あいつらに襲われないわ。
出口は、屋根裏にある跳ね上げ窓よ。あいつら、そこから息をしているの。奥にある大きな階段を一番上まで行って、突き当りの部屋のはしごを上ったら、外に出られるわよ』
一気に言われ、零夜はチヂを見つめた。もちろん暗闇の中では、見つめたと言っても闇以外の何ものも視界には映らない。それでも零夜は、膝の上の小さな生き物を、穴が開くほどに見つめた。
「チヂ、出口が分かるのか?」
『そうよ。奥さまと坊ちゃまも、あたしの花を持って、そこから逃げたのよ。だから、あなたたちも出られるわよ』
「じゃあ、どうしてチヂはここにいるんだ?」
『あたしは……』
屋敷が闇に呑み込まれた日、婦人と坊やはチヂとボール遊びに興じていた。チヂの匂いを嫌うミトラは大広間に近付くことが出来ず、捕食対象は、別の部屋に居たもう一人の人間に向いた。
『あたしたちが見付けた時、旦那さまは脚を食べられてしまっていて、奥さまは一生懸命、旦那さまを運ぼうとしたのだけど……旦那さまは……坊ちゃまを連れて逃げなさいって……チヂも逃げなさいって。でも、あたしがいなかったら、旦那さまは食べられてしまうから……あたしは……』
熱い雫が零夜の膝を濡らした。今この空間に、零夜たちのほかに生きているものの気配はない。「旦那さま」が、既にこの世にないものであることは明白だった。
しかしそれでも、チヂはここを動かなかった。どこかの時点で息絶えたであろう「旦那さま」の側から……或いは、幸福な思い出の満ちたこの屋敷そのものから、離れられずにいるのだ。
「チヂも一緒に逃げよう」
膝の上のチヂを抱き上げ、零夜は言った。チヂは少しの間、零夜の腕の中でじっとしていた。じっと動かずに、暗闇の中でも確かな感覚……人間の体温に、頬を擦り寄せた。
『ありがとう。でも、だめよ』
「いてっ」
二の腕に鈍い痛みが走る。甘噛みよりも少しばかり強い力で噛まれ、零夜は思わずチヂを取り落した。背に負った匂いを失ったチヂの姿は、闇の中に瞬時に溶けてしまう。
『行けないわ。だってチヂは、ずっと旦那さまのおそばにいるって、決めたんだから……』
手に持ったチヂの花束が、むせ返るような匂いを発している。
『さよなら、人間』
それきりチヂは一言も発さず、零夜の前にはただ闇が広がるのみだった。
来た時のように、三人は手を繋いで暗闇の中を行く。来た時と違うのは、もう走る必要はないということだった。手に持ったチヂの花が、暗闇からの魔の手を退ける。
壁伝いに大広間の出口を探し、階段を登る。チヂに言われた通り突き当りの部屋に入り、手を伸ばしながら一周する。すると右奥の壁伝いに、確かにはしごがかかっていた。
「ねえ。その花の香りがあったから、チヂは食べられずに済んでたのよね」
暗闇の中で、ティエラがぽつりと言った。
「最後のひとたばを私たちにくれたってことは、あの子は……」
「余計なこと考えんな」
キヤが一喝する。「まだ助かったわけじゃないんだ。今は、ここから出ることに集中しろ」
彼の言うことはもっともだった。襲われる心配がないとはいえ、暗闇の中を手探りで突き進んでいると、体力と気力を消耗する。この部屋に辿り着くにも相当の時間がかかった。ここから更に、はしごを上り、跳ね上げ窓を開けるという複雑な行程を、一切の視覚情報を奪われた中で完遂しなければならないのだ。
どこかの部屋で何か大きなものが動く気配がして、屋敷の柱がわずかに軋んだ。
その日、丘の上で突如として三人の人間が姿を消し、夜にまた同じ場所に現れたことになど、誰が気付くこともなかった。
跳ね上げ窓の先に満天の星空が現れたとき、三人は抱き合って喜ぶこともなく、再び人喰いミトラに呑み込まれないようにと急いで丘を離れた。低地まで下りてからようやく崩れるように座り込み、疲れた顔を見合わせて、互いの無事を確認し合う。夜とはいえどあれほどの闇はなく、丸い月影が目に眩しい。
月明かりの下で、チヂの花はいっそう芳しい香りを放っているようだった。六枚の花弁が、汚れのない白色に輝いていた。
その日はもう動く気力もなく、その場に簡易的な野営を張った。日が昇ってから、三人は本来の目的地である、丘の向こうの村を訪れた。
レンガ造りの建物が立ち並ぶ、素朴な村だった。旅に必要な物資の補給をしなければならない。商店の場所を訪ねようと人影を探したところ、ちょうど表通りへ出てきた男がいた。顔を突き出すようにして左右を見渡した彼と、ばちりと目が合う。「あの」と、先に声を出したのは彼の方だった。
「その花を一体どこで?」
彼が指差しているのは、零夜の持つ白い花だった。
「それは、チヂの花だ」
うわ言のように呟いて、壮年の男は甘やかな香りを確かめるように、大きく息を吸い込んだ。
「もしかして、丘の上の屋敷の……『坊ちゃま』?」
零夜が言うと、彼は驚いたように、涙の溜まった目を見開いた。
チヂの花束は、小さな石塔のそばに供えられた。広い墓地では、濃い香りも風に希釈されてしまう。ふとした瞬間にそばを通り過ぎる、死者の気配によく似ていた。
「母は最期まで、父を連れて逃げられなかったことを悔やんでいました」
石塔に
「でも、チヂがそばにいてくれたのなら、父は孤独ではなかったのでしょう」
風が吹き、目には見えない純白の欠片が、その場にいた人間の鼻を順番にくすぐっていく。墓地に立つ人間たちは、揃って口をつぐんだまま、空間を踊り舞う花の気配を感じていた。
花の香りは高く舞い、あの丘の上にまで辿り着く。在りし日の幸福な屋敷の輪郭をなぞるように名残惜しげに飛びまわり、やがて人の手では決して届くことのない、遠い空の果てへと行ってしまうのだ。風に乗って、どこまでも遠くへ……。
「もう行ってしまうんですか」
坊ちゃまは名残惜しそうに、出発の準備を済ませた旅人たちに声をかける。
「足止めを食らった分、進まなきゃいけないので」
零夜は丁寧に頭を下げた。危機は去り、補給も終わった。これ以上この地に長居する理由はない。
「では、さようなら」「さようなら、お元気で」
別れの言葉を交わす人間たちのすぐそばを、甘い香りが過ぎていった。
「チヂも、さよなら」
誰にも聞こえないほどのささやかな声で、零夜はそっと呟いた。
旅人を見送って、坊ちゃまはまたいつもの日常に戻った。これまでと違うのは、心に滞留していた暗い思いがいくらか晴れたことだった。
幼い日の幸福だった日々を思い出すたびに、彼の眼前には逃れようのない暗闇が広がった。けれど今では、命綱のように差し出されるチヂの香りが、明るい場所へと心を引き揚げてくれる。
「チヂ、おはよう」
毎朝のように墓地へ通い、石塔に寄り添う白い花に声をかける。花はたくましくもその場に根付き、光へと向かって枝葉を伸ばし始めていた。
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