春の再会
しらす
春の再会
夜明けの空のような淡いすみれ色の瞳を覚えていた。
共に旅した時間は長かったようで、短くもあった。けれどその印象的な瞳の色だけは、どれだけ時間が経っても忘れようがない。
実の親子ではないと言いながら、自分の娘を本当に愛しているレンと、そんな彼女を見上げながら無心に付いていくリコリス。
あの頃の二人はまさしく母と子だった。それは共に旅をする私にとっても同じで、二十四歳のレンは若いながらも母親だったし、十歳のリコリスは可愛い小さな女の子でしかなかった。
だが月日がいつまでも、少女を少女のままでいさせておくわけがない。
それに気付かないでいた私を嘲笑うかのように、十年の時を経て再び私の前に現れたリコリスは、背後から声を掛けた私に振り向くと花がほころぶように微笑んだ。
「お久しぶりです、リアムさん」
その無防備すぎる笑顔に、私は思わず言葉を失ってしまった。
「新入生が来るんだ、リアム。君の後輩のストーム君は去年卒業しただろう?今度はその子を君に任せることにしたよ」
先週末の午後、私を学長室に呼び出した師匠のソワレは、開口一番そう言ってにっこり笑った。
「えっ、またですか。私に後輩の指導は向いてないとよく分かった、って言いませんでした?」
「言ったね、確かに。君には本当に向いてない。君より気の利く後輩じゃないと、君の方が振り回されるだけだね」
「分かってるんならもう止めてくださいよ、そんな貴重な人材をわざわざ私に預けてどうしようって言うんですか!」
思わずテーブルを叩きながら抗議したが、彼女には笑って流されてしまった。
師匠にその手の抗議が通じたことはかつて一度もない。分かっていながらつい怒鳴ってしまうのは、もはや習慣のようなものだ。
私より一歳下の彼女は、自由奔放なようで周囲をよく観察していて、一般人の私に魔法使いの才能を見出してくれた人でもある。
今もこうして、曲がりになりも自分のしたいことだけをして生きていけるのは、彼女と出会えたお陰だ。だからその師匠の頼みとあらば、引き受けないわけにはいかなかった。
まずは裏門で待機する新入生に挨拶をして、学長室へ案内して手続きを済ませてから、校内を案内する。今日の私の仕事はそれだけだ。
そして今この場にいるという事は、彼女が学長に世話を頼まれた新入生だということだ。つまり私は、これから数年間を彼女の先輩として面倒を見ながら、生活を共にすることになる。
それはよく分かっていた事のはずだ。やって来るのが年頃の女性だという事も、もちろん聞いていた。だがそれがどういう事だったのかを、今更のように思い知る。
後輩を任されることには抗議しながらも、ほとんど平常心で引き受けた私を、ソワレは半笑いの顔で見ていた。その理由がよく分かった。
彼女はいつも、私がまるきり予想もできないでいる何かを、唐突に目の前に突き付けてくる。
「想像力が足りないよ。君の魔法は理論だけはしっかりしてるけどね、たまにはその先を考えてから組み立てた方がいい」
昔から口癖のようにそう言って私を窘めていた、その言葉の意味を改めて認識する。
「お元気でしたか?」
返事ができない私の様子をどう思ったのか、リコリスは首を傾げて私の顔を覗き込んできた。
さらさらとなびく長い香色の髪。陽の光に晒した蝋のように白い肌。熟したサクランボのようなつやつやと赤い唇。濃い栗色のワンピースに白いケープを羽織る細い体は、折からの風に吹き流されそうな気さえする。桜貝のような繊細な爪をした細い指で、顔にかかる髪をかきあげると、その透き通る紫水晶の瞳が真っすぐに私を捉えた。
「リコ…」
ずり落ちかけた眼鏡を押し上げ、その瞳を見返した。懐かしい名前が口からこぼれるように出てきたが、それ以上の言葉が続かなかった。
少女だったあの頃の面影ははっきりとあるのに、目の前の女性と彼女は別の生き物のように思える。にも関わらず、私に向けられる笑顔は十年前のそれと殆ど変わらない。
時の流れに眩暈がするような気分を覚えた。
十六歳の冬に、私は故郷で起きたある事件を契機に、魔法の師匠であるソワレと共に旅立った。
師匠と言っても当時のソワレはまだ十五歳の少女だった。そして何より、魔法の師匠でありながら全く魔法が使えず、薬一つ作るのにも私が代わりに行う必要があった。ではどうやって路銀を稼いでいたのかと言えば、魔力を持たない代わりに常人離れした身体能力を持っていたため、肉体労働や護衛の仕事で稼ぐのが常だった。
そんなソワレとの旅は、正直なところ最初の内は苦痛でしかなかった。
他者と上手に関わる事が出来ない私は、いつも本ばかり読んでいたせいで目が悪く、十三の歳には眼鏡を掛けていた。
体力も筋力も運動能力も、判断力や決断力ですら、妹を助けようと素手で城壁を乗り越えるソワレとは比べるべくもない。護衛の途中で初めて盗賊に遭った時は、恐怖と混乱で用意していたはずの護符を発動させる事すらできず、客と一緒に震えていて彼女を呆れさせた。
そんな旅が一月ほど続いた頃、ある港町で出会ったのが、夫を捜して旅するレンとリコリスの母子だった。
「あなたは魔法使いなんですか?それなら少しお聞きしたいことがあるんです」
直前に空の船が港に戻るという事件が起きて、足止めを食ったソワレは非常に不機嫌だった。海を睨んで動かない彼女の代わりに、私は当座の宿や食事を調達しに行った。
それが戻ってみたら、黒髪の背の高い女性と幼い少女の二人と一緒で、しかもそんな話をしていたので、どうするつもりなのかと私は内心ひやひやした。
当時、魔法使いというのは異端の存在だった。危険な力の持ち主であり、しかし必要とされる場面も少なくなく、一つの集落に集められて出入りを管理されていたのだ。
普通の人ははまず、魔法使いと知って声を掛けて来ることはないし、用があったとしても好意的な態度は取られない。それなのに、ソワレの八つ当たり気味の愚痴を穏やかに聞き流し、丁寧な言葉で質問してくる旅装束の親子連れ。これほど怪しい人間はちょっといないだろう。
だがソワレは無警戒で、私が慌てて駆け戻ると「宿は決まった?」とこちらを見上げてきた。
「この人はレンさん、娘さんはリコリスっていうの。あ、こっちは弟子のリアム。あんまり表で話してるとヤバそうな感じだから、とりあえず宿に行きましょ」
そう軽く紹介だけすると、ソワレは母子を手招きして宿に向かおうとするので、私はかなり困惑してしまった。
「ヤバいって何ですか、師匠?あまり危ない事は困りますよ」
魔法使いに聞きたい話で、しかも表で話すのは危険とくれば、厄介ごとなのは容易に想像がつく。それでなくとも旅の目的自体が厄介ごとなのだ。道中も危険が多く、ようやく慣れて体力が付いてきたとは言え、この上更に危険な事に巻き込まれると正直私の身が持たない。
何とか思い留まってくれないか、深く関わらないで済ませてくれないかと、焦ってソワレを止めようとしたが、彼女は聞き流してどんどん行ってしまう。
そんな私の表情をしっかり見ていたのが、レンのコートに隠れるように歩いていた幼いリコリスだった。
「お母さん、お兄ちゃん困ってるよ。本当にいいの?」
初めて声を上げた彼女に、私は少し驚いて視線を落とした。それは他の二人も同じだったようで、不意に立ち止まると六つの目が彼女に集中した。
そんな年長者たちの反応を見て怯えたのか、リコリスはレンのコートの裾を掴んで顔を隠しながらも、不安そうに三人の顔を交互に見回した。
「こんな小さな子に気を遣わせてどうすんのよ、まったく!ごめんね、このお兄さんほんと気が回らないのよ」
私はソワレに思い切り後頭部を叩かれた。そのまま頭を押さえて強制的に下げさせられ、リコの顔が間近に見えた。瞬間、その瞳の色に驚いた。
小柄な上にフードを目深に被っていたので、その時まで彼女の顔はほとんど見えていなかったのだ。初めてはっきりと見えた瞳は、まるで夜明けの空のような、日に透かした紫水晶のような、淡く透明な美しいすみれ色をしていた。
その美しい二つの目が、心配そうに私を見つめていた。自分たちが声を掛けたことで、困らせているのではないかと気遣っている目だ。
見るからに幼い少女なのに、人の気持ちを正確に読み取り、そして素直に気遣う。そんな相手に勝てるわけがない。
「ご、ごめんね…その、そういうつもりじゃなくて」
いたたまれないような気分になって、なんとか笑顔を作って見せながら謝ると、やっと彼女は笑顔になった。
出会いからしてそんな有様だったから、その後二人と一緒に旅をし始めると、私は女性陣に頭が上がらなくなってしまった。
元盗賊だというレンは、周囲を探索してリコリスを守ることに徹しながらも、戦いの場では的確に相手を無力化していくので、私の出る幕はほぼなくなった。その上、旅に出る前は宿屋で働いていたらしく、炊事、洗濯、掃除に裁縫と身の回りのことは一通りできる人だった。
いつも手伝いをしていたというリコリスも同様で、十歳とは思えないほどてきぱきと動き、何かと手伝いをして回った。
ズボラな師匠の世話を焼けるのが私の唯一の取り柄と言えたのに、賢く細やかで優しい女の子が一緒だと、全部先回りされる上に私の方が気遣われてしまう。
「いいんだよ、この弟子は好きでやってるんだから」
察しているのかいないのか、ソワレが時々そう言って止めてくれたが、「私だけ何もしてないの、いやだから」と言ってリコリスは手を止めようとはしなかった。
やがて日常の手伝いに留まらず、彼女は私が薬や護符の準備をしていると、それも手伝うようになった。
「危ないから触っちゃダメだよ。手順を間違えると薬の効果が無くなるしね」
流石にこればかりは関わらせるわけにはいかない、と思って止めたが、彼女に手伝われると出来上がる薬の効果はむしろ安定した。護符も狙った通りの効果を発揮するので、悔しいことに彼女がいる方が良いものが作れるのだ。
「最近腕を上げたね、リアム。何か掴めたのかな?」
ソワレにそう問われた時、私は答えに詰まってしまった。その頃にはとっくに、これはリコリスの手伝いのお陰だと気付いていた。
「何を作ってるの?」と興味津々で訊かれるので、私は彼女に遠慮してもらうつもりで毎回答えていた。きちんと説明すれば、よく分からずに手を加えるのは危険だ、と理解してくれると思ったからだ。
だが私の説明を正確に理解したリコリスは、材料を使う順番に並べたり、必要になるタイミングで道具を用意したりと、むしろ邪魔にならないよう的確に補助してくれていた。おかげで失敗はしないし、材料を加えたり加工したするタイミングがずれることもない。材料の無駄も減っていた。
冷静に周囲を見て動くことができるリコリスの、それは才能だったのだろう。
戦闘に巻き込まれても必ず人目につかないところへ身を隠し、武器を持てなくとも足を引っ張ることはなかった。
危険な旅の妨げにならないどころか、人を和ませ、しっかりと手伝いをし、出来ないことには手を出さない分別も備えている。
そしてそんな彼女が、いつの間にか自分を慕って付いて回るようになっている事も気付いていた。
何かが変わったとしたら、それは全てリコリスの存在ゆえだった。
分かっていたのにソワレに問われて、そうと答えられなかったのは、私が彼女に嫉妬していたからだ。
十六で村を出るまで、私は自分に出来ないことばかりを求められる環境に苦しんでいたし、師匠に魔法使いとしての才能を見出されるまで、自分は全くの無能なのだと思っていた。
それが力を認められて外に出たとたん、俄然欲が出てしまった。自分はもっとやれるはずだ、もっと多くの人に認められたいと、胸を破裂させんばかりに暴れる自尊心を、リコリスはひどく刺激した。
相手はまだ十歳の女の子だ、ちょっと年上の男が身近にいるだけで慕うような、可愛らしい子でもある。それも分かっているのに、慕われることさえ少し憎らしかった。そんな気持ちをどこにも出せなかった私は、とうとうソワレの問いにこう答えてしまった。
「少し慣れて来たんだと思います、考えなくても手順通りに体が動くようになってきて。ただ……リコが来ると少し気が散るんです」
「そっか。ならあの子にはなるべく近づかないように、今度はきちんと注意するよ」
苦笑して頷いたソワレは、そこでふと真顔で私の目を見た。
「リアム、私の弟子は君だからね。これからもしかしたら、他にも弟子を育てることだってあるかも知れない。だけど、師匠が魔法の使えない私みたいなのでいいと言ってくれるような奴じゃないと、私は何も教えられないんだよ。だから君が弟子になってくれて、私は感謝してる」
両目に穏やかながら真剣な光を湛え、噛みしめるようにそう言うソワレの髪を、その瞬間強い風が巻き上げた。
ああ、この人に隠し事など最初から無理だ。私が本当は何を思っているのかを察して、そして私と同じような思いを抱えているからこそ、こんな事を口にしてくれるのだ。そう感じて、身震いするような思いだった。
「ありがとうございます、師匠」
頭を下げてそれだけ言うのが精いっぱいだった。
その後、ソワレは約束通りリコリスを遠ざけ、私はまた失敗が増えるようになってしまったが、旅路は心穏やかに過ぎて行った。
やがてレンの夫が見つかり、ひと騒動あったもののそれも何とか収まると、三人はどこか落ち着く土地を探すと言って別れることになった。
別れ際、リコリスは私の前に立つと、顔を伏せて私の上着の裾をぎゅっと掴んだ。
「また会える?」
「うん、大丈夫だよリコ。私たちはまだ旅を続けるし、いつかまた会えるよ」
微笑んでそう答えると、リコリスは顔を上げて私の目を見た。そしてこくりと頷き、にっと笑って見せた。
「じゃあリアムさん、またね!」
そう言うと、彼女は手を振りながら両親の元に戻って行った。その明るい瞳は無邪気ながらも、何か決心したような、はっきりとした光を帯びていた。
「リアムさん、あの…どうしました?」
物思いに沈みかけた私を、心配するようなリコリスの声が現実へ引き戻した。
「ああ、済まないリコ。今日来るのが君だとは聞いてなかったから、驚いてしまってね」
君の変貌ぶりに見惚れてしまったんだ、などと言う正直すぎる気持ちは咄嗟に伏せた。十年もたてば、そのくらいの気遣いはできるようになったつもりだ。
「えっ、そうだったんですか?私てっきり、知り合いだから迎えに来てくださったんだと思ってました。これからお世話になるリコリスです。よろしくお願いします」
リコリスは改めて背中を伸ばし、丁寧にお辞儀して挨拶した。そんな彼女に聞こえないように、静かにため息を漏らす。
私たちとの旅の間に、彼女は魔法使いに憧れたのかも知れない。私の話をしっかりと聞き、いつも付いて回っていたのは、自分も同じことができるようになりかった、ただそれだけだったのかも知れない。ふとそう思うと、急に寂しいような気分になった。
慕われていると感じるのは、苦痛でもあったが、同時に少し嬉しくもあったのだ。
今になってそんな自分の素直な気持ちを痛感して、猛烈に情けなくなってしまう。
あの別れの時の、何かを決意したような瞳は、いつか魔法使いになるという彼女の意志の表れだったのかも知れない。
ソワレは気付いていたのだろうか。おそらく気付いていたのだろう、私の敬愛する師匠は、人の思いを正確に汲むことができる人だから。
がっかりしていても仕方がない。しゃんとしろ、今日から私は彼女の先輩なのだ。そう自分に言い聞かせて、私は曲がりっぱなしの背筋を伸ばした。
何度押し上げてもずり落ちる眼鏡を一度外して掛け直し、リコリスの顔を正面から見つめて、姿勢を正してお辞儀を返す。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします。行き届かない先輩かも知れませんが、困ったことがあればいつでも頼ってください」
「はい、ありがとうございます」
顔を上げると、リコリスと目が合った。すると彼女は、春の風に溶けるようなすみれ色の両目をすっと細めて、また嬉しそうに微笑んだ。
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