奔流に溶ける
「仕事ですか?」
普段は家に閉じ篭って小説ばかり書いている友人が、珍しく私の家までやってきた。
執務机に向き合う私は一拍遅れて、書斎に入ってきた友人を見上げる。家人が彼を招いてここまで案内してくれたのだろうが、傍で声をかけられるまでまったく気づけなかった。
それほど集中していたつもりはなかったのに。
「外出とは珍しいな、槿(きん)」
「原稿を郵便に出してきたところです。たまの外出もいいものですね、陽(よう)」
槿は執務机の背後にある窓へ歩み、外を覗き込む。
特に面白くもない風景だ。家の塀があって、その外に混み混みとした町がある。ただそれだけのものだ。私が船を使ってあちこちの国で商売をしているから、見慣れた風景をつまらないと思うのだろうか。槿はずっと家で仕事ばかりしているから、見慣れた町も新鮮に感じるのかもしれない。
生業も、好きなことも、性格も、情熱を傾ける先も、私と彼とでは随分違っている。
それでも、私と槿は二十年来の親友だった。
窓の外を見つめる穏やかな瞳。ほっそりとした輪郭に、白い肌。今日の槿もあまり顔色がいいとはいえない。本人は平気かもしれないが、日に当たっていても顔が青白く見える。
槿は子供の頃から病弱だった。
そして医者からも、あまり長くはないといわれている。
槿は私にその話をしたとき、とても穏やかな様子で、まるで世間話でもしているかのようだった。何故そんなことをこんなに穏やかに話せるのかと、私は随分と腹立たしく思い、そして虚しい気分に襲われたのだ。
「それで、何をなさっているのです」
槿の視線が執務机に向けられる。その視線の先は、白い便箋に途中まで書いた手紙だろう。
「なに、ただの仕事関係の書簡だ。事務的なものだな。書くことも大体決まっていて面白味がない」
「おや、好いではないですか。私は手紙が好きですよ」
槿が微笑んだ。
槿の笑みは弱々しい。
花のようだと思った。
満開になった花の、あとは朽ちるだけであるのを想像させるような、そんな儚さを思わせる。寝込んで苦しそうにしているときよりはずっといいのだけれど。
私は、槿の笑みを直視できない。
目を逸らす。書きかけの手紙がある。
「離れていても言葉を交わせるというのは、素晴らしいものではないですか。私は、陽が送ってくれる外国の絵葉書が好きですよ」
よく商売で外国にいるとき、その国で売られている絵葉書に近況やその国の様子を記して槿に送っていた。
初めて外国に行ったとき、槿に何か現地のものを送ってやろうと、ふと目に留めたのがその国の絵葉書だった。
絵葉書のことで、嬉しかったとかありがとうとか、そういうことを言われたことはない。今初めて槿の口から絵葉書と言われて、何だか照れくさい気分になる。自然と表情が険しくなった。
「友の手紙というのはいいものですね。海の向こうを飛び回るあなたとの繋がりが認識できる。私も手紙を送ってみたいものですが、同じ町内では、ありがたみが薄れますかねえ」
「遠ければ遠いほどありがたいものか」
「海の向こうからくるから、そう思うのかもしれません」
「手紙に距離など関係あるまい。遠くとも近くとも、言葉を贈ることに変わりはないのだ」
「そうかも、しれませんね」
槿が柔らかく笑いながら、小さく咳をした。
「また、外国に行ったら書いてくださいますか、陽」
「暇があったら、書いてもいい」
「ええ、期待していますよ」
槿に手紙を書こうと思った。
けれど、書くことが見つからない。
会うことさえできれば、きっと自然と話題は出てくる。すらすら話すことができるのだろうが、便箋に向かってみるとどうにもいけない。
あれを書こうか、最近のこんなことを書いてみようかと、頭の内だけが蟠った糸玉のように滅茶苦茶だった。無駄な思惟だけが頭の中で積み重なっていく。
長い間真っ白な便箋と向き合っていた。便箋にペンのインクが滴って黒い点を穿ってしまう。
気づいたときには、黒々とした小さな点が便箋にひとつ、落ちていた。慌ててペンを仕舞ったが、便箋についたインクはどうすることもできない。もったいないが便箋を変えようか。変えたところでまたインクの水溜まりを作るだけになるだけの気がする。
一度机から離れることにした。
家の外へ出る。夏の熱気に包まれ、全身が汗ばむ。部屋に篭っていても暑いだけだが、外は皮膚を炙るような熱気が漂い、容赦なく強い日差しが照りつけてくる。
もう初秋だというのに、まだ夏の暑さのままだった。
暑気の激しい日中は清々しいとはいえないが、肌に外気を感じて呼吸すると、肚の内に淀んでいた空気が新鮮なものになる。頭の中もすっきりした気がする。
槿と手紙の話をしたのはどれくらい前になるだろう。
外国を飛び回っても、絵葉書を送ることはなくなった。
外国の町で絵葉書を見つけるたびに、これを送ったら喜ぶだろうとか、何を書くといいだろうとか、絵葉書を送っていた頃の習慣からものを考えてしまう。絵葉書のことが頭をよぎると、たまらなく虚しくなった。
そのまま庭に向かった。
家人が庭に植えた木槿が朽ちていた。
夏の間は真っ白な花を咲かせていたというのに。
朝に咲いては夕に朽ちる。一日花の木槿の花が、私はあまり好きではない。
萎れ、朽ち果てた木槿をしばし見つめた。
どれくらいそうしていただろう。
西日が庭を染め始めている。夏の空が黄金色に染まって、夕の光が漂う。
言葉を伝える手段がないというのは、ひどくもどかしいものだ。
感じている何かを言葉にしようと思う。それなのに、湧き上がってくる感情の奔流がいつも喉で詰まって、言葉になる前に胸の奥で熱を持って消えていってしまう。
結局私は、自分の心に一番近い言葉を掬い上げられずにいる。伝えたいと願う感情のようなものは肚の底に沈んで、黒く淀んで凝っていく。
直接でも、手紙でも、伝えられたらどれほどいいか。
伝えられなくなってから気づいても遅いというのに、身体の内に蟠るいくつかの感情を吐き出さずにはいれない。けれどひとつとして言葉にはならなかった。
槿に手紙を書こうと思った。
けれど書くことがどうしても見つからない。
槿に手紙を送ることは、もう二度とできない。
手紙を出しても決して届かない場所に、行ってしまったのだから。
身体が弱いくせに、無理に物語を書いていた。自分の命を削るようにしてずっと小説を書いていた。短い命だと悟っていたからこそ、寝食を忘れて時間切れになる前に書き上げようとしていたのかもしれないが。
そうして木槿のように花開いて、短い命を散らしてしまった。
槿は、遠ければ遠いほど手紙はいいと言っていた。
だが、手紙を送るには、今の私と槿のいる場所は遠すぎる。
槿への手紙といいながら、所詮は自分の心を慰めるために感情を吐き出そうとしているに過ぎない。
白い便箋に穿った黒いインクは、思っていることすらまともに言葉にできない自分そのものだ。
夕闇の気配が緩やかな時間の中で押し寄せてくる。
朽ちた木槿の、萎れた茎を掴んで引き抜いた。
町に出る。往来を行く人の姿があちこちにある。台所から漏れる煙と夕餉の匂いがした。いつもの穏やかな町の風景だ。何もなくてつまらない、けれど、私と槿が育った町だった。
暮れゆく空には夕明かりが残っている。
直に日が完全に落ちる。寂莫とした暮れのこりが、まだ辺りを茜色に染めていた。
町の外れにある川へ向かう。
橋の上から川を見下ろした。決して深くはないが、流れは速い。せせらぎの音は頭の芯まで冷やしてくれるように涼やかだった。
川の先はどこに繋がっているのか。
遠い旅の果てに海へ行くのか。それとも、槿のいる場所に繋がっているのか。
手の内には、握りしめた朽ちた木槿がある。
本当に離れている者に言葉にならぬ想いを届けるのなら、こちらの方が相応しかろう。言葉を持てないのならば物言わぬものを手紙の代わりに送るとしよう。
これが槿のためのものなのか、私自身への慰みなのか。あるいは両方なのかもしれない。どちらでも構わない。
木槿を小川の奔流へ託す。
木槿は手を離れると川へと吸い込まれるように落ちて、あっという間に見えなくなった。
私の言葉にならない想いは、水に溶けて流れていってしまった。
槿花一朝夢 葛野鹿乃子 @tonakaiforest
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