木槿の夢は暮れのこる 三

 唐突な訪問だった。外を歩いて日差しをたっぷり浴びてきたらしい。彼の髪や皮膚に纏わりつく熱気が、近づくだけで感じられた。

「もう西方からお戻りですか」

 陽は私の言葉には答えない。旅から戻ったことは耳にしていた。

「この暑さだからな。身体は大丈夫なのか」

 私は微笑みを返す。ひぐらしが寂しげに鳴いている。

「へいき、ですよ」

 私はいつもそうするように、彼を部屋へ誘った。

 冷たいもので涼んでもらいたい。また氷の入った茶の用意をする。冷茶を持っていくと、彼は少なめの荷から水菓子を出して机に置いた。

 今日はよく冷えた西瓜のようだ。陽は冷茶をひと息に飲み干した。

「ああ、生き返るようだな」

「今日も暑いですからね。お身体には気をつけてください」

「お前に言われたくはないのだがな。顔色が悪いぞ」

「ちょうど小説が佳境なのです。早く仕上げてしまいたい」

 私は、書くことが好きだった。同じくらい、書き物に触れることも楽しい。

 誰かが紡いだ言葉に触れると、心の奥で何かがざわつく。

 冷たい水の中で、自分の心臓が熱く脈打っていることを知るような感覚。目に見えない心というものが、何に熱くなり、何に冷たくなるのか。私の心に呼応する言葉を探している。

 草の葉の露のきらめきの儚さを、燃え落ちるような夕日の切なさを、それらを見たときに悲しくなる意味を、人は知りたいと思う。

 様々な書物に触れることで、自分の心の底に沈む。手探りで言葉の海を漂い、心に一番近い言葉をひとつずつ見つけて集める。

 そうすることでその人だけの文章を編む。その人だけの海になる。

 その海にしかない言葉に頭まで浸かって、深層へと沈んで、息が苦しくなるくらい溺れて、この心臓の鼓動と共鳴する何かを探し続ける。

 本から本へ、言葉から言葉へ、紙の上を渡り歩く。心にいちばん近い言葉を見つけることで、私はようやく自分を、世界を捉えることができる気がするからだ。

 人には言葉がある。夕空が赤いのに、花が朽ちるのに、何の意味もなかったのだとしても、人だけがそこに意味を作って喜んだり悲しんだりすることができる。

 夕日に、花に、流れる時間に、美しい名前をつけたのは人なのだから。

 だから私は言葉を編む。四季の移ろいに、空の色の変化に、雨の匂いに、とてつもなく悲しくなる理由を探している。

 そしてきっと、同じように悲しくなる人を捜している。

 陽の顔は険しい。

「いつ寝た? ちゃんと食べているのか?」

「大丈夫です。もう少し、なんですよ」

「そういうことを聞いているんじゃないぞ」

 苛立つように声を荒げる友人に、私はただ微笑みを向ける。

「お前は、書くために無理をしすぎる」

「性分でして。ずっと書いていたいのです」

「それで倒れて、書けなくなったらどうする」

 陽が切った西瓜を、私は口の中に滑り込ませる。ひんやりと冷えた果肉が身体を内から冷やしていく。けれど、胸を焦がすような熱い拍動はどうやら収まらないようだ。

 どうやら私の心の臓は、終わりの時へ至る歩みを緩めてはくれないらしい。

「私は、人は自分の才の奴隷であるべきだと思います。それに殉じてでも、人には尽くさねばならないものがあると、私には思えてならないのです」

 この命が尽きても構わない。

 木槿の花のように夕映えに散ろうとも、私は私を傅かせるものに尽くし通す。

 夢の光景が頭によぎる。陽が泣いている。私の亡骸の前で。

 夢が私の中で重なる。葬式の夢と、書きたいものを書き上げる私の夢。

 私はできるだけ多くのことを書きたい。そのためなら、何を捨てても構わない。

 その結果が、あの夢に繋がるのだとしても。

「きっと私は、夕方に朽ちることを自覚した木槿の花なのでしょうね」

 咲き誇るならば、夕べに死すとも厭わない。

「槿、お前の生き方は、お前のものだ。だが、お前はひとりで生きているのではない。私にお前がいるように、お前には私がいるのだ」

 陽は、私の命を惜しんでくれている。

 どれほど私を友として想ってくれているのか。どれだけ感謝しても足りない。

 私が彼にすることといえば、いずれは死んで彼を悲しませることだけだ。

 それだけが、とても悲しい。

「ありがとう、陽」

 私が伝えられることは少ない。陽は、何かを噛みしめるように下を向いた。

「……次は、少し遠くに行く」

「そうでしたか」

「帰ってくる頃には、木槿の花も終わりであろうな」

 陽の声は重く低い。諦めるような、惜しむような、痛むような、苦渋に満ちていた。

 私は私の夢に殉じ、彼は彼の夢を追い続ける。

 そして私は、ただ彼を見送る。

「お気をつけて。どうかお健やかに」

「さらばだ、槿」



 暮れなずむ空の下で、木槿が枯れかけていた。

 この花の命も、今宵の内に失われるのだろう。

 この世にあるものには、限りがある。深山の大木さえいつかは朽ち、堅牢な城さえ年月に風化する。ましてや花の命は短く、大空を飛ぶ鷹もいずれは墜ちる。

 限りある時の中で、日々はただ過ぎ去っていく。

 ペンを進める手が、焦るように手早く動く。あと少し。あと少しだけ。

「うっ……!」

 心臓を抉られるような痛みが胸を貫く。

 思わず胸を押さえる。ペンを取り落としそうになる。

 心臓がきつく絞り上げられるように痛み、呼吸ができなくなる。視界がぼやけて、ぐらつく。私の視線は宙を彷徨い、天井を、机を、私の足元を映して揺らぐ。

 熱く焦げるような、私の胸で燃える太陽。今にも燃え尽きる。

 さいごの命を燃やそうと、熱く、激しく、私の身体の中を渦巻く。

 悔いはない。私は自分の思うように生きて、自分がやるべきだと思ったことをやってきた。そのために限りある命を使っただけ。

 短いこのひと世。朝に咲けば夕映えに朽ちるだけでも、追いかける夢から、反復する死の夢から醒められずにいた。

 今日も部屋が夕暮れに赤く燃えている。

 一日しか咲かない木槿の花が、暮れ泥む空に散っていった。

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