木槿の夢は暮れのこる 二
目を閉じているはずなのに、周囲が見渡せた。
瞼に降りる暗がりの奥で、いくつかの情景が瞬く。
暮れ残りが白い木槿の花を茜色に染めていた。線香の匂い。細い煙が夕闇に溶けていく。
彼が私の傍に立っている。苦労で刻まれた皺が目立つ。
泣いていた。途切れ途切れに声を上げている。
喘ぐように、叫ぶように、喉を震わせるように。喉の奥から絞り出すような悲痛な声だった。子供が大泣きするような無垢な泣き方だった。
彼の額や唇は乾いているのに、眼だけは濡れていた。彼の頬に涙が何度も伝う。目を閉じて横たわる私に涙が落ちてくる。
熱い涙だった。冷たくなった私の頬や首筋が焼けるようだった。
夕焼けが彼の瞳で燃えている。涙で濡れるほど、瞳の夕焼けは鮮やかになる。
その瞳を見上げるたび、私の、もう動かない胸が切なく痛む。
彼の叫ぶような泣き声が、私の胸に絶え間なく降ってくる。
薄暗い夕闇の中で、花の匂いがした。
今日を限りと散っていく花が放つ、さいごの匂いだった。
また夢を見た。小さい頃から繰り返し見ている夢。
私は目を閉じて眠っている。そんな私を見て陽が泣いている。
たったそれだけの夢。
その夢を見た朝は、胸の辺りがものすごく痛む。そしてどこからともなく、清廉な花と線香の匂いがふっと香ってすぐに消えていく。まるで自分が昔体験したかのような、そんな錯覚を覚えるような夢だ。物心ついたときから繰り返し、何度も見てきた。
長じるにつれて知った。
何度も見るあの夢は、葬式の夢なのだ。
私が死んで、陽が泣いている。あれはそういう夢だ。
それを知ってからの私は、どうやらそれより前の私ではなくなった。そんな気がする。
それからかもしれない。陽が見ている世界と、私が見ている世界は、まるで違うのだということに気づいたのは。
知らないはずの、友の熱い涙の感触が胸に残っている。寝具から抜け出す。
まず外に出て井戸水を汲む。生垣の木槿に水を遣った。昨日とは別の命が咲いている。
目眩がするほど暑い朝だった。日中の太陽は真っ白だ。青空にはむくむくと沸き立つ入道雲が浮かんでいる。照りつける真夏の日差しに頭の天辺がじりじり焼けるようだ。
陽は昔から日中の太陽や、草木の中に潜むカブトムシや鷹など、力強く生き物が好きだった。私は反対に、夕暮れや花や蝉や、儚いといわれるものたちが好きだった。
子供の頃から陽は、明日はあれで遊ぼう、今度何をしようと、そういうことをよく話した。今も、次はどの国へ行こうか、秋が来るからこれをしようと、やはり未来のことをよく話す。
陽はいつも、ずっと遠くに続いているだろう未来のことを見据えて行動している。
対する私はといえば、やはりこれも正反対で、毎日死ぬ太陽のことや、短い間だけ生きる花、朝の光できらめく草の露、そうした刹那的なことばかりを見つめている。
陽は明日のために生きていて、私は今日のために生きている。私はあの夢を見始めてから、そして生来の病弱という境遇から、死というものに囚われてしまったのだろうと思う。
水遣りを終えて家の中へ戻った。
たっぷり氷の入った水を何度も湯呑に注いで飲んだ。胸が焼けつくように熱く、喉がずっと渇いていた。何杯も水を呷るように飲んで、ようやくひと息つく。
机に戻った。以前陽が持ってきてくれた本を開く。詩をいくつか目で追った。
「どうして人の世を恋い慕って常に死を憂うるのか。生と死も、すべて幻にすぎない……」
儚いものは憐れなのか。短い命は惜しいのか。
私は今、生きている。過去も未来も存在しない。
人は昔体験したあらゆる物事や記憶を、頭の中で再構成することによって過去を作り出し、頭に思い描く願望や希望を見据えて未来を作り出す。けれど、それは頭の中にだけ浮かぶ概念であって、決して実在するものではない。
生きている私たちにとって、今起きていることがすべてだ。
未来とか夢とか、ずっと遠くを見ていたって、目の前にあるのは今だけだ。泡沫みたいなものを信じてはいけない。そんな曖昧なものに、私は寄りかかったりしない。
私には、今しかないのだから。
小説もようやく終盤に差しかかった。もうすぐこの物語も完成するだろう。
私は、言葉を使って何かを遺そうとしている。この生で感じる何かのために。
焼け焦げてしまいそうなひどい暑さだった。窓を開けても風はほとんど入ってこない。空気を炙ったような熱気が停滞して蒸れている。窓の外では、そんな日差しと熱気を吸って草木が青く繁り、生垣の木槿が太陽の光を乱反射して咲き誇っていた。
胸が焼けつくように熱く、喉がずっと渇いていた。何度か咳き込む。
何杯もお茶を呷るように飲んでひと息ついた頃、陽が私の元を訪ねた。
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