槿花一朝夢
葛野鹿乃子
木槿の夢は暮れのこる 一
太陽が、また死んでいく。
開いた瞼に光が強く沁みた。眼の中が潤む。夕焼けが眩しいのだ。
私は丘の草叢から起き上がる。汗ばんでいた背中が生温い風に冷える。草叢がさざめいた。
いつの間にか疲れて眠っていたらしい。立ち上がって両腕を空へ伸ばした。こんなところまで来て昼寝してしまうなんて、友にばれたら叱られそうだ。
丘に立つと、麓の小さな町がよく見下ろせた。どこまでも拓けていて見渡せる。平坦な田んぼが風にそよいで波打っていた。ゆるりと曲がりながら流れる小川。山と森。溢れそうな緑の海の中で、家々が密集している。そのいくつかの窓からはもう明かりが漏れていた。
ひぐらしが寂しそうに鳴いている。今日が終わっていくのが悲しいのだろうか。
夕日が燃えて、ずっと向こうの山の端が赤く滲んでいた。
空が燃えているようだった。毎日、太陽は燃え尽きて西に沈む。そうしてまた別の太陽がやってきて、また燃えて死んでいく。たった一日だけを生きている。私にはそう見える。
太陽は東から昇って西に沈む。そしてまた次の日には顔を出す。そういうことは知っていたのだけれど、私には太陽が毎日死んでいるように思えてならない。
暮れ泥む空は、寿命の限り自分がいたことを人に知ってもらおうと輝いている。そうして力尽きたとき、夕日はやっと西の空へと落ちて静かに死んでいく。そんなことを以前友に話したことがあるのだが、友には笑って流されてしまった。
夕焼けを見ると寂しくなる。子供の頃は、遊んで家へ帰るときにふと立ち止まって、暗くなるまでずっと夕焼けを見ていた。帰ってこない私を母が捜しに来たこともある。外で遊んでいるときも、家から外を覗き込んだときも、私は気がつくと夕日を見つめている。
太陽が死んでいく。また今日が終わってしまう。
そろそろ帰らなければ。丘を下りる。畦道を歩いていくと、稲穂のさざめく涼やかな音と蛙の声が混ざり合う。生命が発する、燃えるような夏の匂いがする。町から離れて少しでも緑のある場所へ行くと、蝉の大合唱と焦げつくような太陽の熱を感じられる。
町へ入り、家まで戻る。背の高い生垣に囲われた家は夏でも幾分か涼しい。水瓶から柄杓で水を掬って飲むと、炙られたような全身が内から冷えて心地よい。
しばらくすると、友が本を数冊届けに来てくれた。
借り物のそれを、本当は私が受け取りに行かなくてはならなかったが、私はちょうど病み上がりだった。私の容態を心配した友が私の家に寄るというので、ついでに受け取ってくると言った彼の好意に甘えることにしたのだ。
出迎えると、彼は大層な荷を抱え込んでいた。両脇に抱えた風呂敷包みは膨れ上がり、背には大きな背嚢を負っていて、中の荷が今にも溢れてしまいそうだった。部下なり家人なりに手伝わせればいいものを、彼は何でも自分でやりたがる。
夏の終わりとはいえ蒸し暑い日が続いている。彼は額に汗を浮かべていたが、涼しい顔で私に本の束を差し出した。有り難さと申し訳なさで、私は苦笑したような顔を作った。
「すみません、陽(よう)。お手間を取らせました」
受け取ると、本の重みが両手にかかる。
大したことのない重みだが、他の荷物と一緒ではやはり重かっただろう。
「よい。見舞いのついでだからな」
「どうぞ中へ。今冷たいお茶を淹れますね」
家中に陽を招き入れる。二間だけの狭い家は、窓から差し込む夕日に赤く染まっている。夕暮れが家中の暗がりに淡い闇を運んでくる。
本を奥の間にある棚に置いて戻る。急須に茶葉と沸かした湯を入れた。蓋をすればすぐ蒸れる。湯呑に氷をふんだんに入れてから茶を注いだ。
居間の真ん中にある机に、陽はぼんやりと肘をついていた。
私が湯呑を手に机に向かうと、陽は床に置いた荷の中から箱を取り出して笑った。
「行きがけに買ってきた。水菓子は好きだろう」
「これは有り難いですね。早速いただきましょう」
荷物が多いというのにそんなところばかり気を回すのだ。この無邪気に笑う友人は。
陽が箱を開ける。水菓子は桃だった。薄紅色に熟れた果実が私の食欲を誘う。
私が棚からナイフを取ってくると、陽はナイフを私から取って慣れた手つきで桃の皮を剥いていった。皿と楊枝も持ってくる。陽は一口大に切った桃の実を次々に皿へ落としていく。果汁に濡れる瑞々しい黄金色の果肉から、ふんわり桃の香りが漂う。
陽が桃を切り終える。どちらともつかずに楊枝を手に、桃を食べる。
柔らかい果肉が舌の上で蕩け、果汁が口の中に広がった。冷茶を飲むと瑞々しい甘みと一緒に喉を通り抜ける。さっぱりとした涼感にひと心地ついた。
陽はごちそうでも出されたかのように、冷茶を味わっていた。
「頼んだ本はどんな内容だ、槿(きん)」
「今回は詩です。自分でも片手間に書いているのですが、先達のものをいくらか読んでみたくて取り寄せました」
「片手間、か。小説の方は進んでいるのか?」
「ええ。ただ、ひたすら細やかに言葉を編んでいくのに疲れるときがあります。そういうときは、言葉少なく心にすっと入ってくるような詩を書くと、安らぐのです」
奥の間の机には、書きかけの小説や資料の本が積んである。
今までいくつか書いた。それらは本になった。そして今も新しいものを書いている。
生きている限り、書くべきだと思うものは増えていく。この生涯ですべてを書ききれるのか、人生の悩みといえばそのくらいしかない。
「そういう陽は、事業の方はどうですか?」
陽はひとりで興した海外との商売を軌道に乗せようと、あちこち駆け回っている。
私よりもずっと忙しい。今日の外出だって仕事関係のはずだ。
「まったく忙しくてな。お前ともっとゆっくり語らう時間が欲しいものだ」
忙しいと言いつつも、まめにここへやってきては私の様子を見にきてくれる。私には過ぎた友だ。陽は愉快そうに湯呑を口元に運んだ。
「その分順調でな。いい船が手に入った。西の国へ行って交易するのが楽しみだ」
「それは何よりです」
「また外の言葉を教えてくれ、槿」
「構いませんよ。私などでよければ、いくらでも」
私は笑みを返す。子供の頃からたくさんの本を与えられて育った私は、他国の言語の書籍を読めるほどには外国語がわかる。
それを買われて、陽に海の向こうの言葉を教えることがあった。
子供の頃、外国の書籍の内容や言葉を陽に何度も話した。そうして外国に興味を持った彼は、見たことのないものを見てみたいと交易事業を始め、海を渡り色々な国へと足を運んでいる。未だに海の向こうへの関心が薄いこの国で、彼は海よりもずっと遠い場所を見つめている。
彼には、夢がある。自分の船で海の向こうへ行って、知らないものを見て、集めて、世界中を旅したいと彼は言った。
書き物をする以外に取り柄のない私は、夢を追う彼を傍から見ているのが好きだった。
情熱に溢れる彼の瞳は燃えるようで、くっきりと夢が焦げついている。
私にも夢がある。
それは物語を書くことで追い続けているものだった。私たちは性格も価値観も追っている夢も、すべて違う。それでも、幼い頃からの親友同士だった。
窓の外へ視線を遣った。
鮮やかな夕映えだった。窓の外の木槿の白が暮色に染まっている。
陽から貰った種だった。家に庭はないが日当たりのいい生垣がある。あまり世話をせずとも生長して花を咲かせるようになった。木槿は一日花だから、朝に咲けば夕方には萎む。
毎日咲いている花は、一日ごとに違う命を咲かせている。
花が朽ちるのにはどんな意味があるだろう。
きっとそれは、咲き誇るためだ。
「木槿か。花はすぐに散ってしまうから苦手だ」
陽は、そんなことをつまらなさそうに嘯いた。
「あなたがくれた種ですよ。せっかくこんなに綺麗に咲いているのに」
花はすぐ散ってしまうから、喜んだ後で悲しむ羽目になる。情に厚い陽はそれが嫌なのだろう。幼馴染だから陽の考えていることはわかる。
「花が散るのは世の摂理です。どんなものにも終わりはある。短い命でも美しく咲き、私たちに綺麗だとか、儚いだとか、色々なことを思わせる。そうやって生きて、この世に何かを遺す。人に心をくれる。だから、私は花が好きですよ」
「綺麗だとは思う。だから好きになれん」
「けれど、誰かの心に何かを遺せるのなら、上等じゃありませんか」
そう言って私は笑った。夕焼けが一瞬強く差し込んだ。眩しくて陽の顔は見えなかった。
長くは生きられまい。医者からはそう言われている。
昔から丈夫な方ではなかった。色んな病を拾い上げ、そのたびに生死の境を彷徨った。
その過程で身体のことは仕方ないと思うようになった。弱く、短い一生ならばそれでいい。生き永らえたいとは願わないと、私は割り切っている。
だから私は、言葉で何かを遺そうとしている。
日が雲に僅かに翳り、陽の顔が見えるようになった。陽は気難しそうな顔をしていた。険しい顔をしているが、それは私を心配してのことだろう。
「倒れたと聞いた」
「もうへいきですよ。外も歩けます」
「そうやってまたふらふら夕日をに見に行くから、身体を冷やして倒れるのだぞ」
返す言葉もない。私はただ苦笑するばかりだ。
「もうじき秋になる。身体を冷やさぬようにせよ」
「わかっていますよ」
彼の口から語られる未来のことに、私は諦めたように微笑んだ。
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