どいつもこいつも面倒だ。
コカ
どいつもこいつも面倒だ。
僕の友人は少し変わっている。
田中という名前を持った、ごく普通の高校に通う、ごく普通の17歳なのだが、どういうわけだか周りから、自分が嫌われていると思っているのだ。
そんなこと無いだろう。僕がそう言うと、田中は決まって『特に、同世代の女子に嫌われている』と返してくるのだ。
この言葉を口にするとき、アイツは少しだけ目を潤ませ、悟ったような顔をするわけだが、いい加減、そのやり取りにも嫌気が差していた。
今日だってそうだ。
体育祭当日の朝である。いつものように田中と校門をくぐり、教室までの廊下をくだらない話でゲハゲハ笑いながら歩いていると、――呼び止められた。無論僕ではない。田中が呼び止められたのだ。
聞き覚えのあるその声に、ふたり揃って振り向くと、とても華奢で小柄な西洋人形のような少女がひとり。予想通りA組の鈴木さんだった。
そんな、見るからに住む世界が違う彼女が、どうして話しかけてくるのか。
それは至極簡単で、以前、彼女が妙な輩に誘拐されそうになったところを、たまたま居合わせた僕ら二人で止めに入ったことがあったからだ。
今思い出しても、アレはキツかった。それまでは彼女と全く面識なんてなかったわけだけど、『さっさと逃げろ! 』田中はああいうヤツだからな、後先なんて考えちゃいない。威勢良く犯人グループのひとりにタックル。なんとか足止めしようと試みて、結果、ボコスカ殴られるし、『頼むから走ってくれよ! 』僕は怯えて動けない鈴木さんを担ぎ、『で、でも、彼が……』なるだけ遠くを目指し全力疾走。
いやはや、彼女が小柄だからとはいえ、人ひとり分の重量だ、あの時は肺が破れるかと思った。
数分後、『お嬢! 』と、血相変えて飛び出してきた黒服の集団に、半ばついでのように助けられ、その場はなんとか事なきを得た。
顔面をパンパンに腫らし、ボロ雑巾のように地面へ転がっていた田中には悪いが、その日から妙な輩の姿を見なくなったので、まぁ良しとしよう。
そんなこんなでそれ以来、彼女は毎朝、田中へ声をかけてくるのだ。
「おはようございます、田中。今日もまた一段と貧しそうでなにより」
「うるせぇ、金持ちは向こう行け」
この会話も、もはや毎朝の日課である。
「ちょっと、朝の挨拶は礼儀でしょう! 」
「あぁはいはいそうですね。おはよーおはよー。ほら、これでいいんだろ、金持ち娘」
「ふふ、おはようございます」
鈴木さんは暴言を吐かれたにもかかわらず、嬉しそうにはにかむと、腰まで届く黒髪を弄んだ。ちなみに、彼女はこの辺一帯を所有する大地主の一人娘であり、自他ともに認める金持ちである。ただ、相対的にみるとそうなのかもしれないが、別に田中の家が目立って貧しいわけではない。
「じゃぁな」
「あ、ちょっとお待ちなさいな」
そういう教育を受けたのだろうか、どこか時代がかった口調で、鈴木さんは田中を呼び止めた。
これまた面倒くさげに顔だけを向け、田中は僕に聞こえるほどイヤミったらしく溜息をついた。鈴木さんは気付いていないのだろうか、ヤツの溜息なぞどこ吹く風で、鼻息荒く満面の笑みをこぼした。
「今日は待ちに待った体育祭。せっかくなので、賭けをしませんこと?」
「は? やんねーよ。そんじゃあな」
にべも無く田中が言い捨てると、とたんに鈴木さんの顔が悲しげに曇った。
あ~あ、泣くぞ。これは泣いちゃうぞ。
しかも彼女がこういう顔をする時、決まって僕に面倒ごとが降りかかる。
やっぱりと言えばやっぱりで、そうなるよなと言えばそれまで。
鈴木さんは僕の袖口を僅かに引っ張ると、
「……彼を止めてくださいまし。お話を聞いていただきとうございます」
でしょうね。……涙目で懇願してきたのだ。
自慢ではないが、こちとら上に姉と下に双子の妹を持つ生粋の女系家族出身である。しかも隣の家には幼馴染みの少女付き。父親は単身赴任で滅多に帰ってきやしないわけで、僕の毎日は、幼馴染みを除き、血を分けた女どものワガママで、阿鼻叫喚の地獄絵図。
そんな幼少期からの刷り込み教育の賜物か、女子に泣きつかれると、断るなんて出来やしない。
僕は、立ち去ろうとする田中の右腕をつかみ押しとどめる。ヤツもこっちを見て、僕の袖を引っ張る彼女がしょんぼりとしているもんだからさ、渋々と観念したのだろう。諦めたように、ぼりぼりと頭をかいた。
「ったく、なんだよ」
「……賭けをしませんこと? 」
「だから、なんの賭けだよ」
「聞いてくださいますの? 」
「聞かないとお前泣くし、後でコイツにお小言をくらうんだよ」
僕を指差すな。田中の手を軽く叩き落とす。その隣で、鈴木さんはまるでピーカン晴れのお日様も顔負け、百点満点の笑顔を振りまいた。
「今日、偶然にも私は赤組、田中は白組なので、ここはひとつ、負けた方が勝った方の言う事を聞くというのはいかがでしょう」
「はぁ? 」
もちろん、敗者に拒否権などはありません。なんて、無邪気に笑う彼女から何か良からぬ企みが見え隠れしているが、田中もそれには気づいているようで、
「いったい、何を命令するつもりなんだよ」
「ふむ、なんと言いましょうか。そうですね、」
その問いかけに、鈴木さんは少し言葉を探すような素振りを見せ、
「……私の小間使いになっていただこうかしら。私が白といえば白になり、黒といえば黒になるような、そんな小間使いに」
「相変わらずえげつねぇなホントに」
田中と共に、流石の僕も引いてしまった。
お金持ちは、発想まで庶民とは違うものらしい。学校の廊下で、同級生に奴隷になれと彼女は言ったのだ。
「あら? もしかして逃げますの? 殿方のくせに情けない。あぁ情けない。いっそのこと犬猫のように去勢してしまいなさいな」
さっきまでメソメソしていたのに見事なまでの早代わりである。口に手を当てて、さぞ滑稽なモノを見たかのように彼女はあざ笑う。とうぜん、単純バカの田中には有効で。
「誰が逃げるかってんだ! やってやろうじゃねぇか! 」
沸点の低いバカが吼えたとき、鈴木さんがほくそ笑み「計画通り」と呟いたのを僕は聞き逃さなかった。
「後から言い訳は聞きませんことよ? 」
「おぅ! もし負けたら何でもいう事聞くさ! 一生小間使いをやってやらぁ! 」
「毎朝、お味噌汁を飲んでくださいます?」
「ん? 朝は味噌汁だろ? まぁ、べつにいいけどな、絶対負けないからな! 」
僕は、あぁなるほどそう言う魂胆かと。そして、そういう意味じゃないだろうと、無駄に燃え上がる友人に、苦笑いするしかなかった。
なんせ、むざむざと釣り針にかかったバカだけが、自分が罠にかかったことに気付いていなかったのだから。
◇◆◇◆◇
その後、鼻歌交じりの鈴木さんと別れ、自分のクラスに入ると、田中の席には先客が居た。木村さんである。
成績は超が付くほど優秀で、すらりとした長身に、肩口で切りそろえた黒髪と銀縁のメガネが彼女の知的な雰囲気を高めているように思う。田中の席に座って近くの友人達と談笑しているようだったが、向こうもこっちに気がついたのだろう。
一度ふわりと微笑むと、
「あら、ごめんなさい」
小さな尻を上げ、田中に席を譲ろうとした。だが、――すんなりと事が進むのなら、田中はこうも歪まない。
予想通りといえば、予想通り、いつも通りと言えばいつも通り。
木村さんの、その長い美脚がアダになったのか、机の脚に自分の足を絡めてしまい、偶然にも近くに立っていた田中を巻き込み、盛大にすっ転んでしまっていた。
とっさに田中も受け止めようとしたのだけど、バランスを保とうと藻掻いた彼女の頭が的確にヤツの顎を捉え、きっとその一発で足にキたのだろう。田中は『みゅっ! 』と小動物のように鳴いたかと思うと、糸の切れた操り人形よろしく、その場に崩れ落ちた。そして、時間差で木村さんもアイツの亡骸へとダイブ。
まったく、木村さんってば。相も変わらずのドジっ子である。
それが彼女の良いところでもあるのだろうけど、そのドジがもとで、以前、この少女は妙な策略にはまってヒドい目に遭いかけたのだ。
まったくどうしてそうなったのやら。
なにやら弱みにつけ込まれたのか、はたまた騙されたのか。彼女のストーカーでもあった変態オヤジに、恋仲になれと要求されていたのだ。
そんなクソみたいなストーカーの存在だけでも気の毒なのに、そのオヤジと恋人同士、しかも遠回しに結婚まで要求されているだのなんだのと、そんな話にまで発展していたのだから、可哀想なんてもんじゃない。
そんなメチャクチャな話、とてもじゃないが親にも言えず、ひとり苦しんでいたところを、田中が声をかけたのだ。
曰く、『クラスの女子が、夕暮れ時にひとりでブランコに腰掛けてんだ。しかも、隠すようにして泣いてんだからさ、声くらいかけるだろ』とのこと。
僕だって、隣に少しおっとりとした幼馴染みが住んでるからさ、その話を聞いて、アイツにもあり得る話だなと、どこか他人事とは思えなくて。
結果として、田中と二人、その時も七転八倒の大立ち回り。
その日は、たまたま木村さんの家まで、ボディーガードと言うと大袈裟だけど、夜道は危険だからなんて三人並んで歩いていた。
すると、何をとち狂ったのか、件の変態オヤジが暗がりからその姿を現したのだ。
どうも、田中と木村さんの仲を、そのただならぬ雰囲気から色々と邪推したようで、開口一番、口角泡を飛ばしながら『ボクの彼女だぞっ! 』だからな。
もちろん、他人の容姿についてとやかく言うのはよろしくない。それはわかっているけれど、だけど、僕たちは、コイツの悪行を知っている。
その上で、このタイミングで、この台詞である。到底擁護できそうにない、そのあまりの気持ち悪さに鳥肌が立った。
木村さんなんて、ガタガタ震えながら田中の背に隠れてしまって、その姿になぜか例の幼馴染を重ねてしまい、無性に、あれだ。……腹が立った。
お前は一体何様だ。いい年こいてみっともない。
僕の脳裏をよぎったのはこの一言で、あとは、もうその場で全面対決だった。
変態オヤジの情報(弱み)はとっくに集めていたから、まずは論破を試みた。いかに愚かで迷惑なことをしているのかと丁寧に言って聞かせた。
だけど、さすがはこの変態オヤジである。
だからどうしたとまるで悪びれもせず、意味不明な言い分をそれこそ堂々と振りかざしてくるもんだから、『えぇい、メンドクセェ! 』最後は、田中が木村さんをまるで恋人のように抱きしめて、『こいつに二度と近づくな! 』で〆た。
もちろん、それだけで収まるはずもないけれど、田中の勢いと、あの木村さんの普段見せないような火照った顔に、二の句を告げるヤツはそうそういないと思う。美人の赤面した様は、それこそ見とれてしまうモノで、例の変態オヤジも、それ以上なにも言えないようだった。
その後、しっかりと洗いざらい警察には届けたからさ、まぁ、高校生のする話だからね、どれほど真剣に取り合ってくれたかわからないけれど、それからすっかり変態オヤジの姿は見なくなったし、もしかすると今頃塀の向こうで臭い飯を食べているのかもしれない。余罪も山ほどありそうだったし、自業自得といったところか。
――僕は手を伸ばし、木村さんの腕をつかんでよいしょと引き起こす。
田中を下敷きにしたおかげで、特に怪我はないようだったが、ヤツはどうしようもない。立ち上がる際、木村さんの足が田中の首にめり込み、何かが潰れる嫌な音を聞きながら、あぁ、これは痛そうだと顔をそむけてしまった。
木村さんが田中を押し倒したぞと教室が歓声に包まれたが、田中が白目をむいて痙攣・泡を吹き始めたので、一転して静まり返り、当事者である木村さんは動揺しているのだろう、僕の肩に爪を立てながら震えていた。
「ど、どど、どうしよう。た、たた、田中君が死んじゃう。彼が死んだら、私どうしたらいいかわからない。まだ、気持ち伝えてないのに、田中君に、私……ど、どど、どうしよう。ね、ねぇ、どうしよう」
両の瞳に大粒の涙を溜めながら、狼狽する彼女。「くそ、可愛いな」誰かが呟いた。
それを皮切りに、「普段クールな木村が取り乱すと、うん、そそる」「やっぱり可愛いとは思ってたんだけど、やっぱ可愛いわ」クラス中の男子から『木村さん可愛いコール』が沸きあがった。
相変わらず元気なクラスメイト達に溜息をつきつつ、僕は目の前で動揺し、なんやかんやと口走る、そんな木村さんをなだめる。
「とりあえず、そうだな」
まずは、足をどかしてやろうか。
「ご、ごめんなさい! 」
その際、彼女に踏みしだかれた田中の顔面が、ゴリッと骨のこすれる音を響かせる。なんだかさっきよりも痙攣が激しくなったように見えたが、それにしてもコイツ、この状態ではたして体育祭に参加できるのだろうか。
◇◆◇◆◇
そして、運命の体育祭は幕を開けることとなる。
奇跡的に生還した田中は首に違和感があると不平不満をぶつくさ漏らしていたが、そんなバカにはお構い無しに、赤組・白組、両陣営死力を尽くし、戦況は一進一退を繰り返しながらも一時休戦。昼休憩を迎えていた。
昼飯にしようと、グラウンド脇の洗い場で順番を待っている最中、突然背を叩かれた。
不意打ちである。やられた事のあるヤツならわかるだろうけど、薄い体操服に防御力なんてないようなものだ。ハリセンのような小気味いい破裂音と共に、僕の口から声にならない何かが飛び出した。
「あははは、大げさなヤツね。こんなの痛いわけないじゃない」
手が軽く当たっただけでしょ。と、あまりの痛みにもがき苦しむ僕を笑うのは、同じクラスの佐藤さんだった。
陸上部のエースでありながら、邪魔にしかならないであろうサイズの胸部を装備した彼女は、辺りをキョロキョロと見回している。
正直言うと、この人は力が有り余っているのであまりお近づきになりたくはない。
どうせアイツ絡みのことだろうから、腹も減っている今、余計に面倒である。
それで、用件は? 僕の意地悪な問いかけに、佐藤さんはとたんにモジモジとらしくない動きを見せた。彼女の短めのお下げ髪が揺れる。
「あのさ、あのね、そのさ、……田中、どこにいるか知ってる? 」
手に持った大き目の包みは弁当の類か。大方、体育祭に便乗してアイツに手料理を振舞おうと考えただろう。
なにやら先ほど見かけた木村さんも、お弁当を持ってウロウロしていたし、鈴木さんに至っては、彼女は体育祭を何かそういった類いのお祭りと勘違いしているのだろうか。縁日の屋台よろしく店開きで、拡声器を片手に『たなかぁっ! ご一緒しましょー! 』と大騒ぎ。
皆考えることは同じようで。
先に行って場所はとっておく。だから他のヤツには絶対に教えるなと、そう田中からは鬼気迫る顔で口止めされてはいたが、ここで無駄に時間をかけると僕の休憩時間がなくなりかねない。
あっさりヤツの居場所をリークすると、
「ありがとっ! 」
彼女は照れたように笑い、駆けていってしまった。
あの笑顔を見ると思い出す。彼女の実家を手伝った時だ。
小さな自転車屋を営んでいるのだが、親父さんの長期入院で人手が足りず経営困難に陥ってしまったのだ。
簡単な修理ならお袋さんでもこなせるのだが、女手ひとつで店舗経営と家事の両方なんて回せっこない。かといって、肝心の佐藤さんは神がかった不器用人間で、まだ小さな妹もいたもんだから、どうしたものかと途方に暮れていたわけだ。
それをどういうわけだか、田中のバカが聞きつけ、あの親父さんには世話になっている、手伝いに行くぞとなぜか僕まで駆り出されたのだ。
まぁ佐藤さん家はご近所さんで、それこそ小学校から一緒だし、確かに簡単な修理なら親父さんにタダでやってもらっていた。だから、手伝うことに異論はなかったのだけど。
手伝ったのは一ヶ月くらいだったか。
主に、自転車屋の力仕事を田中が。そして、家事の手伝いを僕が担当した。こう見えても家では肩身の狭い男衆である。ワガママな女どもにこき使われた成果か、ある程度の家事は一通りこなせるのだ。ついでに、僕の幼馴染みも手伝ってくれたし、
『二人で家事って、なんだか新婚さんみたいだね』
『さすがにこの歳で、おままごとには付き合わないぞ』
新鮮な環境にアイツも楽しんでくれたみたいで、終わってみればあっという間の一ヶ月だったように思う。
その間、佐藤さんは家に居ても戦力外。むしろ居るとジャマ……とまでは言わないけれど、彼女がいると危なっかしくてたまらなかったからさ、幼馴染みと二人で画策し、主に店舗のほうを手伝ってもらっていた。
だから、そこで田中と佐藤さん、あの二人に何があったかは知らない。知らないのだが、……まぁ、心当たりはある。
手伝いの最終日に田中が上機嫌に語っていた。
『佐藤の親父さんに店を継いでくれって頼まれてさぁ』
めったに褒められることのない僕らである。田中もどうやら嬉しかったようで二つ返事で『はい。その時はお世話になります』と答えたらしい。
その日の帰り、彼女が店の前で『……またね』と、はにかみながら見せた顔こそが、さっきの照れ笑いなので。
それにしても普段の勝気な彼女から遠い今の姿は、何度見ても心温まるものがある。
男という生き物はギャップに弱いものだと姉から聞いたことがあるが、確かに、普段、生徒会長なんてマジメな役職に就いている姉が、風呂上がりだとはいえ、下着姿であぐらを掻いている様を目の前に、
『ちゃんと髪乾かせよな』
『だな。……ほれ、美人な姉の悩殺ポーズだ。良いもの見れたろ、ドライヤーを持ってきてくれ』
『なんだそりゃ』
こういうダメな方向でのギャップでなければ、佐藤さんもああ見えて男子からの人気は高いようだから、不意に見せた可愛さに、といった風で、あながちその説も間違いではないのだろうと納得してしまう。
しかしそうなってくると、いよいよ残念で仕方がない。
あれで家事がからっきしダメで、特に料理が壊滅的に不味いことを除けば文句なしなのだが、神様はそこまで優しくないようだ。
その後、便所で虹色のゲロを吐いている田中を見かけたが、アイツ、あの状態で午後の競技は大丈夫なのだろうか。
◇◆◇◆◇
なんだかんだですったもんだの体育祭もいよいよ大詰めを迎えていた。
指先が痺れ、右と左の視点が合わないと田中は生まれたての小鹿のように震えていたが、そんなバカは置き去りに、赤組と白組の成績はほぼ同点のまま、後は最終種目を残すのみとなっていた。
最後の種目は、代表リレーである。代表に選ばれていた佐藤さんが満面の笑みで近づいてきた。
「ぶっちぎりでバトンつないでくるよ! 」
田中は返事をしなかった。僕の陰に身を隠し、震えっぱなしである。どうやら、よほど人命に関わるものを食わされたようだ。佐藤さんの声を聞くだけで、体が恐怖を感じているのだろう。
「……大丈夫ですか?」
そんな田中が気になったのだろう、今度は逆隣から、僕を挟んで木村さんが心配そうに声をかけてきた。朝の一件は彼女の中でどうにか処理できたようで、普段のクールぶりを取り戻していた。
だが、またしても田中は返事をしなかった。今度は首をかばうように顔を伏せ、丸くなってしまった。身体がよりいっそう激しく震えているところをみると、精神的にも弱っているのだろう。今朝の殺されかけた記憶がフラッシュバックし、反射的に体が防御体制をとったのかもしれない。
「田中、ホントに大丈夫なの? 」
「田中君、保健室行きますか? 」
こんなにも美少女の二人に囲まれて、しかも近距離で心配されて、他の男子なら泣いて喜んでいるだろうに、それでも恐怖で押しつぶされそうになっている友人が、なんだか気の毒になってきた。
僕は田中の背中を優しくさすり、怖くない、怖くないよ、大丈夫だ、と穏やかに呟いた。それを続けるうちに落ち着いてきたようで、田中は恐る恐るだが、ようやく顔を上げた。
僕は、今から競技に出るというのにどこか不安げな佐藤さんの顔に気が付き、田中を肘でつつく。何か言ってやれと目で伝えると、田中は少し考えるようなそぶりを見せ、大きく首を縦に振り、言い放った。
「……負けたら、罰ゲームだからな」
斜め上の言葉に、思わず僕は絶句する。
普通こういう場合、頑張れと励ますところだろうに、何でコイツは更なるプレッシャーを味方に与えているのだろうか。周りのクラスメイト達も概ね僕と同意見だったのだろう。皆が皆、目を見開いて信じられないといった表情をしていた。
「ば、罰ゲームって、なにすんのよ」
恐る恐る聞き返した佐藤さんに、田中は口の端をひくつかせた。
そして、次の言葉で、
「……今度の日曜、俺の家に来い」
場の空気が凍りついた。
今度こそ、満場一致で絶句である。こいつは何を言い出すんだと、皆、言葉が見つからない。
そして、凍りつくこと数十秒。
ふと「……家に連れ込んで何する気だよ」誰かが呟いた。
その瞬間、佐藤さんの顔が真っ赤に発光した。見事としか言いようの無い早業である。
「あ、ちょ、ちょっ、あ、え、ちょ」
電気ストーブのようになった彼女はもはや人語を話してはいなかった。手を前方に突き出したまま、目まで真っ赤にして不思議な呪文を唱えている。
その時だった、――僕の肩に激痛が走ったのだ。
痛いなんてもんじゃない。まるで万力かなにかで肩をまるごと押しつぶされるかのような痛みである。見ると、木村さんの白魚のような指が僕の右肩に食い込んでいた。
だが僕は、その手を振りほどくことが出来ない。木村さんの表情を失った真顔が僕に動くことを許さないのだから。
さながら銃口を突きつけられているかのような、そんな、単純で絶対的な恐怖である。
まさにとばっちり。流れ弾が僕に直撃したのだ。僕は左隣に座る田中を、もう一度、さっきより強めに肘でつつく。発言の真意を聞くためである。
田中はこっちを向くと、悪い顔で笑った。
「いやほら、佐藤は俺の事キライだろ? 今日も毒を盛られたしな。だからそれを利用して、本気を出させる。きっとアイツ、ここぞとばかりに死に物狂いで走るぜ」
田中は小声でそこまで言うと、イラつくぐらいのドヤ顔を見せた。
「じ、じゃぁアタシ、もう集合だから、い、行くね」
そうこうしているうちに、本部テントから集合の放送が流れ、佐藤さんは真っ赤な顔のまま立ち上がった。――だが、彼女の腕はいつの間にか僕の隣から移動した木村さんの腕につかまれていた。
応援席の端。向かい合うようにして立つ二人の背中から、目に見えない気炎が、轟々と吹き上がったように思う。
「何、木村さん? アタシ急いでるんだけど」
「……どうしても言っておきたいことがあって、少し良いかしら?」
額同士が触れそうな距離で二人はにらみ合い、微動だにしない。木村さんのメガネが鈍く光り、佐藤さんの顔もいつの間にか不敵な笑みへと変わっていた。
「あなたとリレーメンバーのタイム。それを鑑みると、まず負けることは無いわ」
「そりゃどうも。褒めてくれてありがとう」
「ただし、誰も手を抜かないという前提での話でしかないの。ここまではわかるかしら」
「まぁ、勝負は時の運っていうから、何があるかわからないけどね」
「あなた、確か今日のコンディションはばっちりだと言っていたわよね? 」
「さ~て、どうかなぁ? なんだか数秒前から足首が痛むのよ。もしかすると走り始めると悪化するかもしんないわ」
「……ずいぶん卑怯な手を使うじゃないの」
「卑怯? 違うわね、アタシは自分に与えられたチャンスを精一杯生かそうとしてるだけだから」
「……」
「……」
おいおい、やめてくれよ。
きっとこの言葉が皆の総意だろう。
周りのクラスメイト達は逃げるタイミングを完全に逃し、ただゴクリと、固唾をのんだ。一触即発の雰囲気に、明らかに体感温度は氷点下。
元凶の田中はというと、つい今しがた、偶然舞い降りたモンシロチョウを追いかけていってしまった。やはり朝から続く不幸で、脳に深刻なダメージをおってしまっているのかもしれない。
万事休すか。マンガやアニメ、映画やドラマならここで救いのヒーローがやってきたりするものだが、ここにいる全員が待ち望んだ存在はやってきそうにない。
お手上げである。バチバチと火花を散らす、そんな二人以外の皆がいっせいに匙を投げ始めた。そんなときだった。
「ごきげんよう」
代わりに神様は僕らにプレゼントだと言わんばかりに、一人の少女を遣わしたのだ。
やってきたのは、頭に赤い鉢巻を巻いた鈴木さんだった。金持ちの余裕か、はたまたお嬢様ゆえの世間知らずか、辺りの空気を1ミリグラムも読まずの登場である。動きやすいようにだろう、綺麗な黒髪は二つ結びにされていた。
鈴木さんはにらみ合う女子二人を気にも留めず、ぐるりと応援席を見回すと、溜息をひとつ、残念そうに僕の隣に腰掛けた。
「見たところ、彼は不在のようですね。せっかく今朝の約束事を忘れていらっしゃらないか確認しようと思っていましたのに」
そういえば、そんな約束をしていたな。僕はすっかり忘れていたが、はたして田中は覚えているだろうか。鈴木さんも、その辺りが気がかりなのだろう。頬に手を添えて、心配そうに首をかしげていた。
「私が勝ったら伴侶になっていただけるというから、今日は頑張っているというのに。まったくもう、本当、困った殿方で――」
「「 ――もめている場合ではないようね!! 」」
よくわからない急展開に、僕の頭はとても追いつきそうにない。鈴木さんの愚痴を聞いていると、いつの間にか、佐藤さんと木村さんが心の通い合った親友のように固い握手を交わしていた。
いったい何が起きたのか。
「私、アナタの俊足は音すらも凌駕すると思っていたのだけど? 」
木村さんの笑みに、佐藤さんも勝気に言葉を返す。
「ふふん、甘いわね。アタシの足は光すらも追い抜くんだから! 」
二人は、何が可笑しいのか、ひとしきり笑いあうと、
「「 この勝負、勝つわよ 」」
お互いの握り拳を軽く合わせた。
堂々と歩いていく佐藤さんの背中を見ながら、僕は頭を傾げるしかなかった。
「なんでしょう、不思議な方々ですね」
鈴木さんと二人、僕はもう一度頭をかしげた。
その後、溝にはまって動けなくなっている田中を誰かが見たと言っていたが、明日にでも病院に連れて行くべきだろうか。まったく、手のかかるヤツである。
◇◆◇◆◇
やりたい放題だった体育祭は無事、白組の勝利で幕を下ろした。
最終競技のリレーで見せた、佐藤さんのジェット機もかくやといわんばかりの走りは、後々伝説として語り継がれていくことだろう。
そんな慌しかった体育祭の後片付けも終わり、生徒でごった返す帰り道。彼女たちの目をどうにか掻い潜り、田中と二人。いつものように帰路につく最中――またも深刻な顔でヤツは僕に告げた。
「やっぱり、俺は嫌われてるみたいだな」
またその話か。僕がわざとらしく大げさに溜息をついて見せると、田中は遠くを見ながら辛そうに笑った。
「お前は良いよな。あんな最高の恋人がいるんだもんな」
そして、彼女たち絡みの話になると、決まってこの話を持ち出すもんだから、困ったものだ。
「アイツとはただの幼馴染みだよ」
もう何度目になるだろうか、呆れて僕はお決まりのあの台詞をこぼす。それに、仮に恋人だったとして、コイツはそれのどこが羨ましいのか。自分は何人もの美少女を侍らしているだろうに。
「地味で目立たない、普通の女の子だぞ」
それこそ、クラスの隅で、静かに外を見ているようなさ。
だけど、いささか今日の田中はいつもと違い、ストレスがいよいよ臨界点に達しているようで、
「はぁ? 普通だぁ? 」
これ見よがしに苦々しく顔を歪めると、大袈裟に不快感をあらわにし始めた。
「気立てが良くて、穏やかで、勉強に家事にとそつなくこなす彼女の、どこが普通だよ」
いいか、女子は見た目じゃねぇ。内面だ。それにあの子は最強に可愛いだろうが。
なんて、熱の籠った口調で、ヤツは僕の肩を小突いてくるもんだから、その勢いと行動に、いよいよウザったらしくなってきた。
何度も言うが、僕の幼馴染みなんて、コイツを取り囲むあんな美女軍団と比べれば、どう贔屓目に見ても、月とスッポン。
確かに、良いように受け取ればさっきヤツが言ったような少女ではあるが、毎日のように見ている僕からすれば、ただ大人しいだけの、人見知りで内向的な女子。
「俺もそんな彼女が欲しいぜ」
「だから、彼女じゃないって」
「じゃぁ、今度の休みによ、あの子をデートに誘っても、お前文句言うなよ? 」
むしろ応援してくれよな。なんて、ムカつく面で、まるで僕を試すようなことを言うもんだからさ、流石にいよいよカチンときてしまう。
「そんなの好きにしろよ」
アイツが誰と恋仲になろうと、僕には関係ないんだからさ。僕は、お返しだと言わんばかりに、強めに田中の肩を小突いた。
「ほらムキになる」
「なってないだろ」
「鏡見てみ。スゲぇ顔してんぞ」
あぁクソと、田中は、諦めと苛立ちを綯い交ぜにしたかのような溜息をつくと、『あ~ぁ……』と、一言。
「初恋は実らねぇもんだなぁ……」
これも、もう何度聞いたことだろう。小さな頃から、ことある毎に田中はこの冗談を口にするのだ。
妬みや嫉みといった、勘違いからくる感情も少しはあるだろうけど、どうせ、僕と彼女の仲の良さを茶化しているだけだからな。クソガキ特有の冷やかしの一種でしかない。
幼馴染みだから仕方ないだろう云々と、ムキになって反論しても疲れるだけなのは過去の経験から学習済み。だから、こういう場合は無視するに限る。
何も言わない僕に田中は面白くないと言わんばかりに鼻を鳴らす。
そして、頭の後ろで腕を組み、遠くを見ながらもう一度、唸るように呟いた。
「誰か俺を好きになってくんねぇかなぁ……」
続けて、誰でも良いわけじゃないけどさ。そう自嘲気味に笑うと、
「朝から奴隷になれって言われてよ、出会いがしらにさんざ踏みつけられて、昼は猛毒を口に押し込まれたんだぞ。……嫌われすぎだ。なぁ、俺、アイツらに何かしたか? 」
……こんなのあんまりだろ。
ふいにピタリと足を止め、田中は身体を小刻みに震わせながら、それでも泣くまいと堪えるように拳を握り締めていた。
――だから嫌われてないって。
だけど、僕の声は、今の田中には届かないだろう。
夕日が照らすなか、僕はアイツの肩に手を置いて、もう一度大きく溜息をついた。
その数分後、
「一緒に帰ろっ」
偶然、他校に通う幼馴染が後ろから追いついてきて、微笑みながら声をかけてきたのだが、……その時の田中は、いったいどういう感情だったのだろう。
はじめは幼馴染みの名を、ずいぶん付き合いは長いんだけどな、律儀にも『さん』付けで呼んで、久しぶりに会ったからだろうけど、心底嬉しそうにしていたくせに、
「ねぇ、明日休みでしょ。また今日も泊めてね」
姉妹も含めて、朝までゲームしようよ。と、もちろんそういう意味なのだけど、彼女が僕の腕を抱きながら放ったその一言を聞くやいなや、――ヤツときたら、まるで凶悪犯罪者を断罪するかのような顔で、
「……お前、俺に手ぇついて謝れ」
こちらに向かって歯を食いしばりながら、こめかみに青筋まで立てちゃってさ。
その後、幼馴染を巻き込んでの一波乱が待っているわけだけど、
「な、何の話なの? 」
「わからん」
まぁそれはまた、別のお話。
だから、一応のところ、僕はいつものこの言葉を残しておこうと思う。
まったく、どいつもこいつも面倒だ、とね。
どいつもこいつも面倒だ。 コカ @N4021GC
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