見えなくても、分からなくても

 彼女は菓子パン半分でギブアップしたが、かなり深刻な涙目でパンを頬張る様子に、僕の苛立ちは簡単に治まってしまった。新しい冷たい飲み物を携えて、僕たちは再び『青の丘』を目指した。

 元来た道を戻り、チューリップと芝生の丘の三叉路を海へと向かう。僕は眼鏡をかけたまま、彼女と手を繋いで歩いた。もう、どちらかが手を引くのではなかった。ただ並び合って歩く心地は、彼女の期待と不安と苦しみを分け合ったような不思議な感覚だった。

「……祖母も、同じなんです」

 ポツポツと、彼女は自分のことを話した。小学生のときに自分は色覚異常かもしれないと気づいたこと、服の色合わせに悩みたくないからワンピースを買うこと、自宅の半径二㎞は色が分からなくても怖くないこと。彼女の生活はパズルのピースを埋めるような周到さがあるようだった。それから、僕が奇妙に思っていたことも思い出させた。

「あぁだから黒いラインがなかったのか」

「病院の案内線のことですか?……あぁたぶん、緑の線だと思います。祖母と私は同じだけど、微妙に見え方が違うんです」

 彼女の頬に赤味が差している。手にもほんのり体温が宿っていた。反面、僕の手は少しずつ冷えてきていた。いや、汗が異常に分泌されているのかもしれない。

 彼女が言葉を途切れさせ、はぁ、と息を吐いた。「こんなに自分のことを話したのは……久しぶりです」自嘲を含んだ目元はそれでも前を見つめていた。

 左側には、赤にオレンジの輪が浮かぶフリルのような花弁を揺らすチューリップの群生。右側は薄水色の空に駆け上がれるような緩やかで奥行きのある丘。少し傾斜のある坂道を、僕も彼女も真っ直ぐに歩いている。ピンクの春らしい軽やかなシャツワンピースは、チューリップの花畑にこれ以上ないほど馴染んでいて、彼女の長い黒髪も風に遊び跳ねた。──眼鏡のレンズを越しの、まばゆくはっきりとした春の世界を映す度、僕の目は痛んだ。

「三枝さんは……どうして、眼科に?」

「……突然見えづらくなったんです。『特発性視神経炎』て症状らしいです。経過観察なので、そこまで深刻な状況じゃないとは思います」

 明らかに早口になった台詞に、舌打ちをしかけた。彼女がこちらを向いてしまった、酷い汗をかいているのに気づくだろうか。誤魔化したい、と思い「ははは」と何でもないことのように笑った。

「忙しい仕事なんで、まともな食事なんて摂ってなかったのが悪かったのか、それともストレスなのか。毎日残業ですから体力的にもキツいからですかね。まぁ、このまま視力が戻らなかったらクビかもしれませんね、それも仕方ないことですかね」

 よく回る口だ、と知らず眉を寄せたとき、不意に後ろに引っ張られ僕はひっくり返りそうになった。振り返ると、彼女が立ち止まって僕を睨んでいた。

「ど、どうしたんです」

「『仕方ない』だなんて、言わないで!」

 手が離れた。

「治せる可能性があるなら、私の前で『仕方ない』だなんて言わないで……! そんなこと、思ってもないくせに口に出さないで!」

 彼女は目を見開いて、怒りに瞳を燃やしていた。しまった、と理由も分からず唾を飲み込んだ。

「……三枝さん、あなた、とても清潔です。それにとても真面目で優しい人だわ」

 何のことだ? 僕は彼女の言葉に繋がりを感じられずに、彼女の前髪が揺れるのを見ていた。

「病院でだってぶつかる人みんなに謝ってた。仕事でもないのに、きっちりネクタイを締めてた。昨日だって今日だって、目が見えないのに髭を剃って来てる、マスクを着ければ誰も見ないのに。服装だって。何の得にもならないのに、痩せっぽちの骸骨みたいな女の手をバカみたいに引っ張ってる」

「あやかさん……」

 何だ、彼女は僕にケンカを売っているのか? 彼女は苛立たしそうに足を踏みならした。

「色が分からない私にだって、分かることがあるんです。あなた、とてもいい人だし、仕事に一生懸命な生活をしてたんだわ。三枝さん、『仕方ない』なんて、そんなに簡単に仕事が辞められるんですか!?」

 グッ、と胸か喉かとにかく息が詰まって、僕は喘いだ。

『満足にPC画面を見つめることも出来ないんじゃ在宅も出来ないし、仕方ないよなぁ』軽薄な声が僕に囁く。

「そんな、だって、目が見えなければ……何も」

「止めて下さい、私の前でそんなこと言うの! 私も祖母も他の誰だって、色が分からないから何もできないなんて思ってないわ! 仕方ないのは可能性がないことや、できないことじゃないの、前提が変わらないことだけよ! そりゃ私だって、初めての場所は怖いし、誰かに連れてきてもらわないとまともに歩き回れないわ。悔しいけど、そうなの。でもだからって諦めていけないって、ちゃんと食べろって私に怒ったのはあなたじゃない!」

 ハッとした。彼女は仁王立ちで、顔を真っ赤に火照らせて僕を見上げていた。睫毛が煌めいたのは僕の目の錯覚だろうか。

「私はあなたの顔色も眼鏡の縁の色も、このワンピースの色も、全部同じに見えるけど、あなたが苦しそうに顔を歪めながら歩いていることくらい分かってる! 酷い汗をかいて、時々ふらつくことだって……!」

「あやか、さん」

「私はあなたがいなかったら、ここまでこられなかった。あなたが優しい人で責任感のある人だから、私も帰らずに歩いてる。身勝手かもしれない、でもあなたにだけは『仕方ない』なんて言って欲しくない。諦めないでよ!」

 僕はあぁ、と声を漏らすことしかできなかった。そして目を瞑った。じわ、と心地よい闇の中でも痛みは主張していて、もうずっと目を閉じていたいと思った。

 そ、と僕の左手に温かな指が触れた。ふ、と僕は痛みにか安堵にか、息を吐いた。

「ごめんなさい、三枝さん……やっぱり帰りましょう。すぐ病院に」

「いえ、いいんです。……そうです、あやかさん僕、目が痛いんです、すごく。今だって、もう目を開けたくないんです」

「そんなに……ごめんなさい、私……!」

「でも」僕はゆっくり、できるだけ痛く辛くならないように、目を開けた。開けなくてはいけなかった。

 どうかしていた、と思った。目が見えないことの辛さと目が見えなくなることの恐ろしさで、どうかしていた。

「僕も諦めたくなんてないんです」

心配そうに見つめるその睫毛はしっとりと濡れて、瞬いた。

「初めは恩返しのつもりでしたけど、僕も見たいんです」

 そうだ、見たい。苛立って意地になっていたのは、そうだったのか。彼女の目に、一面の青が映った瞬間を。その刹那の表情を、歓喜を。

 だから僕はそのとき、どんなに目が痛んでも眼鏡を外さない、と決意した。

「三枝さん、でも」

「行きましょう、ほらもう一本道ですよ。じゃあ、今だけ手を引いてくれませんか。……さぁ行きましょう」


 チューリップの赤に終わりが見え、視界の空の面積が急に広くなった──と、思ったときだった。僕たちは恐らく同時にそれに気づいた。ふたりとも足が止まった。

 ──空ではなかった……!

 空と、空の色に染まった花畑が広がっていた。少し薄紫がかった、中心に雲の色さえ写し取ったような、青い小さな花。見渡す限り、青。風に揺らされて見え隠れする下生えの緑が、それが花だと、ネモフィラだと教えていた。

 あぁ、と感嘆を漏らしたのは僕か彼女か。驚きから先に我に返ったのは彼女だった。

 ダッ、と彼女は僕の手を離して駆け出した。黒髪がスローモーションのように風になびき、僕を完全に追い越していく。僕を置いてけぼりにしていく。

 あぁ見えなかった……。

 痛みに耐えても、目的を達成できなかったしくじりにひとり苦笑したが、苦さはすぐに風がどこかへ連れて行った。僕はせめて彼女から目を離さないよう、その背を見送った。追いかけはしなかった。目眩が酷かった。それに例え見えなくても、今僕には彼女の表情が手に取るように分かった。そう、僕にも見えなくたって分かることがあった。

 僕は、彼女にはどんな青に見えているんだろう、と目を細めた。きっと僕とは見え方が違う。そして違っていても、今感じている気持ちは同じだろう。それが僕は心底嬉しくて堪らなかった。

 ピンクのスカートの裾を翻し、白いカーディガンに包まれた腕を広げた彼女はまるで、空を羽ばたく鳥のようだった。まるで、無限に広がるあおに飛んでいくように見えた。

 高く、高く──。その目に映るあおだけを映して。




「部長。明日通院なので、有給もらってます、よろしくお願いします」

「あぁ、定期検査だっけか。その眼鏡も見慣れてきたなぁ」

「はは、もう二年ですから、さすがに見慣れて下さいよ」

「へぇ、そんなに経つのか。じゃあそろそろ新しいのに替えたらどうだ? お、この企画期待してるからな、頼むぞ」

 「分かってますよ」と僕は眼鏡をずり上げた。PCに貼り付けた今日中のタスクを眺め、全く調子がいい上司だ、と苦笑が漏れた。


 二年前、猛威を振るっていたコロナはすっかり鳴りを潜め、今は春のインフルエンザが流行っている。こっちが治まれば、こっちが、と世の中は結局忙しい。

 あの日、僕は夜間救急にかかると入院になり、すぐステロイド投与が始まった。手術をすることはなかったが、やはり無理をして出掛けたことは医師に苦言を呈された。今はもう痛みはなく、視力も安定している。

 心配していた仕事への影響はほとんどなく、延びてしまった有給明けも、拍子抜けするほどすぐに日常に戻った。いや、戻ったとは言えない。僕は目が見える喜びを知った、食事が美味しそうに見える喜びも。弱気になるとすぐに叱ってくれる友人もできた。

 あやかさんとは今でもいい友人だ。時折連絡を取っていて、最近結婚した、とメールが来たばかりだ。少しふっくらした頬を緩ませ、ネモフィラの丘で相手の男性と微笑む彼女はとても幸せそうに見えた。彼女の結婚式には、紫のネクタイを着けていこうと思っている。

 僕は『絶対来てね!』と綴られたメールを思い出し、眼鏡のフレームに触れた。

 何度視力が変わっても、この銀縁眼鏡を手放すことはないだろう。

 どこまでも、あおい、彼女との出会いを忘れないために。




 どこまでも、あお ─見えない僕と分からない彼女─ 了

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