見えないもの、分からないもの
通路はそれなりに人が歩いていたが、連休前の平日だからか混雑はさほどでなかった。ゆっくり歩けば先を越されていく。僕は見えないまま、彼女はふらつく僕に手を引かれたまま。
色覚異常って、色盲のことか? 赤と緑で検査する?
その程度の知識しかない僕には二口が告げず、バス停に人が集まり始めたことを言い訳に、そのことには沈黙し続けていた。
「ネモフィラだけじゃないんですね、この公園て」
ぽつり、彼女が呟いた。「そうみたいですね」と僕は返した。そして道の真ん中に戻る。僕はどうやら左側に寄って行ってしまうようで、時折彼女の手がぎゅ、と握り返してくれ、それに気づいては修正するの繰り返しだった。
今、通路の両側はチューリップらしき花畑が広がって、色毎にグラデーションを作っているようだった。赤、ピンク、白、黄色と僕の視界は緑に支えられた色鮮やかさで埋め尽くされているが、それを安易に「きれいですね」などと言えはしない。僕は本当にぼんやりと彼女と手を繋いで、ただ前に歩き続けていた。黄色が途切れ、視界が丈の低い黄緑と空色に上下が切り取られたとき、くん、と手が引っ張られて彼女が立ち止まったことが分かった。
「……三枝さん、ここでこっちに行くとネモフィラの丘が近いみたいです」
「あ、そうですか。では、そっちに行きますか」
言われてみれば確かに三叉路だ、と角の看板に目をこらした。白地に黒で『青の丘』と書かれていた。
「あ……でもそっちにはスイセンがあるらしいです」
「スイセンて、えーと。葉っぱがシュッとしてて花の真ん中と外側が微妙に違う黄色っぽい……」
「たぶん、それです。ちょっと地図を見てもいいですか」と彼女は早口で言うと、僕と手を離した。瞬間、くらり、と目眩があって、僕は汗を拭う振りをして目を覆った。彼女は僕のよく知る雰囲気に戻っており、もう眼鏡をかけてもいいのだろうが、痛みや吐き気が怖い。
本当に、調子が悪くなってきた気がする……。
無意識に目を下側に動かす度に針で刺されたような痛みが起こる。夢で見た薄っぺらい彼女が持っていた槍でつつかれているような気分だ。
「三枝さん、この先に飲食スペースもあるらしいです。お腹、減りませんか」
僕はそう問われ、空腹であることを自覚した。それに昼過ぎの陽射しが頭皮を温めて、冷たい飲み物を飲みたい、とも思った。
「いいですね、ゆっくり回りましょうか」
「はい」と聞こえた声がわずか喜色を含んでいて、彼女はちゃんと楽しんでるようだ、と僕は内心ホッとした。「さぁ行きましょう」と、僕は形ばかりの手を差し出す。彼女もためらいなく僕の手を取る。舗装されていない素朴な道を、黄緑と空色を横目に僕たちは静かに歩いた。
彼女は何も食べなかった。もしかしたら、と多めに買った菓子パンやおにぎりを勧めたが、彼女は「食欲がないんです」と首を振った。「そうですか」と一度引っ込めたものの、内心は落ち着かずにボディバッグは開けっ放しにした。
コロナのせいか時間がずれているせいか、人はまばらだ。僕たちは隅のベンチにひっそりと腰掛けていた。ただ前を見て、花や景色を見て歩いている分には会話などなくても平気だったが、こうして隣あって休憩する間はさすがに無言では居られない。せめて何か口にしてくれれば、と自分はおにぎりを口に放り込んだ。ツナのつもりが梅干しで、予告なしの酸味に涎が溢れた。「んん」と漏らした声に、彼女はこちらを向いたようだった。
「どうしたんですか? やっぱり目が」
僕はその不安そうな声に、必死に梅干しを飲み下した。
「いえ、ツナだと思ったら梅干しだったので、驚いただけで」
「……あぁ。梅干しって酸っぱいですよね。子どもの時に一度だけ食べたことあります」
「へ?」
僕は間抜けな顔を晒したようだ。「ふふ」と彼女のからかう笑い声がマスクでくぐもって聞こえて、カッと頬が赤くなった。
「私、赤が分からないタイプの色覚異常なんです。梅干しって赤っぽいんですよね?」
「あ……はい、そうですね。赤が?」
彼女は今までになくハキハキと話し始めた。
「もちろん、緑もよく分かりません。私が分かるのは黄色と青、白と黒、その中間色だけです。だから、小さい頃は赤か緑の食べ物は、口に入れるまでよく分からなくて。梅干しもある意味トラウマなんです。初めて食べた梅干しがびっくりするほど酸っぱくて……吐き出しました。色味が分からないので何かに混ざっていても気づかなくて何度も驚いたりして。そんなことばっかりなので、私、あまり食欲がないんです。あぁ、青が食欲を減退させる効果があるって知ってますか? 青は好きな色ですけど、やっぱり私にとってもそうなので……まぁ、食卓に青が乗るのは私の場合そうですねぇ、紫キャベツくらいですかね……初めて紫キャベツのサラダを見たときはびっくりしましたけど、そんなに好きな味でもなくて……」
「ふふふ」と彼女はひとりで可笑しそうに笑った。しかし淀みない台詞には、有無を言わせない何かがあって、僕は完全にのまれて何も返せなかった。
「だから……ほら、あの花壇のパンジーも、全部黄色か茶色です」
声が一段低くなった。彼女が指差す少し離れたレンガ風の花壇には、赤と黄色の小さな花が咲いていた。
「あっちは全部青、というか水色? に見えます」
「青も、少しくすんで見えているみたいなんですよ」と呟く声を聞きながら、僕は紫の花の咲く花壇に目をこらした。それはどんな景色なのか、と白や黄色や緑、紫の塊で彩られた景色を眺めた。でも眼鏡を外している僕にはぼやけて分からない。ザザァ、と風が花を揺らした。「三枝さん」と、彼女が予告なく僕の腕に触れた。吹き弱った風にすらかき消されるような声だった。彼女は深く項垂れ、長い黒髪が顔をカーテンのように隠していた。
「あやか、さん? どう……」
「食事が全部同じ色だったら、食欲湧きますか?」
「え?」
ぎゅう、と彼女は僕のシャツを掴んだ。
「口に入れるまで何の食べ物か分からなかったら、食べたいと思いますか? 服の色のセンスが酷いと言われて、おしゃれが好きになると思いますか?……出掛ける度に迷子になったら、出掛けたいと思うようになりますか? 時刻表がよく見えなければ、バスには……乗れない、で……しょ、う? わた、し……」
あぁ、と喘ぐように彼女は言葉を継ぐ。
「駅、で……三枝さん、が……どこ、に、いるか……全然わから、なく、て」
「こわ、か……た」息を漏らすようなかすかな、かすかな悲鳴に、僕は思わず彼女の肩に触れた。酷く細く、冷たい。握りつぶして粉々にできそうな、細い骨張った肩先を本当に潰してしまわないよう、手でそれを包んだ。
僕は、何て言えばいい。
「あやかさん、すみませんでした、ホント、あの」
「だ、大丈、夫だと、おも、った……の、に……やっぱり、わた……分からな、かった……ごめんな、さい。ご、めんなさ、い……!」
ああぁぁぁ、と声を堪えるように彼女は泣いた。「分からなかった」「ごめんなさい」「私、分からないの、ごめんなさい」と繰り返す彼女のワンピースは落とした涙で色を変える。僕は、そのシミが広がり続けるのを何もできず見つめた。確かに違う色に変わっていくぼやけた楕円を、「分からないの」と途切れながら訴えるおぼろげな欠けた黒い頭の丸みを、僕は何もかもよく見えないまま、ただ見つめた。
彼女の世界は想像もつかなかった。気の利いた言葉ひとつ浮かばない。それでも僕は『大丈夫です』『謝らないで下さい』と、彼女の呻き声の合間に慰めの声をかけようとした。しかしその度になんて薄っぺらい言葉だろう、何が大丈夫なんだ、と喉が詰まって逃げ出したくなった。彼女を置いて今すぐ家に帰りたい、薄暗い部屋のくたびれた毛布にくるまりたい! 胸が、苦しい。
「うぅ」と呻いた。ずっと無理に下を向いて、痛み出した目から涙が溢れ出す。ぢくぢぐ、と目の奥が強く痛み出して堪らず僕は目を瞑った。咄嗟に彼女の肩から手を離し、両手で目を覆った。
あぁ、と声を漏らしたと思う。
見たくないものが見えなくなり、痛みが和らいだ安堵。指の間からべたついた涙が垂れて落ちていく。
ぺたり、と背筋が伸びるほど冷たく濡れた手が、僕の手に重なった。膝頭に何かが当たり、きっと彼女がこちらを見上げてると思った。マスクの縁も長い睫毛も束になるほど濡れたまま、彼女は僕の目をふたり分の手のひら越しに覗き込んでいるのだろうか。
「私、ごめんな、さい……」
僕はわずかに首を振った。彼女の謝罪は、僕が目を開くまでずっと続いた。
小一時間、僕たちは同じベンチでぐずぐずと鼻を啜り、ペットボトルを傾けた。陽射しが少し翳って、かすかな塩っ気を含んだ風が僕たちの涙を乾かした。こういうときマスクは便利だな、なんて湿って気持ち悪い不織布が肌に張り付く感触を味わう。
僕は何でもない振りをして彼女の隣に座る、自分の弱さに心底嫌気が差していた。僕は彼女を言葉を尽くして慰めるべきだったのに、痛みに任せて目を瞑ってしまった。何も見たくない、と彼女の苦しみから目を逸らし、あまつさえ泣いてしまったのだ。
ふ、と彼女が息を吐いた。
「もう、帰りましょう。やっぱり、私、こんなところに来たいなんて言って……三枝さんに迷惑かけて、バカでした。帰りは、私が前を歩きます。道が分かればそこまで怖くないので」
「……いいんですか、ネモフィラ、見たかったんじゃないですか」
「見たかった……です。でも、もういいの。なんだか泣いたらすっきりしました。もう、子どもでもないのに泣き喚いて……恥ずかしいです」
そう言った彼女の顔色は最悪で、陽射しの下だというのに真っ青だった。僕は少し汗ばむほどだと言うのに。
「いや、それは僕も……」同じ、と言おうとして僕は口を閉じた。彼女はたぶん、紫のパンジーを見つめていた。
なんだ、やっぱり見たいんじゃないか。見たいなら、行けばいいじゃないか。
突然、じわりと苛立ちが湧き起こった。それは強要だ、と内側から制止の声も上がった。見たくても行かない選択は、彼女にとって理屈じゃないことくらい分かっているから。でも。
僕は苛々と眼鏡を取り出し、かけた。ピントが合い、その黒髪の一本一本が揺れる様を見た。彼女の横顔に眉に、眼差しに、諦めと悲しみと、青への羨望か憧れが見えた。彼女の表情は何よりも雄弁だった、僕はそれを見た。間違いなく彼女は今も青い花を見たいのだ、と確信した。
「あやかさん、見に行きましょう。ここまで来て行かないなんて、本当にバカみたいです」
気づけば語気強く、彼女に向き合っていた。
「……三枝さん」
「どうしても見たくなかったら、見なければいいんです。僕もさっき、あなたを見ていられなくて、目を瞑りました。苦しんで泣く人を見つめ続けるほど、僕は強くなかったし、あなたを慰めることもできなかった。僕は色覚異常の人の気持ちなんて考えたこともなかったし、あなたの見ている景色が分からない。……でも、僕はあやかさんが青が好きだってことくらいは分かります。見たいんだって、顔に書いてありますよ」
彼女の半分欠けた顔を見つめながら、話せば話すほど、沸く苛立たしさに汗が噴き出た。僕はボディバッグから乱暴に菓子パンを取り出した。強く握ったので少し潰れたが、彼女にそれを押しつけた。
「食べて下さい。僕の好きな甘いパンです。食べないとネモフィラを見に行くのも、帰るのもダメです」
「ど、どうして」
彼女の目は戸惑いに揺れていた。強い言葉に恐怖を抱いたかもしれない、いや構うものか、とそれを手に握らせる。
「早く食べて下さい。顔色が悪すぎて、連れて行けません。夕方になったら空の色が青じゃなくなっちゃいます。見て食べたくなければ目を瞑ってでも食べて下さい」
「でも」
「僕、ぐずぐずしてるあやかさんに頭に来てるんです。早く食べないと無理矢理口に詰め込みます」
彼女は僕の剣幕に「は、はい」と震えてパンの袋を破いた。彼女がそれにかぶりつくのを確認して立ち上がり、僕は目眩にたたらを踏んだ。知らぬ振りで歩き出す。
大きな看板図で近道を調べる間も目眩は治まらない。下を見ても上を見ても、右目も左目も痛い。明らかに僕の目は悪化している。気を抜けば涙で全てぼやけてしまいそうだった。挫けてしまいそうだった。
とにかく彼女にネモフィラを見せて、急いで帰って明日はタクシーで病院へ行こう。酷いようなら夜間救急でもいい。
とにかく彼女を、と僕は変な苛立ちと意地で決意を固めて振り向いた。そして、必死にパンを咀嚼する露わな頬に、思わずマスクの中で笑ってしまった。
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