岩の中の聖者

神山雪

岩の中の聖者

 

 エダンに任された仕事の一つは、岩の中で石像を掘り続ける男に早朝と早晩に食事を届けることと、石像を掘るために必要なものを届けることだった。岩は修道院の敷地の外れにある、人一人が生活できる巨大なものだ。院長によれば、修道院が創設された時代よりずっとあったという。


 平たく言えば世話係なのだが、その男に対しては食事と材料を届けるだけで良いという。彼は何者なのかと院長に尋ねると、この修道院の中でも特に敬虔な人物であると答えてくれたが、岩の中に居続ける理由は教えてくれなかった。長い間病を患っているため、も余命短いから、あまり触れてやらないで欲しい、とも院長は付け足した。


「パンとスープをお持ちしました」


 岩の最奥は深い闇に包まれて様子がしれない。エダンは岩の奥に入る気になれず、入り口から声を投げる。声を投げる、というよりも、うら若き乙女が詩を諳んじるような清涼な音を出す、と言った方が正しい表現かもしれない。エダンは自分の声が好きではない。声を出すたびに体の最奥が削がれていく気がするからだ。


 ややあって岩の中から、過剰に反響した声が届いた。


「あなたは誰ですか」

「エダンと言います。あなたの世話係を任じられました」


 闇の中がもぞりと動いた。衣ずれの音に次いで、硬質な二つのものがぶつかる音が届いた。瞬間、息を吹けば掻き消されるほど微弱な灯りが宿った。灯りが入り口に向かって平行に動く。手のひらの汗をはっきりと感じた。

 現れたのは、老人だった。右のこめかみに、小指の先ほどの大きな黒子がある。蝋燭を持つ皺の深い手は、随分前から水を与えられていない枝のようだった。体も手と同じように、身を包んだカプチーノ色の修道服が何とか人としての外見を保っているように見えた。顔色は蒼白で息が荒い。院長のいう通り、死期が近いように思われた。


「私は今、天上への途上にいるのか。神も酷なことをなさる。あなたの懐に導くために、かのような麗しきものを遣わせるとは」


 老人の白濁とした瞳を極限まで広げてエダンを見つめる。枯れ切った枝の指を伸ばして、エダンの頬に触れた。岩の中はどのような温度なのだろうか。ひんやりとした、という表現も生ぬるいほど澄み切った冷気に満ちているのかもしれない。それほどまでに冷たい指だった。


「私は天上のものではありません。先日この修道院に入った、ただの見習いです」

「そうか、うん、そうか」


 老人は何度も頷き、かさかさの手でパンを掴んだ。野菜のスープと啜りながら、老人はエダンにどうしてここに来たのかと問うた。エダンの喉の奥に、苦いものが広がった。言葉が出ずに、背中から嫌な汗が流れた。この修道院の院長に出会わなかったら、今頃どうなっていただろう。想像するだけでも寒気がする。


「嫌なことを聞いてすまなかった。ここにくるものは皆、話せない理由があるのに。久しぶりに院長以外と口を聞いたから、嬉しくなってしまったようだ」


 あなたのようなものもここでは珍しくない、と院長は最初に出会った時、エダンに言った。


 あるものは戦争に参加し、あるものは殺人を犯し、あるものは強盗の限りを尽くした。さまざまな経歴のものが最終的に、神のために祈る道を選んだ場所。もしくは、死の一歩手前で、ここにくることが出来たもの。わけのない人間なんていない。そんな修道院。修道院とはつまり、牢獄に近いのではないかとエダンは考える。神のために祈りながら神のために仕事をし、神の懐に向かうのをひたすら待つ場所。それでもエダンは、一般社会に放り出されるよりはましだとも感じていた。自分を受け入れるような場所はないから。


「院長以外はここに来ないのですか?」


 老人は静かに頷いた。


「皆、私が恐ろしいのだ。石像を掘る狂人、気狂いと。だから君が私の久しぶりの客人だ」

「……あなたの名前はなんと言うのですか?」


 バルバロ、と老人は答えた。この老人にも、帰る場所も受け入れる場所もない。時折たんの絡んだ咳をする老人に、エダンは親しみを覚えた。

 

 


 地の底から静かに泉が湧き上がるように。蔓草が伸びて花を咲かせるような緻密さで、エダンは声を伸ばす。ミサで歌う詩篇である。歌詞は全て頭に入っていた。修道院にくる前は、エダンは音楽学校に所属していた。そこでは楽譜と歌詞を一度見ただけで歌えるような訓練をしてきたのだ。四度の音から外れないように、その旋律にふさわしい音を出す。かつての学舎であった場所では、少女のごとく清涼だが、光り輝く音ではなく、霧のように辺りに霧散する音とかつて評された音。男ばかりの聖歌隊の中に入ると、当然のことながらエダンの声は浮いていた。


 修道院での生活は、祈りと奉仕活動が大体だ。歌は神を賛辞するための重要な役割を果たしている。日々のミサの中では歌は欠かせない。1日のミサと礼拝の中で何度も歌うのだ。


 この声を喜ぶ人間と、面白がる人間と、蔑む人間がいる。


 歌いながら、エダンは礼拝堂の窓をみやった。窓の向こうには岩の中で像を掘り続ける男がいる。


 日々の聖務と下働きの隙間に、エダンは食事と材料を届ける。岩の入り口に立つと、時折、咳と、ガリガリと硬いものを削る音が奥から響いた。前者は病によるもので、後者はみで石像を作っている音に違いなかった。老人が掘るための石は、全て院長が用意をした。手のひらに収まる石から、かごほどある大きさのものまでを、荷車を用いて岩の前まで運んだ。そこからはバルバロが、枯れた枝の腕で奥まで運んだ。


 ミサにも聖務にも参加せず、ひたすら岩の中で石像を掘り続ける男に、周りの牧僧は確かに恐れを抱いているようだった。人相の悪い牧僧が、狂人、気狂いと、バルバロが言った通りの恐怖を口にする。その様子が少し滑稽に映った。皆、人に言えないような事情を抱えているのに、どうして岩の中にい続ける老人を恐れるのだろうか。


 バルバロとエダンは、食事や材料を届ける際に、少しずつ話をするようになった。菜園の中の野菜の話。今日の修道院長の説教の内容。好きな聖書の逸話。話を交わすうちに親しくなりつつも、バルバロの顔色はどんどん悪くなり、平常ではない咳の回数が増えていった。ある時エダンは、岩の中に入っても良いだろうかとバルバロに尋ねた。どのような石像があるのか気になったからだ。すると老人は静かに首を横に振った。まだ、誰にも見てほしくない、と。


「院長には、私が死ぬときに全ての石像を出してくれと言ってある」


 その時まで、誰の目には触れてほしくはないのだとエダンは悟った。


 *

 

 その日は一等寒く、朝から粉雪がちらつく日だった。エダンがこの修道院に来て、数ヶ月が経過していた。夕方にパンとスープとチーズを運ぶと、今日の声はどうしたのかとバルバロに問われた。少し音程が不安定だったからか、風邪でも引いたのかと心配されたのだ。


「寒かったから、朝は喉の調子が悪かったのです。ですが今は大丈夫です」

「そうか、うん。いつもと違ったから気になっていた。君の声は本当に綺麗だ。誠実で、全てを清めてくれる」

「世辞を言っても何も出ませんよ」

「世辞ではない。本当にそう思うのだ。それに、君の歌を聞くと、岩の中のマリア像も涙を流す」


 岩の中にはマリア像があるのだと、エダンはその時初めて知った。マリア像が涙を流すのは、ただの比喩だろう。身のあまる賛辞に、エダンは暗い笑いしか返せなかった。


「本当に、そんなものではないんです」


 身が凍るほど寒い中、互いに茶色の修道服姿だった。手元のスープが急速に温度を失っていく。バルバロはエダンの喉の調子を案じたが、エダンは老人の様子を憂慮していた。今日は特に顔色が悪い。もしかしたら明日本当に冷たくなってしまうのではないかと思われるほどだった。

 だから語る気になってしまった。


「私は失敗作だったのです」


 バルバロはエダンの顔を静かに凝視する。


「私の家は貧しく、兄弟が多かった。父は信心深いけれど余裕がなくて、母は私が5歳の時に亡くなってしまった。週に一度、教会に行ったときにいただくパンが唯一のご馳走だった」


 木造の狭い家には、家族がぎゅうぎゅうに詰められていた。エダンは自分が六人兄弟の末っ子だったような気がしているが、本当はもっと兄弟がいたのかもしれない。父のカルロが管理する農地は痩せていて、なかなか実らなかった。家で食べるパンと教会で食べるパンは、根本的に違っていた。家のパンは食べられるだけ御の字、という出来のものだった。教会のパンは、体の中に幸せを与えてくれるものだった。


「私は教会が好きだった。きらきらひかる極彩色の窓も、高すぎるほど高い尖塔も、光の粒が揃ったような聖歌も」


 ただ美味しいパンが食べられるから、教会が好きになったのではない。歌えるから。その豊かさの象徴だから。


 父は何かを勘違いしたのだ。教会の中でただ声を伸ばすと、広い空間の中で驚くほど音が高く舞い踊った。教会という場所は、音が伸びやすくできている。神を賛辞するにふさわしい音になるために。本当に、ただの勘違いだったのだ。


 カルロは息子の歌を聞いて、こう呟いた。頭を撫でた父親の手のひらは凍るほどで、爪まで土が入り込んで疲れ果てていた。


「この声は売れる」


 この声さえ、永遠に続けば。

 カルロは神父に頼み込んで、エダンを近隣の音楽学校へと入学させた。そこに至るまでは、あまり思い出したくない。父に怪しい古屋に連れて行かれ、痛みとともに意識を失った。気がついた時には体が変わってしまっていた。自分の体が、気が付かないうちに汚されたように思えた。音楽学校に入学させるために、父がいくら神父に金を渡したのか、エダンは考えたくはない。音楽学校で待っていたのは激しい競争だった。数年歌と楽典にのめり込み、そうして気がついた。


 声変わりがきたものと、声変わりをしなかったものとで真っ二つに別れたのだ。前者の人間は、後者の人間をだんだん恐れ、蔑みを込めて魔物と罵るようになった。


 エダンは自分の喉に触れた。隣の老人と同じように、ぽこりとした山がある。しかし出てくる声は、少女の音だ。


 自分のような声のものも、成功する人間もいるにはいた。成功した人間は、劇場や大教会で歌い、天使と呼ばれるようになった。どこまでも響く優しく甘い声で、愛を歌い、神に賛辞を届ける歌手。父はエダンが劇場で歌い、喝采を浴びる姿を夢見たのだ。


 しかしエダンは競争からこぼれ落ちていった。

 優しいけれどこれは売れない。癒されるだけで力がない。劇場には向かない、弱い声。


 自分は歌と教会が好きな、普通の、なんの才能のない人間だとエダンはわかっていた。これが普通の体の人間だったらいいだろう。だが、自分はどうだろう。少女のような声。普通の男とは違う身体。音楽学校から一歩外に出てしまえば、奇異の目に晒されてしまう。


「昔のことです。今はここに来られてよかったと思います」


 言葉のように割り切れない自らを自覚していた。そして自分のように、競争から溢れていった人間は少なくないということもエダンは知っていた。十人のうち十人は蔑みの中で生きなくてはならない。元の体に戻れたら、もしくは、本当に女だったらどんなによかっただろうか。幸運だったと思い込まなくてはならないのは、一種の悲劇だ。


 エダンは自分の声が嫌いだ。この声にした父も恨みたくなる。あの時感じた痛みを忘れることは、決してない。


「しかし君には歌がある」


 バルバロは項垂れたエダンの頭に触れた。血が通っているのを疑うほど冷たかった。


「石像を掘りながら、私は君の歌を心待ちにしていた。この声に赦されたらどんなにいいだろうと。私は君の私には君のような声はない。だから私は石像を掘り続ける。私が亡くなった後に、神の物語をのちに伝えられたらそれで良い」

「……それだったら、この中ではなく、もっと堂々とした場所で作ればいいのではないですか」


 バルバロは寂しそうに笑いながら、首を横に振った。


「私はかつてすべての十戒を破った。だからこの中がふさわしい。昔のことだが、忘れられない」


 重みを感じざるを得ない言葉だった。十戒。モーセがシナイ山から受け取った神からの契約。エダンの頭の中で、してはならないことが駆け巡る。詳しく聞くべきなのだろうか。それとも、聞かぬのが正しいのだろうか。老人は戸惑いを隠せないエダンの髪を撫でた。十戒を全て破ったと自称する男とは思えぬほど優しい仕草だった。離れがたいほど哀れみ深い冷たい手。割り切れないのは老人も同じなのだ。緩慢な動きで、老人は立ち上がる。まだ掘らなくてはいけないというように。

 その夜、バルバロは本当に息を引き取った。


 *

 

 葬礼が終わった数日後、エダンはバルバロの岩へと向かった。内部の片付けを命じられたからだ。棺に納められた老人は、ひとまわり小さく見えた。葬礼の中で、エダンは岩の中の聖者のために歌った。罪を犯し、神を想いながら石像を掘り続けた男のために歌った。初めて入る岩の中は冷ややかな汗をかいていた。吐く息が白い。所々にのみが散乱していて、ページが開いたままの聖書が落ちていた。


 最奥部にたどり着き、エダンは息を呑んだ。


 暗闇の中に、大小さまざまな石像が取り巻いていた。全てに彩色は施されていなかった。それでもエダンの目には、生き生きとした色が見えた。ゴリヤテを倒した若かりし頃のダビデ。義母のために麦を拾うルツ。全てを失ったヨブ。イエスに香油を塗るマグダラのマリア。イエスを一眼見るためにイチジクの木に登ったザアカイ。


 そして、赤子のイエスを抱く聖母マリア。

 全てが神の周りの、罪深い人間たちだった。


 エダンはその一つの聖母マリアに触れた。石で作られた聖母は冷たかった。だけど、どこまでも温かい存在のように思えた。ならば、この聖なる石像を掘った、十戒を全て破った男も、同じような温かみを持っていたのだ。同じ温度なのだから。蝋燭が唯一の光源を作る中、無限の泉が湧き出るようにエダンは声を伸ばす。過剰に反響する音を意識する。望む人間がいるのであれば、これからも歌い続けなければならない。


 聖母の瞳から涙がこぼれたように見えた。

 

 

 

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岩の中の聖者 神山雪 @chiyokoraito

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