エピローグ

わたしの愛した彗星

 わたしの物語はもうじき終わるでしょう。

 ですから、わたしの人生を最後に書き記そうと思います。わたしの日記は全て燃やしていただこうと考えていましたが、一定の需要があるそうで、身内の説得もあり、誰かの人生の糧になるならばと思って残すことにしました。



 わたしの人生は幸せでした。

 人生の中で最も嬉しかった瞬間は何かと聞かれたら、わたしは間違いなく娘のアリスを産んだことと答えるでしょう。自分の娘を初めて見た時、わたしは世界一の幸せ者だと涙を流したのをよく覚えています。


 アリスは立派に育ち、夫は、若い頃のわたしによく似ていると言っていました。子育ては不安の連続で、アリスがひとり立ちするまでは、わたしも夫もそれはそれは大変で娘のことでいっぱいでした。

 娘を見送った日、わたしは母親の役目を終えました。あとにもさきにも、これ以上に大変な役目はないでしょう。

 玄関から遠ざかっていく娘の背中を見て、わたしは寂しくも嬉しくもあり、その不思議な感覚に涙が滲みました。


 ずっと3人で暮らしてきた20年の家族生活がその日ぷつっと終わりました。

 わたしは新鮮さと懐かしさを感じました。夫とは結婚するまでそう長くはなかったし、娘もすぐに生まれたから夫との2人だけの生活はあまり長くはありませんでした。

 第2の人生が始まったのです。大きな役目を終え、わたしの人生の役割は終了したのだと思っていたら、まだ夫との時間が残されていることに気がつきました。

 わたしは夫に提案しました。


「旅に出ましょうよ」

「どこか行きたいところでもあるのか?」

「せっかく時間ができたのよ。わたしたち、ずっと一緒だったけれど、2人っきりは娘が生まれてからはあまりないじゃない」

「じゃあ来月あたり観光しに行くか」

「世界を回りましょう」


 夫は驚いて声が裏返っていました。きっと国内旅行を想定していのでしょう。

 わたしは続けて言いました。


「世界がどんな景色なのか全然知らないもの。宇宙の旅とは言わないわ。でもせめて、足をつけているこの地球がどんな星なのかを知ってから死にたい」


 そうしてわたしたちは旅に出ました。

 わたしはこんなにも世界が広いことを知りませんでした。

 極彩色の泉、川のように流れる山脈の雲、広大で深く抉れた渓谷――それらを夫と一緒に見て歩きました。

 その土地に住む人たちとも話し、文化を知り、料理も味わいました。

 大地を駆けるたくましい動物たちもこの目に焼き付け、長い歴史を持つ建築物は手で触れて感じました。


 夫がいなければ旅には出ていませんでした。

 わたしは夫といることが大切だと考えていました。朝起きて、わたしの傍にいたらわたしはそれだけで幸せで、少し身を傾けてそこに夫の肩があれば、どんな場所でもわたしは深く眠ることができました。

 愛ってすごいものです。

 昔、夫の妹さんが言っていました。


 愛は理論を超越する。


 わたしは夫がいれば何でもできるし、どこででも生きていける自信がありました。

 世界がどれだけ変わろうとわたしの彼への気持ちは不変なのです。彼を愛する気持ちは、どんな炎よりも熱く長く燃え続けるとわたしは今でも思っています。



 わたしと夫との生活は毎日が幸せで、時間はどんどん流れてゆきました。20年なんてあっという間で、アリスの子供が、わたしにとっての孫がときどきわたしたちに会いに来てくれます。

 そう、もうおばあちゃんなのです。

 自分に老いなんて来るはずがないと思っていましたが、生物の運命には逆らえないのだと痛感しました。若い頃のようにコツコツと靴の音を鳴らしながら軽快にはもう歩けません。手の水分もずいぶんと減ってしまって、骨が浮き出ているんですよ。体中どこもかしこもシワシワで梅干しみたいになってしまいました。

 若さを羨ましく感じることもあります。けれど、不思議と今が一番幸せだとも感じるのです。

 それはすぐにわかりました。わたしと夫が街の喫茶店でお茶しているときでした。

 制服の子どもたちが近くの席で談笑していて、わたしはずっと昔、夫と美味しいものを食べた記憶を思い出しました。


「あなた覚えてる? ずっと昔――」

「ん?」

「ずっと昔にね、ここらで甘いものを食べたでしょう?」


 この頃から夫の耳は遠くなり始めていました。だからわたしは彼の耳に届くように、がんばって声を大きくしていました。


「あったなぁ。えらく食ったな」

「あなたはトマトジュースばかり飲んでいたわね。懐かしい」


 夫はそろそろ世を去るのだと感じました。

 わたしたちは過去を振り返ることが多くなりました。お互いの異変に早めに気づけるよう普段から思い出話に花を咲かせました。自分がボケているかどうかは自覚が難しいと聞きますから。

 もう世界の旅はやめました。身体も丈夫ではないし、十分に世界を回ったので心残りはもうありません。遠くへ行かなくとも、毎日静かな場所で散歩をするだけでわたしは幸せでした。

 彼と手を繋ぐと「こんなに歳を取ったのね」と苦笑する。彼も咳き込みながら笑う。


 あぁ、幸せだなぁ。


 昔よりさらに幸せでした。

 肉体的な苦労は増えたけれど、ずっと穏やかで優しくて温かみのある幸せがわたしの中にありました。


 夫はもう出歩けず、目も悪くなってしまいました。

 幸いにも彼はわたしを忘れませんでした。


 わたしは榊木アリナ。わたしはあなたの妻、あなたはわたしの夫。


 それだけは決して彼は忘れず、いつもわたしを呼んでくれました。

 杖をつき、最寄りのスーパーまで歩き、今晩は何を作ろうかと彼の喜ぶ顔を想像するのがわたしの当時の楽しみでした。お味噌汁を飲むと彼は笑顔になって、わたしもその日1日はハッピーでした。

 娘の手を借りようとは思いませんでした。

 娘はわたしたちを介護する気でしたが、わたしはずっと断り続けました。アリスもいずれ気づくでしょう。親はいくら歳を取っても、子どもには面倒をかけたくないものです。



 病床のベッドで横たわる夫。わたしは彼の手をずっと握っていました。60年以上前にもこうしていましたね。

 よくがんばりました。わたしは夫の耳元でそう囁きました。


 一緒に歳を取ることでできてよかった。

 一緒に愛し合えてよかった。

 一緒に子を育てられてよかった。

 一緒に生きてこられてよかった。


 一緒に死ぬことができないことはわかっていました。

 一緒に涙を流せないこともわかっていました。

 最愛の人を看取るのはすごく辛いってわかっていても、わたしはあなたの傍にいられて本当に幸せでした。


 あなたは先に旅立ちます。

 でもわたしはもう少し、この世界で生きていくでしょう。

 あなたのいない世界はきっと……とても寂しいでしょう。


「アリナ……すまないなぁ、本当にすまないなぁ……」

「いいのよ。これでいいの」


 あなたの周りにはたくさんの人がいます。わたしも、あなたの娘も、孫たちも一緒にいます。

 わたしは孤独にはなりません。あなたのおかげでひとりぼっちにはなりません。でもね、あなたがひとりぼっちになってしまうのが不安でした。

 初めて会った日のことを鮮明に覚えています。

 ひとりぼっちだったわたしは図書室にいて、そしてあなたがわたしに声をかけた。

 わたしはとても酷いことを言って、でもあなたはわたしから離れなくて。


 あなたは本当に彗星みたいに、わたしの周りをずっと回っていました。


「アリナ」


 彼がぽつりとわたしの名を呼びました。

 わたしは彼の手を強く握って、傍にいることを伝えました。そして彼は続けました。


「ありがとう」


 それが夫の最期の言葉でした。


「こちらこそ。また会いましょうね」


 わたしの愛した彗星は、こうして旅を終えました。

 美しい尾を引くあの彗星はもう二度とわたしのもとへ帰ってきてはくれない。

 けれど、わたしはもう少しだけ太陽として光を放ちます。あなたのいない世界で。



 

 長いわたしの物語はもう終わりです。

 夫が亡くなった後、わたしの日課は仏壇へと足を運ぶことになりました。

 仏壇には夫の顔写真が置かれていて、わたしは毎日「おはよう」と挨拶をします。

 それがわたしの1日の始まり。

 あなたのいない世界の始まり。

 

 あなたが亡くなった後、少し世界が恐ろしく感じました。

 大切なあなたが亡くなっても世界は何事もなく時を刻み続けるのですから、なんだか残酷に感じました。しかし恐怖はやがて消えました。どこかであなたが見守ってくれているような気がしたから。

 あなたが亡くなった後の10年は普通に暮らしていました。娘は頻繁にわたしに会いに来てくれて、孫もよく来てくれました。ボケずにここまで生きてこられたことを本当に感謝しています。


 それから15年が経ち、わたしは先月110歳になりました。

 太陽はまだしぶとく輝き続けています。あなたが亡くなってからもう25年が経ちました。友人はもうだいぶ昔に全員世を去りました。あなたの妹、宇銀さんは90歳で亡くなったので、それも20年も前の話になります。

 娘のアリスはまだ生きていますが、10年後はどうなっているかはわかりません。

 

「おはよう、あなた」


 仏壇の前であなたに声をかける。

 大丈夫、覚えている。夫の名前も、娘の名前も、亡くなった友人全員の名前も覚えている。誰1人忘れていません。

 ちょっとだけ物忘れをすることが増えたけれど、わたしの好きなあなたの顔は覚えています。

 いっそ幽霊になって会いに来てくれればいいのに。そう願っていましたが、一度も現れたことはありません。


「今日もお友だちのもとに行ってきます。あなたの写真も持っていきます」


 杖をつき、介護されながらバスに乗る。わたしは110歳でもまだ自分で歩ける珍しいおばあちゃんだった。けれど流石に燃え尽きる寸前の太陽です。今週から施設に入ってお世話になります。

 施設で昔の写真を持ってみんなが集まりました。

 車椅子に座り、手には自分の若い頃の写真を持って語らい合うのです。

 わたしはあなたとの結婚式の写真を持参しました。あなたもかっこいいし、わたしも綺麗だったからきっと自慢できると思ったのです。もちろん好評でした。あなたはわたしの自慢の夫です。


 毎日楽しく過ごしていたつもりでした。

 ですが、やっぱりあなたの声を聞けないのはとても寂しいです。

 もう25年聞いておりません。おはようと仏壇に挨拶しても、あなたのおはようは返ってきません。だから最近は録画した昔の映像を繰り返し見ています。娘が幼い頃の映像、結婚式の映像、世界を旅した時の映像だったりと、動くあなたを目で追い続けました。デジタルはつくづく偉大だと思わされます。

 あなたはいないけれど、あなたのいた証はちゃんと残っていますよ。



 夜、わたしはよく泣くようになりました。

 目を閉じて眠りに入ると夢の中であなたの背中が見えるのです。

 わたしはあなたの顔を見ずに無理やりにでも目を覚まします。だってそれはあなたじゃないですから。

 

「あぁ……会いたいなぁ……」


 わたしは枕を濡らしながら、あなたへの想いを綴る。


「会いたいなぁ……あなたに会いたいなぁ……」

 

 あなたの写真が破れないよう強く胸に抱くのです。

 これは恋であり、愛なのでしょう。

 この愛がある限り、まだあなたの太陽として光を放てそうです。


 死んだらあなたに会えるのでしょうか。

 

 その答えが知りたいようで知りたくありませんでした。

 会えないとわかったらわたしはもっと生きなければなりません。あなたを一番よく知っている人はもうわたししかいませんから、わたしが死んでしまったらダメな気がするのです。

 わたしだけがしぶとく長生きしています。


 宇銀さん、彼に会えましたか。

 わたしは、彼に会えますか。



 もう私は歩いていません。車椅子で誰かに押してもらわないと移動できなくなりました。

 長い長い人生でした。あとはこの人生を終えるだけです。

 夕方、沈みゆく太陽を見て呟きました。


「あなたも見ていますか」


 勘違いした施設の方が「見ていますよ」と返した。

 本当はあなた――彗に言ったのだけれど、優しい私は「綺麗ですね」と答えました。

 あなた、あの時わたしの隣にいたでしょう?

 ずっと傍にいたってわかっていたんだから。

 だからその日の夜、誰もいない部屋でひとり旅立ってもちっとも怖くはありませんでした。

 あなたの死に際が羨ましい。傍には私もいたし、娘たちもいた。でもわたしはひとりで死んだ。


 いえ、違うわね。

 あなたはずっと傍にいた。






 私は目を覚ました。

 身を起こし、目をこすってあたりを見る。自分が学校の図書室で居眠りしていたことを思い出した。

 時計を見ると針が17時5分を指していて驚いた。私は1時間くらいここで寝ていたらしい。

 図書室には図書員も司書すらもいなかった。わたしひとりだけだ。


「鍵とかどうすればいいのよ……」


 私はため息を吐き、乱れた制服をただして背を持たれた。

 枕代わりにしていた本を見る。


 わたしの愛した彗星


 足下の鞄に手を伸ばし、荷物をわけて本を仕舞う。教科書が見え、テストが近いことを思い出した。寝てる場合じゃなかったのに。

 ドアの開く音がした。

 私は頭を上げてドアの方に目を向けた。


「まだここにいたのか」


 あなたがいる。

 あの憎たらしいニヤけ面を貼り付けた、あなたが立っている。


「アリナ、友だちでも作れって言っただろ。なのにまた図書室で本ばっか読んで――お、おい、どうした?」


 私は泣いた。

 目から涙が止まらず、わんわん大泣きした。

 ずっとあなたに会いたかった。

 あなたにずっと会いたくてたまらなかった。

 あなたがとても恋しくて恋しくて……今すぐにでも抱きしめたい。

 でも私はひたすら泣くことで精一杯だった。

 

「ア、アリナさん? なんでそんなに泣いてるんすか……?」

「知らないわよバカ。見んな気持ち悪い!」


 そんなことを言いたいわけじゃない。

 私はずっとあなたを探していたの。

 あなたのいない世界であなたの姿を探していた。


「泣くな。これからはずっと傍にいてやる」

「もう離れちゃダメよ」

「離れたことなんてなかったさ。俺は彗星だからな」

「そうね、私は太陽だものね。離れられないのも当然だわ」


 私は泣き止み、彼の差し伸べた手を取って席を立った。

 

「帰ろう」

「えぇ、帰りましょう」


 もう涙を流すことはないでしょう。

 あなたがいるから。

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わたしの愛した彗星 水埜アテルイ @A_ByouNo

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