第七話 英梨華の来訪
「ハーイ、おかえり」
佐野書店から帰り、自分の部屋に戻ると、ベッドの上に英梨華が座っていた。白々しいほどの笑みを浮かべて、こちらに手を振っている。
「いや何してんねん」
「あら、日本では帰ってきたらまず第一に『ただいま』でしょう」
「何してんねんって」
「あなたがあまりに不甲斐ないから、来ちゃった」
てへ、と舌を出す英梨華。
「来ちゃった、ちゃうやん。どっから入ってきたんや」
「玄関からよ。当然でしょう。かわいらしい妹ちゃんがここで待っててって。
「詩乃ーっ」
私は三女の部屋へ駆け込んだ。中学一年生の脳天気な妹は二段ベッドの下で横になって、スマートフォンで動画を見ている。
「あ、
「あのなぁ、知らん人を家に入れたらアカンって母ちゃんから教わったやろ」
「え? でも、英梨華ちゃんは文ねぇの友達なんやろ?」
「知らん。あんな人知らんで」
「ええっ?」
詩乃が目を見開く。
「でも、文ねぇの小説持ってたし」
振り返る。私の部屋から顔だけ出した英梨華が、不敵な笑みを浮かべている。手には確かに、私が先々週あたりに貸した小説を持っている。
「嘘はだめじゃない、ふ・み・ねぇ。私たち、マブダチでしょ」
「なにがマブダチやねん」
詩乃の部屋を出て、英梨華の手から小説を取り上げる。
「つれないわね。私はあなたが心配で心配でしかたがないから来て上げたのに」
「突然来られたら、こっちもビックリするやん。来るなら来るってちゃんと言うてくれたらええのに。学校でも会うてるんやし」
「こういうのは、サプライズにするのが楽しいんじゃない。それに、まさか文嘉さんが留守だなんて思っていなかったの。下校中に未知との遭遇でもしたの?」
「ちゃうわ。アルバイトしててん」
え、と英梨華が目を丸くする。
「初耳よ。あなたがアルバイトしてたなんて」
「まあ、言うてなかったからな」
「水臭いわね。どうして言ってくれなかったの? 私悲しいわ」
「いやいや、別に隠してたわけとちゃうって。いう機会がなかっただけやって」
ふうん、と英梨華が眉を潜めた。
「まあ、いいわ。じゃあ、さっそくお父様に伝えにいきましょう。ほら、私がついて行って上げるから」
英梨華が私の腕を掴む。
「無理や。父ちゃんまだ帰ってきてないやん」
「じゃあ電話しましょう。電話借りるわよ」
「いや行動力すごいな! まだ仕事してるから。職場に迷惑になるから!」
立ち上がろうとする英梨華の腕を掴む。
「ちゃんと言うから。これは、うちが言わんとあかんから」
「でも、あなたいつになっても言わないでしょう。いつまでたっても埒があかないわよ。それで、お父様はいつお戻りに?」
「いつって、——7時くらいやと思うけど」
「じゃあ、それまで私も待ってるわ」
「いや、それは——」
「なー、姉ちゃん。台所にあるミリンってまだ使えんの」
ノックもせずに次女の
私の横に座っている英梨華に気付いて、佳奈が目を見はる。
「わー。めっちゃきれいな人」
「こんにちは。おじゃましています」
よそ行きの笑顔で英梨華が頭を下げた。こういうとき、悔しいけれど本当に良いところのお嬢様って言うのは、オーラが違うと思う。
「えー、こんにちは。すごい、緊張しちゃいます。なんで姉ちゃんの部屋にこんなきれいな人が?」
「あら、ありがとう」
くすくすと、英梨華が微笑む。
「見惚れてしまいそうです。姉ちゃんと同じ学校なんですね? 名前はなんていうんですか? あ、うち国谷佳奈っていいます」
「英梨華よ。米園英梨華。エリカって呼んで」
「ええんですか! じゃあエリカさんで! 妖精さんみたい。髪めっちゃキレイですね。なんのシャンプー使ったらそんなサラサラになるんですか?」
こういうとき佳奈は強い。母の人垂らしのDNAをきちんと引き継いだ佳奈は、どんな人に対しても、全く物怖じしたりしない。質問しながらちゃっかり英梨華の横に座り込んでしまった。
「なにここに居座ろうとしてんねん。なんの用?」
「いや、このさい用はいいわ。なんで姉ちゃんの部屋にこんなきれいな人がおるん?」
「国語を教えてもらっているの」
机の上にある参考書を手にとって、英梨華が言った。
ああ、と佳奈が頷く。
「姉ちゃん、国語だけは得意やもんな。昔から本ばっか読んでて」
「関係ないやん。なんやねん」
「ちょうど良いわ!」
英梨華がパチンと両手を合わせた。
「一緒に手伝ってもらいましょ。どうやったらお父様に受験することを伝えられるのか」
――アホ、
英梨華の顔を見る。英梨華が私の視線に気付いて、にやっと笑った。まさかこいつ、失言じゃ無くて確信犯か。
「え? 姉ちゃん、受験すんの?」
「いや、ちゃうねん、」
「違わないわ」
英梨華が口を挟む。
「アホ、まだアカンって、」
「言っちゃいなさいよ」
英梨華が私を見ている。
「どっちみち分かることなんだから」
大きな英梨華の目。まるで自分の中の臆病な心を見透かされているようだ。
英梨華の横にすっかり座り込んだ佳奈に言う。
「そう、受験すんの。父ちゃんにはうちから言うから、黙っといてや」
これから勉強するからジャマせんといて、と半ば強引に佳奈を部屋の外に連れ出す。扉を閉めると、部屋の中が静まりかえったような気がして、途端にドッと疲れる。
「もー。頼むって」
「賑やかで楽しそうね」
「うるさいだけやって。ホンマ、口だけは達者やねん」
「私、一人っ子だから羨ましいの」
ふふ、と英梨華が笑った。
「作戦を練りましょ。どういうシチュエーションでお父様にたのんだらいいのか」
「大げさやって」
「このくらいしないと、あなたは何もしようとしないじゃない」
英梨華はカバンかやルーズリーフを取り出した。
「文嘉さんのお父様が喜ぶことを考えましょう。んー、一般的に、父親が喜ぶことと言えば、なんでしょう、お酒とか?」
「父ちゃん、下戸やねん」
「カーネーションは?」
「それは母に送るもんや」
「じゃあ、ネクタイかしら?」
「んー、まあ仕事で使うやろうけど、受験したいって言うのにそんなんでええんやろうか」
「じゃあ、背中流して上げなさい」
「ぜったい嫌がるわ」
「もう、なんなのよ。さっきから否定的なことしか言わないじゃない」
確かに、と思う。
「――はあ」
口からため息が漏れた。
「これで、父ちゃんともめて、うちが落ち込んだら助けてな」
「もちろんよ」
英梨華が言った。
「私はずっとあなたの味方なんだから。一緒に勉強しようって、約束したでしょ。今の私がいるのは、文嘉さんのおかげなんだからね。次は私が支えさせてよ。でしょう?」
英梨華が笑った。
英梨華のその言葉に、私は少なからず、救われた気持ちになった。
別に言葉にしなくても、英梨華がずっと自分のことを気遣ってくれていることを、私は分かっていた。その好意に甘えているのも自覚している。
けれど、こうして言葉で伝えてくれたら、うれしいのは間違いない。
——言葉っていうのはな、人に気持ちを伝えるためにあるんやで。
そう。そうなのだ。
だから、私は言葉を学ぼうと思ったのだ。
拝啓、お父さん 鶴丸ひろ @hiro2600
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。拝啓、お父さんの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます