第六話 欲しかった本
声をかけられている。
「――ちゃん? 文嘉ちゃん?」
はっと顔を上げる。目の前に佐野さんが立っていた。
「ただいま、お客さん、誰か来た?」
「いや、今日は静かですね」
そう、と佐野さんは言った。
「最近、本を買う人が減ったような気がするわね」
「まあ、最近は電子書籍とか、ありますからね。うちは、いまだに紙の本が好きですけど」
小説を読んでいると、とても素敵なシーンに巡り合うことがある。
そんなとき、私はその場面を自分の中に取っておきたくなる。言葉で紡がれた場面や心情を、大事に懐にしまって、誰にも見られない小さな場所に入れて、ずっと持ち歩きたくなるのだ。
そのページだけ切り取るのはだめ。かといって、その感動した一文だけをメモするのも、なんか違う。小説は始まりから終わりまで、文字で繋がっていて、その中の一文が素敵だったとしても、切り離してしまったらバラバラになってしまう。その一文が素敵だと思えるのは、そこにいたるまでの過程や流れがあってのことなのだ。
小説は、誰かの人生なのだと思う。
そして、そんな小説を手にすることができる紙の本が私は好きだった。
その一冊の本をカバンに入れれば、登場人物の心情や体験した場面を、そのまま携帯できる気がするから。
「あの、この本、うちが買ってもいいですか?」
私は本棚から一冊の本を取り出した。本棚の掃除をしているときに、たまたま目についたのだ。
いいけれど、と佐野さんが言う。
「でも、『永訣の朝』って、教科書にも載っているでしょ?」
「あ、違うんです。学校の友人に、イギリスからの留学生がいて、おすすめの小説を教えてほしいって言ってるんです。日本の文学を知りたがってて。それで、貸してあげようかなって」
なるほどね、と佐野さんが言った。
「じゃあ、この本はあげるわ」
「え、そんな悪いですよ。ちゃんとお金は払います」
「いいのいいの。いつも文嘉ちゃんには助けてもらってるんだし」
「でも、」
「こうやって文嘉ちゃんが話し相手になってくれるだけで、私にとってはありがたいのよ。本当、文嘉ちゃんがきてくれてよかったわ」
「いえ、うちの方が無理言ってお世話になってるんで」
恐縮してしまう。お世話になっているのは、自分の方だと思う。
「ううん。じゃあ、また明日も来てくれるかしら」
「もちろんです。よろしくおねがいします」
頭を下げて、私は『佐野書店』を出た。
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