第五話 母との思い出
「勉強はできなくてええけど、愛想だけはようしとくんやで」
それが母の口癖だった。
死別してからそろそろ2年になろうかとしているが、私は今でもふとした拍子に母のその言葉を思い出す。母はその口癖を体現するかのように、だれとでも親しげに話ができる人だった。商店街でカウンターの店員と話し込むことなんてよくあったし、母と一緒に商店街に買い物に行ったときは、おまけでもらった牛すじコロッケを手にしていたような気がする。
とにかく、母は明るかった。
口から生まれてきたのではないかと思うくらい、よく話をする人だった。
父は小さい頃から、単身赴任で家を空けていることが多かったから、私はそんな母の背中を見て育った。
あれはまだ、私が小学一年生の頃。学校でクラスの夏子ちゃんとけんかをして、頭を叩いてしまったことがある。そのときは、言葉をうまく使うことができずに、口よりも先に手が出てしまったのだ。
意地悪をしてきたのは向こうが先だったが、夏子ちゃんが泣き出すと、私の立場は悪くなった。普段はいい関係を築けていると思っていた教師からも
家に帰って、私は母に泣きついた。
けれど母は私の涙ながらの訴えに対して、あっさりとこう切り返した。
「あほう。なんで手を出すねん。手を出した時点で、あんたの負けや」
あのとき、母は夕ご飯の支度をしていたから、台所は味噌汁の匂いがしていた。
「そんなこと言うたって、なっちゃんが最初に意地悪してきたんやもん。なんでうちが言われたまま黙っとかんといかんの? そんなんおかしいやん」
「べつに黙らんでもええやん。あんたも口で言い負かしたったりな。とにかく、暴力ふるうことは絶対にあかんの」
「口やったら、泣かしてもええの?」
それはあかんけど、と言うと思って、あえてそんな質問をした。
けれど母は、当然のような口調で「ええよ」と言った。
「あんたも口で人を泣かせるようになったら一人前や」
「なにそれ。泣かせるなら暴力も言葉も同じやん」
「なんでやねん。理不尽なことされたって思ってるんやろ? 思わず叩きたくなるほど悔しかったんやろ? それやったらちゃんと言葉で自分の気持ちを言いなさい」
母は味噌をとかしながら、
「分かって欲しかったら口で言わんと。人間は言葉で気持ちを伝えられることできるんやから。言葉っていうのはな、人に気持ちを伝えるためにあるんやで。人と動物の違いはなんやねん。言葉が話せて、自分の気持ちが伝えられることやろ? それができんのやったら、あんたは動物と変わらんねん。そうやろ?」
「……そうかもしれんけど、」
「やったら明日学校でなっちゃんに謝りや。――あ、そこの小皿取って」
私はむくれて、俯いていた。
結局言葉で丸め込まれてしまって、それに言い返せない自分が悔しくて、母の背中にこんな言葉を投げつけた。
「いやや! ママのアホ! 大っ嫌い!」
「はあ?」
母が鬼のような形相で振り返った。
「あんた、だれに向かってそんなこと言うてんの!」
「言葉やったらなに言うてもいいって言うたやん!」
私はそう吐き捨てて、自分の部屋に戻った。その日のご飯は、私の分だけやけに少なかった。
それともう一つ、私には忘れられない記憶がある。あれはまだ小学三年生の頃だ。
作文が宿題に出た。題材は「家族」で、私は両親のことについて書いた。
お父さんは仕事のせいでほとんど家に帰ってきません。顔も忘れてしまいそうです。
お母さんはとても口が上手です。値切りをするのが得意で、買い物から帰ってきたらいつも何円得したって自慢します。きれい好きで、掃除が上手です。たまに洗濯もします。――そんなことを書いた。
「ちょっと文嘉、なにこれ!」
先生にチェックしてもらって、返却された作文を勉強机の上に置いていた。母はそれを持って、眉間に深いシワを刻み込んで駆けつけてきた。
「これ。たまに洗濯物をするってどういうことやねん。毎日やってるって何で書いてへんの」
リビングで読書をしていた私は、突然のことに戸惑ったのを覚えている。
「え? なんのこと?」
「見てみぃこれ。『たまに洗濯する』って、そんなわけないやん。毎日洗ってるんやけど。うちに何人おると思ってんの。文嘉に佳奈に詩乃の脱いだ服、たまにで洗ってたらとんでもない量になるやん。毎日毎日4人分の服洗うのどれだけ大変やと思ってんねん。先生もぐうたらなオカンやなって思うやん」
「そんなんどっちでもええやん。先生もそこまで真剣に読んでないやろうし。気にしてへんって」
「あんたホンマええ加減にしいや。こういうことが人の印象をどんだけ強く変えると思ってんねん。『たまにやる』のと『いつもやる』のじゃあ意味がぜんぜんちゃうやん。文字書くときは一語一句、ちゃんと相手がどう思うかを考えながら書きなさい」
また大げさな言い方するなあ、と思う。その頃には私も口が達者になってきていて、母に憎まれ口をたたけるくらいに成長していた。
「うるさいなぁ。ほんなら明日、田中先生に言うとくから。うちの母ちゃんは毎日洗濯もんを洗ってるのに『たまに』って書かれたのが気に入らんって。授業参観や面談で先生と顔合わすのも恥ずかしいからきちんと訂正しておけって言われましたって言うとくから」
「アホ。そんなことしたら国谷さんちのお母さんはそんなことを気にしてはるって思われてしまうやん」
ぷいっと子供のように拗ねて、母は台所に戻っていった。
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