彼と彼女の許されざる恋

烏川 ハル

禁断の関係

   

「旦那様、早まってはなりませぬ……。あの御婦人と契ってはなりませぬ……」

 小高い丘にある暗い森を、ヴァルターは馬で駆け抜けていた。

 今時、乗り物として馬を使うのは非常識なのだが……。

 彼が仕える屋敷は、この森を抜けた先にあり、他の交通手段では行き来できないのだ。しかも電話やインターネットも敷いていないため、丘の麓の街と連絡を取るには、昔ながらの郵便に頼るか、あるいは急ぎの場合は、誰かが直接出向くしかない、という環境だった。


 やがて森を抜けて、大きな屋敷が見えてくる。

 個人の邸宅というより、観光地の古城みたいな外観だ。実際、何百年も昔の城がモデルらしい。

 アンツェル家の人間は、もはや当主であるシャルフェンただ一人。執事のヴァルターを含めて住み込みの使用人は数人いるが、それでも不必要なまでに大きな屋敷だった。わざわざ古城をモデルにすることもないのに、これもシャルフェンの懐古主義の一端なのだろうか。ヴァルターは時々、主人に対して呆れに近い感情を抱くくらいだった。


 いわばシャルフェン城とも呼べる屋敷は、ヴァルターが暮らす我が家わがやでもあるのだが……。

 こうして、暗い夜空――雲間からわずかな星明かりが覗く程度――を背景にした今、むしろ異様な存在感を醸し出していた。窓から漏れる部屋の明かりも、「まだ起きて待っている者がいる」という安心感を与えるのではなく、逆に「シャルフェンが良からぬ振る舞いをしている最中さいちゅうではないか」という不安を煽り立てていた。


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 自分の趣味に合わせた大邸宅を建てられる。その事実からもわかるように、シャルフェンは大金持ちだった。先祖から受け継いだ資産だけで、働かなくても食べていける状態だった。

 家族も恋人もおらず、人付き合いも苦手な彼は、本を読んだり音楽を聴いたりして、いつも一人でのんびり過ごしている。シャルフェン自身は幸せそうだが、このままでは、アンツェル家は彼の代で途絶えてしまうだろう。

 主人に対して意見するつもりはないけれど、時々ヴァルターは不安になるのだった。


 そもそもシャルフェンは、資産家なだけでなく、容姿も優れている。同性であるヴァルターから見ても、惚れ惚れするくらいだった。シャルフェン自身は嫌がるだろうが、もしもどこかの婚活サイトに登録したら、女性が殺到するに違いない。

 唯一問題になるのは、シャルフェンの懐古主義だろう。シャルフェン城のような環境――インターネットすら繋がらない場所――に、いったい誰が嫁いできてくれるというのか。住み込みの使用人ですら、新しく雇うのは難しいというのに……。


――――――――――――


 そんなシャルフェンの屋敷に、一人の若い女性が転がり込んできた。今から一ヶ月ほど前の出来事だ。

「シャルフェン様、大変です!」

 ちょうどその日は、毎月一度の庭師が来る日だった。屋敷を訪れた彼は、いつものように庭で作業を始める前に、建物の中へ駆け込んできたのだ。

「屋敷の外で、若い御婦人が一人、倒れております!」

 慌ててヴァルターが様子を見に行くと、地面に伏せていたのは、青いドレスを纏った女性。

 ちょうどシャルフェンと同じくらいの年齢であり、ルックスも同レベルだった。もしもシャルフェンを女性にしたらこんな感じだろう、というくらいに、絶世の美女だったのだ。

 ヴァルターが気付け薬を嗅がせると、女性は意識を取り戻した。

「ここは……?」

「アンツェル家の屋敷の前です。それで、あなたは……? 当家へのお客様でしょうか?」

「私は……」

 うつろな目をした女性は、頑張って答えようとしたのだが……。

 何も答えられなかった。

 彼女は記憶喪失だったのだ。


 麓の街まで出向いて、かかりつけの医者に来てもらった。

 懐古主義のシャルフェンが嫌うような最新鋭の診察機器――小型だが大抵のことはわかる――を使ったが、特に体に異常はないという。ただ、記憶だけが抜け落ちているのだった。

「原因はわかりません。頭の中の話ですからねえ」

 医学が進歩しても、そこだけは理解不能。そんな表情で、医者は帰っていった。

 残された女性に対して、シャルフェンは優しく接する。人付き合いが苦手な彼にしては珍しく、穏やかな笑顔を浮かべて。

「自分の名前すら思い出せないのであれば、とても心細いでしょう。行くところもないでしょうし、しばらくは僕の屋敷に滞在してください」

 いている部屋の一つを彼女に与えたのだが、

「どうぞ、ここを使ってください」

「まあ! こんな素敵な部屋……。ありがとうございます!」

 そこは、窓からの眺めが良い部屋だった。空き部屋を掃除する使用人が、庭の花壇を見てうっとりして、つい手が止まってしまう。そんな逸話もあるような場所だ。

 この時のシャルフェンも、庭の花々に目を向けていた。ちょうど庭師が、青い薔薇の手入れをしている。

「知っていますか? はるか昔、青い薔薇は存在しなかったそうです。科学技術の進歩により、人為的に作られたそうです」

 シャルフェンが『科学技術の進歩』を好意的に評価するのは珍しい。だが『はるか昔』であれば、青い薔薇が作られたのは、まだ彼の懐古主義に含まれる時代だろうか。

 主人の言葉を耳にして、ヴァルターは、そんなことを考えてしまう。

「あの薔薇の名前は、マリーアントワネット。ちょうど、あなたが着ている服も青色ですね。あの薔薇から取って、マリーとお呼びしても構わないでしょうか?」

 こうして、名前もわからぬ女性は、シャルフェンによって『マリー』という新しい名前を与えられたのだった。


――――――――――――


 マリーが来たことで、シャルフェンの生活には大きな変化が生まれた。

 本を読んだり音楽を聴いたりして緩やかな時間を過ごすのは同じだが、それを彼一人ではなく、彼女と二人で行うようになったのだ。


 例えば、読書。

 好みが一致したらしく、

「面白かったですわ、この本。主人公の心の動きに、なんというか、奥行きが感じられて……」

「ほう! 使用人たちに読ませても、地味とか退屈とかいった態度を示すばかりでしたが、あなたはその良さがわかる人なのですね! では、今度はこちらを……」

 マリーはシャルフェンの部屋に入り浸って、彼から勧められた本を楽しむ。その間、もちろんシャルフェンも別の本を読む。

 もともとシャルフェンは、ロッキングチェアに座って読書する習慣だったが、そのロッキングチェアが二つに増えた。仲良く向かい合わせて、二人それぞれ本を読んで過ごすようになったのだ。

 そうした光景を目にする度に、ヴァルターは思ってしまう。若い男女が向かい合って座るならば、愛の一つでも囁くのが普通なのではないか、と。


 例えば、音楽。

「素敵ですね、この曲。聴いているだけで、こう、胸が締め付けられるような……」

「ほう、わかりますか! いわゆるクラシックというやつでしてね。昔々の、ドイツという国の音楽です。中でも、私の一番好きな作曲家のものですよ。今聴いたのは第一交響曲と呼ばれるものでしたが、第三交響曲もお勧めでして……」

 音楽は読書とは異なり、一緒に別々の曲を聴くわけにはいかないから、二人で同じ曲にひたる。椅子も向かい合わせではなく、スピーカーに正対する形で、二つ並べていた。

 ロマンチックな音楽が流れる中、手を伸ばせば届く距離だが、手を握る程度のスキンシップもなかった。大の大人が何をやっているのだ、とヴァルターは思ってしまう。


 長い時間、二人で一つ部屋にこもっているくせに、いったい何なのだ。

 ヴァルターは少しもどかしくなるが、それは彼が男だからであり、女の使用人たちには違う見え方になるらしい。

「旦那様はお変わりになられた」

「マリー様を『奥様』とお呼びする日も近いのではないかしら」

 二人がお互いを見る目は、明らかに想い人へ向ける視線だ。いったん気持ちを確認し合えば、あとは堰を切ったように、一気に関係は進展するはず。

 彼女たちは、そう噂していた。

「関係……? それって……」

「やだなあ、ヴァルターさん。男と女の『関係』といえば、あれしかないじゃないですか」

 恥ずかしいこと言わせないでくださいね、という顔で、召使いたちはクスクス笑うのだった。


 つい聞き返してしまったが、ヴァルターだって頭ではわかっていた。シャルフェンとマリーが、文字通り結ばれるという意味だ。

 だが、ヴァルターの主人シャルフェンは、今まで一切女性と付き合おうとしなかった男。そんなシャルフェンが誰かと枕を共にするなんて、いくら相手がマリーのような女性――趣味嗜好の合う美人――だとしても、ヴァルターにはイメージしにくかった。

 しかも、今まで「もどかしい」と思っていたくせに、いざ二人が結ばれる可能性を考えると、素直に祝福できない気持ちが生まれてくる。

「記憶喪失で転がり込んできた謎の美女……。どこの馬の骨ともわからぬ、怪しいやからではないか。そのような者を、アンツェル家の奥様としてお迎えできるのか……?」

 疑念を持ち始めたヴァルターは、シャルフェンとマリーの仲睦まじい姿を見れば見るほど不安になった。

 だから、こっそり色々と調査を始めて……。

 その結果の一つが、今晩ついに判明したのだった。


――――――――――――

――――――――――――


「旦那様、早まってはなりませぬ!」

 バンと大きな音を立てて扉を開き、ヴァルターはシャルフェンの部屋に飛び込んだ。

 執事である彼が、主人であるシャルフェンの部屋へ、ノックもせずに立ち入ったのだ。前代未聞の出来事であり、驚いたシャルフェンは声も出せず、ただ目を丸くするばかりだった。

 しかもシャルフェンにとっては、ちょうど、ばつの悪い場面だった。

 シャルフェンは大きなベッドの上に正座しており、彼と向かい合うようにして、マリーが同じく正座している。二人とも寝巻き姿だが、シャルフェンの右手はマリーの胸元まで伸びており、「今からボタンを外して脱がします」と言わんばかりの手つきだった。


 状況を一目で見て取ったヴァルターは、厳しい顔をしながらも、ホッと胸を撫で下ろす。

「事に及ぶ前のようですな。不幸中の幸いです、旦那様」

「ヴァルター、いきなり、どうして……」

 シャルフェンが口を開くが、言葉がまとまらない。そんな主人の発言を遮るようにして、ヴァルターが続けた。

「旦那様とマリー様は、結ばれてはならぬお二人なのです」

 ヴァルターの瞳に、悲しみの色が浮かぶ。

「マリー様の正体が判明いたしました。マリー様は、シャルフェン様だったのです」

 これでは二人とも、ますます混乱するだろう。そう思いながらも、ヴァルターは、まず先に結論を口にするのだった。


「マリーが私……? どういう意味だ……?」

「わけがわかりませんわ」

 案の定、二人には通じなかった。

 ヴァルターは、少し噛み砕いて説明し直す。

「勝手ながら、調べさせていただきました。マリー様が口をつけたティーカップやスプーンなどから、遺伝子を採取させていただいたのです」

 話しながら、ヴァルターは思う。彼女が現れた日に遺伝子検査も行うべきだったのだ、と。真っ先に遺伝子を調べておけば、あの場で真相がわかったに違いない、と。

「そうして調べた結果、マリー様の遺伝子は、ほとんど旦那様と同一でした。『ほとんど』というのは性別が異なるからであり、それ以外の部分は完璧に一致しておりました。つまりマリー様は、いわば女性版シャルフェン様なのです」

「……!」

 シャルフェンとマリーは、全く同じ驚愕の表情を浮かべて、顔を見合わせる。本当にそっくりだ、と思いながら、ヴァルターは話を続けた。

「まるでクローンですな。でも人間のクローン製造は禁忌ですし、そもそも性別が異なる時点で、クローンではありません。ならば何かと考えると……」

 ここでヴァルターは、歴史の教科書を思い浮かべる。

「旦那様は、最近の科学技術はお嫌いのようですが、それでも、百年ほど前から格安で月旅行できることくらい、ご存知ですよね? さらに人類は行動範囲を広げて、今世紀になると、並行世界パラレルワールドへの移動も可能になりました」

 とはいえ、並行世界パラレルワールドへの旅行は、まだ一般的ではなかった。

 宇宙旅行に飽きた一部の大富豪たちは、既に並行世界パラレルワールドを訪れているそうだが、現時点では安全面に問題があるらしい。世界間を移動する際、頭痛や吐き気に襲われるケースが多く、中には意識を失うほどのショックを受ける者もいるという。

「マリー様は、並行世界パラレルワールドのシャルフェン様なのです。今にして思えば、記憶喪失も、世界間移動に伴うショックが原因だったのでしょうな」


「マリーが別の世界の私……」

「私が別の世界のあなた……」

 互いの顔を見つめる二人は、本当によく似ていた。

 人付き合いが苦手なシャルフェンでも気に入るほど、マリーの趣味嗜好が重なっていたのは、そもそもマリーがシャルフェンだったからなのだ。並行世界パラレルワールドである以上、全く同じではなく少しは違う点もあるはずだが、この二人の場合、その違いが性別だったのだ。

 そんな二人が出会ってしまえば、同族嫌悪に陥るか、あるいは逆に理想の相手と思うか、両極端に違いない。シャルフェンとマリーの場合、後者だったわけだが……。

 それ以上は考えるのをやめて、ヴァルターは悲しげに首を振る。

 そして二人に言い聞かせるような調子で、改めて口を開くのだった。

「古来より、人間社会では近親相姦が禁じられています。遺伝子の多様性が失われるからです。技術的には可能なのに、人間のクローンが禁忌とされているのも、同様の理由でしょう。ならば、並行世界パラレルワールドの自分と契るのも、いわば究極の近親相姦のようなものであり……」




(「彼と彼女の許されざる恋」完)

   

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