月は欠けてもまた満ちる
吐く息は、雑踏の中で白くたゆたった。今日は人通りが多い。歩く人々の顔の高さで、白い息が浮かんでは消える。
もうすっかり冬だ。
路地に入ったら、自分の吐く息だけが視界を染めた。
手に下げた大きな紙袋をちらりと見て、また視線を上げる。
綺麗に飾り付けたお庭と、玄関にリースを下げたおうち。
「はー、クソさっむ」
玄関先に、大きな荷物を抱えた香坂くんがいた。目が合ったので、軽く手を振る。
「は、中野?」
「こんにちは。すごいね、また家の外で会っちゃったね」
「なに、なんなのこの遭遇率」
確かに。家の前を何度も通ってたって、狙いすまさなきゃ住人とそう顔を合わせることもないだろう。いや、やっぱり私がそれだけ、お店に通っているという証明なのかもしれない。
「今日、土曜だぞ。お前、学校が休みの日まで眼鏡屋に押しかけてんのかよ」
「だって、クリスマスだもん」
十二月二十五日、クリスマス。
今年は学校がお休みの土曜日と被ったから、いつもよりも少し早いお昼の時間から眼鏡屋さんに向かっている。
「それはそれは、お幸せなことで」
冷やかしなのか、呆れてるのかわからない口調で香坂くんは言う。腹は立たないから別にいいけれど。香坂くんには、色々とお世話になったし。
「香坂くんは、どこか行くの」
「母親に付き合って買い物。専門店で、おもちのクリスマスケーキを買ってやりたいんだと」
香坂くんが抱えていた大きなバックの中には、おもちちゃんがいた。メッシュ窓越しに、にこにこの笑顔が見える。
「あらら、おもちちゃん! お出かけだねえ嬉しいねえ」
「別におもちが、自分でケーキを選べるわけでもないっていうのにな。まあついでにトリミング頼むから、良いけど」
「犬用ケーキって、あるんだよね。見たことないけど楽しそう」
今日は私もケーキを持ってきている。
色々と考えた末に決めて、手作りしたクリスマスケーキ。
「今夜はご馳走だね。愛されてますねえ、おもちちゃん」
「任せろ」
躊躇いなく言い切った香坂くんの背後で、ドアが開く。
「はいはいおまたせー」
部屋着じゃなくて、綺麗な仕立てのコートを着て。香坂くんのお母さんが、家から出てくる。
「あ、こんにちは」
「あら、中野さん。こんにちはー。え、やだ。もしかして東希と約束でもしてたの」
「いいえ、通りかかっただけです」
「そうなの? お休みの日に、こんな場所を?」
「いいから、探んな」
香坂くんがお母さんを促すように歩き出す。
「おめかししちゃって、デートかな」
めかしこんだかと問われれば、まったくもってその通りだ。
クリスマスプレゼントにと、お母さんが買ってくれた新しいコートと。
中に着ている真っ白いニットワンピースもおろしたて。
そりゃあだって、クリスマスだもの。
「いいから行くぞ、ほら」
「東希、あんたはクリスマスだってのに何の予定もないわけ? つっまんないわねえ」
「買い物付き合ってやるんだから、文句言うな。クリスマスだからって、何かしなきゃいけない決まりはないぞ!」
香坂くんはお母さんのコートを引っ張った。駅にか、駐車場にか向かおうとする。
「中野もさっさと、眼鏡屋に行ってこい!」
「めがねや? うちの近所にそんなもんあったっけ」
首をひねる香坂くんのお母さん。
あるんですよ。とても不思議な、眼鏡屋さんが。
「行ってきまーす」
お店に向かって、住宅街を行く。
ブーツを履いた足は、どこまでも軽かった。
「こんにちはー」
木でできた、ぬくもりのある扉。臙脂色の庇に、冬の日差しが降り注いでいた。
「いらっしゃい」
あたたかな声が、私を出迎える。
お店に並ぶたくさんの眼鏡とレンズが、窓からの光と室内の照明を受けてきらきら輝いていた。クリスマスのイルミネーションよりも、ずっと綺麗だ。
「あ、新しいコートかな。学校には着てこなかっただけ?」
「それもありますけど。でも、新しいのは確かです」
「うん、可愛い可愛い」
その言葉に満たされていくのを感じながら、私は胸元を掴む。
手袋と分厚いコート生地に遮られて、感触は全く分からなかったけれど。
そこにはいつだって魔法のレンズがあって。
私の胸に、ささやかな光を灯している。
「おー、澄花ちゃん」
「あっ、南波さん。こんにちは」
お店には先客がいた。南波さんは立ち上がって、こちらに手を振った。
「元気そうだね。よかったよかった」
「おかげさまで。南波さんにも、色々心配かけちゃって」
「いいのよ。あの馬鹿が悪いんだから」
からりと南波さんは笑う。新淵さんは不服そうに言い返した。
「馬鹿でごめんなさいね。その通りだけど」
「そんなこと、ないです」
「いいよ、身に染みてる」
新淵さんが小さく息をついた。
後悔も反省も、あるのだろう。一つ一つと向き合っていくのは、本当に大変なことだと思う。
私にできることは、少なくても。
「私、ケーキを作ってきたんですよ。みんなで食べましょう」
せめて楽しく、一緒にお茶でもして。
かぶさった四角い箱の蓋を持ち上げる。のぞき込んだ南波さんが、声を上げた。
「わ、チーズケーキ!」
「あんまりクリスマスっぽくないかなあって、思ったんですけど。難しくないからって、友達に教えてもらって」
シンプルな、焼いたタイプのチーズケーキ。ふんわりと、甘い香りが漂った。せめてもクリスマスらしくと、赤い実のついた小さな柊木の飾りを添えてある。
「あと、お月様みたいかなって」
まあるくて、温かい黄色のケーキ。
ケーキまで月に見立てるなんて、我ながら重症だなと思うけど。
「ああ、うん。すごくおいしそう」
そう新淵さんが言ってくれたから。それでもう、満足なのだった。
「ああでも、私この後、ネイル予約してるから。もう行かなきゃ」
「そうなんですか? ワンホールだから、たくさんあるんですよ。食べられませんか」
「んー、すっごく食べたいけど。でも、邪魔しちゃ悪いしね!」
そう言って南波さんは、鞄を抱えて入口へと向かった。
「すごくおいしそうだけど、良いの?」
わざわざそのあとをついて行って、新淵さんは言った。南波さんは名残惜しそうにこちらへ視線をよこす。
「……とっておいて。終わったら寄るから!」
「わかりましたー」
「そうそう。せっかくなんだから、ご馳走になろうよ」
言いながら、新淵さんは入り口のポールハンガーにかけてあったダウンコートを、南波さんに手渡す。
その顔を、南波さんはじっと見つめた。
「……眼鏡屋。あんたさ、ちょっと老けた?」
首を傾ける南波さんに、新淵さんは瞬きを繰り返す。
「そう見えたのよ。ちょっとだけどね」
それだけ言って、南波さんはコートを勢いよく羽織ってお店を後にした。
「老けた」
はっきりと繰り返して、新淵さんが私の方へと歩み寄ってくる。
「と、思う?」
「え、どうですかね。あんまり、わかりませんけど」
三百年を生きてなお、若い姿の魔法使い。
緩やかに老いるとは言うけれど。その変化を新淵さんが感じたのは、老眼くらいのようだ。
皺だとか肌だとか姿勢だとか、外見上は若いお兄さんそのもので。
老眼鏡越しに瞬く、そこだけ極端に老いてしまったという瞳は、合わせるたびにどきどきして。
「老けたとしても、私は新淵さんが好きですよ!」
勢いのまま、言ってしまった。
口にした瞬間に我に返った。
だけど誤魔化したり、否定したりなんてしない。だって本当に、そう思うんだから。
新淵さんが、あっけにとられた顔をする。呆れたのか、なんとも言えない表情をして。
「それは、どうも!」
新淵さんが笑った。声を上げて、堪え切れないというように体を曲げて。
「え、なんで笑うんですか!」
「ごめんごめん、馬鹿にしたわけじゃないんだよ。いやなんて言うか、嬉しくて」
新淵さんは涙目で言う。
悲しみじゃなくて、笑ったせいで滲んだ涙。
「そうか、老けたかな。いいよ、上等だ。だって僕、ずっと年、取りたかったし。それでもまだどうせ、人生は永いんだろう?」
誰に問いかけるでもなく言って、新淵さんはひとしきり笑った。
銀の眼鏡が光って、なんだか不敵に見えた。
「好きだって、言ってくれる人がいるしね」
確かめるような言葉に、心臓が飛び跳ねる。
「……言いますよ、いつまでだって」
私も年はとっていく。きっと新淵さんよりも、ずっと早く。
老いたその時は、私だって不敵に笑っていたい。
できれば、新淵さんのそばで。
そのようなことを伝えたら、新淵さんは
「スウちゃんはきっと、お婆さんになっても可愛いよ」
なんて、言うから。
「なんでそう、私が喜ぶようなことばっかり言うんですか新淵さんは!」
「え、そうかな」
「新淵さん、そういうところですよ!」
本当に、私ばかりが浮かれてるんじゃないだろうか。
「私だって、新淵さんを喜ばせたいんですからね。私、新淵さんにクリスマスプレゼントがあるんです」
「ええ? そんな、気を使ってもらっちゃ悪いよ。駄目だって」
ハンドメイドの雑貨屋さんで売り切れてしまったループタイは、お店の人に聞いてみたら、作家さんがネット販売をしていた。
根気よくネットの販売状況を確認して、作家さんにも連絡を取って。
そしてクリスマスまでに、同じものを手に入れることができた。
頑張ったら、失くしたと思ったものでも、もう一度手にすることができた。
「ガラスの飾りがついた、ループタイです。ガラスって、何百年も昔のものが現存するじゃないですか。だから長い間身に着けても、きっと残ります」
宝石にはかなわないし、安価なアクセサリーガラスがそんなに長く残るのかは本当のところわからない。
私は新淵さんの手のひらに、そっとループタイを載せる。
願いながら、贈った。
少しでも、私の選んだものが新淵さんに寄り添ってくれますように。
「魔法のレンズの、お礼です」
私だって新淵さんからもらった多くのものに、ずっと支えられてきたのだから。
「……ありがとう、本当に」
新淵さんの指先が、ガラスの丸い表面をそっと撫でる。
きっと喜んでもらえただろう。
ガラスの飾りが窓から降り注ぐ光に照らされて、きらきらしていた。
光の差し込む窓の向こうには、一羽のカラスの姿。
あの子にも、たくさんお礼を言わなくちゃと思う。
窓に浮かぶのは、光の文字。
銀の月眼鏡店。
お店にはお月様みたいな丸い銀の眼鏡をかけた、店主さんがいる。
優しくて、ひとりきりで永い生を乗り越えようとした魔法使い。
光の道が開かれている限り、私はこのお店に足を運ぶ。
その人に、会うために。
END
月とレンズ いいの すけこ @sukeko
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