あふれだす心 -Ⅲ
「思い出したよ。僕たち、ちょっと昔に出逢ってたんだね」
臙脂色の庇。銀色で店名が書かれた、大きなガラス窓。
銀の月眼鏡店は、そこに現れた。
ゆっくりと扉を開ければ、丸い銀縁眼鏡をかけた主がいる。
「新淵さん」
呼びかける。
会えなくなってから幾度となく口にした。今は本人に声が届く。
「新淵さんも、思い出したんですか」
「スウちゃんが思い出したからね。僕も同時に、あの時かけた魔法が解けちゃったらしい」
新淵さんが、私を呼ぶ。他の誰も呼ばない愛称で。
「白ちゃんの記憶を、覗いたら。あの事故の時に、私たちが出逢っていた記憶が残っていたみたいなんです。多分、それで」
「白夜の記憶は、盲点だったな。あの子の記憶はいじったことないもの。でも実際に魔法を解いたのは、スウちゃん自身の力だよ。ここにたどり着いたのだって、スウちゃんが自分でやったんだ」
そんなに魔力は強くないはずだけどな、と新淵さんはぽつりと口にした。
「あの、ありがとうございました」
「うん?」
「小さい頃、事故現場の記憶を私から消してくれて」
それが正しいことなのかはわからない。言いたいことだって、たくさんある。
だけど新淵さんが小さな女の子に、優しい眼差しを向けてくれたことが。
私にはとても嬉しかった。
「ううん。勝手にやったことだし。ただ本当に、あの光景は小さな子には酷だと思ったんだよね」
覗き見た白ちゃんの記憶にあった、恐ろしい光景。覚えていたら、私の幼い心に確実に影を落としていたことだろう。
「新淵さんも、その時の記憶を自分で消したんですね。その、そんなに不都合なことが、ありましたか」
関係が深まるほどに、距離をとろうとする。だから新淵さんは記憶を消してしまうのだと。
だけどあの一時的な出会いで、なぜ新淵さんまで記憶を消す必要があったのだろう。
「それはだって、僕だって人が亡くなるような事故の現場なんて見たら、ショックだもの」
「あ……」
――長く生きようが人生経験積もうが、変化を受け止めるのは大変だし。
新淵さんは以前、そんなことを口にしていた。
永く生きても、悲しいことは悲しいだろうし。
永く生きるからこそ、つらいことがこの人にはたくさんある。
「新淵さんは、やっぱり私の記憶も自分の記憶も、また消すつもりなんですか」
私が知らないうちに失っていた、幼い頃の記憶は戻った。
それはつまり新淵さんにかけられていた、記憶を消す魔法が解けたということだ。
同じ人の記憶を二回、消去することはできないということだったけど。一回目が無効になったら、また魔法をかけることができるんじゃないだろうか。
「……そうだね」
「どうして、ですか」
「永い時間を生きるってね、とても疲れるんだ。いつも親しくなった人を、見送る立場になるし。僕を置いて老いていく人と、かみ合わなくなっていくし。誰かと繋がりを持つことに、とても臆病になる」
新淵さんは静かに目を伏せた。
「僕が記憶を消す魔法を手に入れたのは、生きて百年を過ぎてからなんだ。自分が多くの人間とは違った生き方をするのだろうと悟った頃に、人と関わることが苦しくなって。その時に生まれた力だ」
だから人と深く関わった時に、その魔法を使うのだと新淵さんは言う。
「人生を送る速度が違い過ぎて、誰かと一緒に歩いていくことができない」
「私、は」
何かを言いたかった。励ましか、慰めか。だけど言葉は、一言も出て来ない。
「スウちゃんには、わからないよ」
笑顔で叩きつけられた拒絶。
そうやって優しく、私を遠ざけようとする。
「わかりたいです」
だから拒まないでと、祈るように、願うように。
新淵さんの瞳を真っすぐ見つめた。
瞬間。
それは洪水だった。
見る、なんて生易しいものじゃない。頭の中に、あらゆる光景が流れ込んでくる。
知らない景色、古い町並み。
遠い、いつかの時代の、もう失われたどこか。
歴史ドラマや教科書みたいなんて、思わなかった。
知らないはずなのに、どこか懐かしいような風景だったから。
人がいる。
慈しむような眼差しは、家族のものだろうか。
親し気に笑う人。どこか心の和む笑顔を浮かべる人。
一目見て、愛しいなと感じてしまう人だっていた。
確認するまでもない。私が今、何を見ているかなんて。
これは、新淵さんの記憶。
現れては消える、誰かの面影。
聞くまでもない、新淵さんにとってどんな人たちだったかなんて。
もう永遠に失われてしまった人たち。
静かに死の床についた人がいて。
中には、不慮の事態で世を去る人もいた。
憎しみと怨嗟が渦巻く動乱の時代では、多くの命が無残に散っていった。
凄惨な時代も光景も、新淵さんの記憶の中には嫌というほど埋もれていた。
ずっとそばにいた人が。一緒に歩んできた人が。
新淵さんを置いて行ってしまう。
人も、時代も、風景も。誰も新淵さんと歩調を合わせてはくれなかった。
「ああ……」
ようやく吐いた息は、ただ意味のない音になった。叫びにこそならなかったけれど、喉を震わせた。
頬を熱いものが伝って、自分が泣いていることを自覚する。
だけど自分の涙なんて、どうだってよかった。
「記憶を消したんじゃなくて、蓋をしてただけだったんだなあ……」
気づかなかったな。
そう声を震わせた新淵さんが、泣いていたから。
「参ったな。もしかしてスウちゃん、すごい力を持ってるんじゃないかなあ。消したと思ってた記憶、どんどん引きずり出されちゃった」
銀色の丸眼鏡が、部屋の照明に輝いている。
ああ、お月様が泣いているみたいだ。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの。スウちゃんが謝ることじゃないでしょうに」
こんなにもたくさんのものを、たった独りで抱えて。
逃げないで、向き合ってなんて言えるだろうか。
「こんなの、全部抱えていくのなんて無理です。新淵さんは生きていくために、思い出したら悲しいこととかつらくなることを、少しでも軽くしようとしていたんですね」
誰だって、つらいことはある。忘れたくなるような思い出だってあるだろう。
だけど新淵さんはその量が、人よりも圧倒的に多い。
その重さを誰かと分かち合おうにも、誰かとともに生きていくことがあまりにも難しかった。
「私、わたし。新淵さんがせっかく軽くしたものを。たくさん、引きずり出してしまった」
私が新淵さんのことを『わかりたい』と思ったことで、きっと魔眼が発動して。新淵さんが封をしていたはずの記憶を、たくさん呼び起こしてしまった。魔法のことは何一つわからないけれど、感覚としてそれがわかった。
「ひどいことしちゃった、私。こんなことしたかったわけじゃ、ないのに」
人の記憶を勝手に消すのは酷いことだけど。
人の記憶を無理やりに暴き出すのだって、心を踏みにじる行為だ。
「新淵さんのこと、忘れたくなかった。新淵さんに、私のことを忘れてほしくなかった。それだけだったのに」
涙がこぼれて、とまらない。
「
新淵さんがつぶやくように口にした言葉を、私は繰り返した。
「ばち?」
「僕は散々、人の記憶を勝手に消してきたから。人の記憶はその人のもので、勝手にいじっちゃいけないって、言われたもんね。……ううん、自分の記憶だって、たくさん消してきた」
「あんなにいっぱい、覚えていられないです」
「人間、忘れたいことを、無理に覚えておく必要はないんだと思う。でもだからって、記憶なんて普通、自分のものでも思い通りにはならないでしょう」
長くて綺麗な、魔法をかける指先で自分の涙を拭って。
新淵さんの頬はすっかり乾いている。涙の跡も見えなくて、それでも伏した瞼が、寂しかった。
「みんな思い通りにならないものと戦ってる。それを魔法の力であっさり忘れて、はなから戦うことをしないで」
新淵さんは力なく笑った。
「いい加減にしろ、この根性なしって。怒られたのかもしれないな」
本当に怒った人がいるのなら、今まで新淵さんに記憶を消された人たちかもしれないし。記憶から消された人たちかもしれない。
そんなことを考えたけれど、怒りとかバチとか、背負わなくちゃいけないんだろうか。
この、独りぼっちでとり残された人が。
「思い出してしまった、たくさんの記憶。もう一度、忘れられるんですか」
もしもそれが、できるなら。
その時は今度こそ、私のことも忘れてしまうんだろう。私からも、新淵さんの記憶を消してしまうつもりだろうか。
私の記憶は私のものだ。それだけは守り通したとしても、新淵さんが私との繋がりを絶つというのなら。
覚えておくことと、忘れること。私は一体どっちなら、悲しくないというんだろう。
「三百年分の記憶をもう一度消すのは、ずいぶんと骨が折れるだろうなあ」
どこか気の抜けた声で、新淵さんが言った。
「……ごめんなさい。私が、無理やり」
「スウちゃんのせいじゃないよ。自分のしたことが、全部跳ね返ってきただけ」
肩を落として、淡々と言う。諦めているような口ぶりと姿には、三百年分の疲労が滲むようだ。
「消すにしても、覚えておくにしても。一つ一つの記憶と向き合って、もう一度、過去と対面することになるんだろうな」
その時々で記憶を消していくのなら、過去をため込むことはなかったのだろう。けれど蘇った記憶は今や、いくつもいくつも新淵さんの頭と心を埋めているに違いない。
「全部まとめて消えてなくなれ、と一言唱えるか指を振るだけで終わるのなら、楽だったのに。どうもそういうお手軽なことは、できないらしい。時間がかかりそうだ」
いったいどれくらいの時を、新淵さんは費やすことになるのか。私のせいではないと新淵さんは言うけれど、それでも罪悪感が胸を締め付ける。
「だからスウちゃん。まだしばらく、僕に付き合ってくれないかな」
新淵さんは丸い銀縁眼鏡の奥で目を細めた。
「ひとりで乗り越えるのは、しんどいから。誰かが一緒にいてくれるといい」
私の目元には、また涙がせり上がってくる。
だってそんな、むしろ私が救われるようなことを、言われては。
「私で、良いんですか」
「腹をくくらせたのは、スウちゃんだよ」
責めてるわけじゃないけどとつけ加えて、それからわずかに、新淵さんは視線をそらした。
「まあ、スウちゃんのことを雛鳥扱いしたりして、僕は大概ひどい人間なんだけど……」
「雛鳥?」
「正直に言うとね。僕はいっとき、孤独を埋めてくれる存在が欲しかっただけで。スウちゃんが雛鳥とか、犬とか猫とか、そういう癒される存在であってくれればいいなって、そういうことを考える人間なの。今だって、そういう風に思ってるかもしれない」
あけすけに言われて、ショックを受けなかったわけではない。
だけどそれは、私だって。
「私だって、新淵さんと一緒にいたいだけです」
自分が報われたいと思うのが恋で、相手のために何かをしてあげたいと思うのが愛だと、何かで知った。多分少女漫画か、ドラマか。
恋すら知らなかった私が新淵さんのために、何かをしてあげられると思うなんて、そんなの思い上がりもいいところだ。
「私はなんにも、できないけど」
涙を拭う。
泣き虫は変えられないかもしれないけれど。だけどもう、すがったりなんてしない。
「今は、一緒にいられるならそれでいいです」
年月が経てば、どうなるかはわからない。私はいつかやっぱり、新淵さんにとって過去の人間になってしまうのかもしれない。だけど私は、今を生きていくことしかできないから。
今は隣で、同じ速度で歩いていきたい。
「……うん。僕もそれが、良いな」
新淵さんは大きく、長い、ため息を吐いた。
ずっとずっと、永い間、身の内に溜め込んでいたものを吐き出すように。
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