あふれだす心 -Ⅱ
銀色のリボンをいっぱい飾ったクリスマスリースは、雪をかぶったように白く輝いていた。
香坂くんのおうちの玄関に下がるリースを眺めながら、あの日、春にはどんな飾りが扉を彩っていたんだろうと考える。
揺れる視界でとらえたのは、ぼんやりとしたオレンジ色だった。何かの花が咲いている、そんなことを考えて痛みをやり過ごそうとした時。
――眼鏡が合ってないね。
声がした。
私を導く、月の光、みたいな人との出逢い。
だけど今、夜道を照らす銀の光は、私に降り注がない。
この一週間お店にたどり着けなくて、ひたすらにこの辺を歩き回っていた時、この前見つけたハンドメイド雑貨店の前を再び通った。
窓からのぞき込んだら、窓際の展示台に飾ってあったガラスのループタイが無くなっていた。お店に入って確認したら、売れてしまったのだと言う。
どうせもう、プレゼントできるかもわからないのだし。
だけどなんだか、私はこのまま本当に、欲しかったものや大切なものを失っていってしまうのだろうかと考えて、悲しくなってしまった。
思い出したら目頭が熱くなってきて、私は慌てて目元を抑える。
眼鏡を外して、もう一度かけなおして。
瞬いてピントを合わせ直した、その視界に。
「……白ちゃん?」
道の真ん中に、一匹のカラスが降り立っていた。両足に銀の環を嵌めた、新淵さんの使い魔。
普通の獣とは違う、思慮深そうな真っ黒な瞳がこちらを見ていた。
「白ちゃん」
お店のある空間に縛りがあっても、白ちゃんは自由なんだろうか。どうしてわざわざ、私の前に現れたのだろう。ただの、偶然なのか。それとも。
近づいて、しゃがみこむ。主と同じく長寿であるらしいカラスは、目をそらすことはなかった。
「あなたは新淵さんのそばで、何を見てきたの?」
視界がぐるりと、一回転したような気持ち悪さがあった。周囲の音が遠くなる。
ああこれは、魔眼が発動する前兆のような。
だけどこんな眩暈を起こすみたいな、吐き気を伴うような感覚は初めてだ。胸を圧迫するような苦しさがあって、思わず胸のレンズを掴む。
ぼやけていた視界が、だんだんと鮮明になっていく。
小さな女の子がいた。薄い本を抱えながら、建物の壁にもたれかかっていた。
女の子はふと、目線を上げる。
建物を囲む植え込みに植えられた木の上に、一匹のカラスが留まっていた。カラスを見つけて、女の子はにこりと笑った。笑顔に応えるように、カラスが少女の足元に降り立つ。
『カラスさん、パン屋さん知ってる?』
女の子はカラスに話しかけた。
――おかしい。今まで魔眼で見える映像には、音声がついていたことがないのに。
『カラスがパン屋さんやってる絵本、読んだの。カラスさん、知らない?』
カラスは首を傾ける。
『美味しそうなパン、たくさん出てくるよ』
カラスが出てくる絵本。パン屋さんで。
その絵本は知っている気がする。とても有名な作品だ。
小さい頃、私もお気に入りだった。
――痛い。
頭痛がする。拍動に合わせて、痛みがずきずきと頭に響いた。
『今日も本を借りたの。前にも借りた本、大好き』
女の子がもたれた建物の壁。タイル張りの外壁。
図書館がある、市役所の壁と同じだった。
『これはね、くまちゃんがクッキーを作るお話だよ』
これは私だ。
幼い頃の、私の姿。
図書館に頻繁に通っていた、小さなころ。
私はよくこうやって、市役所の入り口でお母さんが迎えに来るのを待っていた。私が図書館で本を探したり読んだりしている間に、お母さんは駅の方まで買い物に行ったり、用事を済ませたりしていた。
この時も時間を見計らって、市役所の入り口で迎えを待っていたのだ。
頭痛が増していく。まるで何かの警告のように。
記憶には、蓋がされているから。思い出すことはないと。
『これお母さんに見せてね、おうちでクッキーを……』
最後まで言い切る前に、大きな音があたりに響いた。
何かと何かが激しくぶつかるような音。音の方を向いたら、車に人が跳ね飛ばされるのが見えた。車は一人二人と歩行者をなぎ倒して、歩道に突っ込んでいった。
この場所、この年頃。これは香坂くんが巻きこまれたという事故なんじゃないだろうか。同じ歳くらいの、小さな男の子が血を流して倒れている。
声は出なかった。
衝撃に声を失って、ただ視線だけが、凄惨な現場に縫い留められていた。
記憶の中の幼い私と、今の私が一体になったような気分だ。
小さな私と、私は、声を失ったのも、視線が凍り付いたのも一緒だった。
――気分が悪い。
飛び散るガラスに歪んだ車、破壊の跡。力なく倒れた人、流れる血。
こんな現場を見てしまって、幼い私はどれだけ傷つくだろうか。
目の前の光景は、当時のままの時間が流れているのか。長い間その光景を、茫然と眺めていた。
『大丈夫?』
聴力を失ったのかと思った耳に、声が響いた。
この上なく温かい、聞き間違えようのない、声。
幼い私はゆっくりと、声がした方を向く。
まあるい眼鏡。
お父さんとも先生とも、知っている大人とは違う感じがする男の人。
『怖いものを見ちゃったね』
知らない人と、むやみに話してはいけないと言われていた。
だけど私がその人の声に耳を傾けたのは、きっと優しい声をしていたから。
本当に、そう思う。
記憶の外側から聞いている私が、優しさにもう泣きそうなくらいだったから。
『どこに連れて行くつもりかと思ったら。まあ、良いだろう』
その人はちらりと上を見上げた。カラスが一羽、飛んでいる。
『君に話しかけてもらったのが、ずいぶんと楽しかったらしい。いつもは僕と二人きりなものだから』
大きな手で、ぽんと軽く頭を叩いて。
『今からここで起きた事故のことを、忘れるようにするからね。怖いことは全部忘れる、魔法をかけてあげる』
そうして屈みこんで、その人は小さな私と目線を合わせた。
「私。昔、新淵さんに出逢っていたんだ」
遠い過去。忘れていた記憶。
取り戻した。
新淵さんにかけられた魔眼の魔力から、今、解き放たれた。
「そっか。私、私……」
それ以上は言葉にならずに。ただ涙になって流れた。
他人の記憶を、同意を得ずに、消してしまうなんて勝手だと思う。
だけどそれでも、あの時のことは。
凄惨な光景が、幼い心に爪跡を残さないようにと。
新淵さんにできる最大限のやり方で、私を救おうとしてくれた。
優しく、してくれたんだ。
涙を拭って、痛む頭をもう一度、持ち上げる。
前を向いたら、道の上に銀色の光が続いていた。しるべのように点々と、それは私と新淵さんとを繋ぐ光だった。
いつもの路地を走る。幾度となく行き来した、見慣れた景色。
お店に通っている間、楽しくて。店に一歩一歩近づくたびにどきどきしたり、時には悩んだり。
拒絶されれば、混乱と失意の中で路地を往復した。どこまでも重たい灰色の、アスファルトを打たれた道。硬くて冷たい感触が、靴底の裏から伝わって、私を体の芯まで冷やすようだった。
胸に触れるレンズもひやりとして、まるで氷のように感じた。
ガラスなんだから、それは当たり前で。
だけど冷静になりたい時は、その冷たさが心を落ち着かせてくれたし。ときめくような、些細な幸せが胸を満たしたときに触れれば、その丸い形はとても暖かかった。
私にとって、特別な宝物のレンズ。
あなたに拒絶されれば、それはただのガラス板になってしまう。
冬の冷たい空気に冷やされて、氷のように身に張り付いた。
走るリズムに合わせて、胸元に下げたレンズが跳ねる。
あなたのところに行きたいと、訴えるように暴れまわった。
飛び込むように曲がった、曲がり角の、先には――。
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