あふれだす心 -Ⅰ

 枕元で、スマホが鳴った。

 自分の部屋でベッドにうつぶせて、なるべく考えるのをやめて。

 眠るつもりはなかったけれど、不安な気持ちをなんとかやり過ごそうとしていた時のことだった。

 突っ伏していた枕から顔を上げて、スマホを掴む。

 画面がむき出しになるのが嫌で選んだ手帳型スマホケースは、使用の度にわざわざ表紙を開かなくてはならなかった。もどかしい思いでそれを開いて、画面を確認する。

 メッセージアプリの通知。相手は香坂くんだった。焦りに突き動かされるまま慌ててスマホを手にしたのに、画面に滑らせようとした指が止まる。

 怖い。

 もしも香坂くんの報せが、悪いものだったら。

 メッセージアプリを起動するわずかの合間でも、不安で胸が潰されそうだった。


『眼鏡屋には入れた。店主さんにも会えた』

 画面に飛び出したその一文に、少しだけ息を吐く。

 けれどそれだけでは、不安は拭い去れない。

『色々と言うことがあるけど、文章で伝えるのは無理。直接話したいけど学校でする?』

 お礼や相槌を返信する間もなく、簡潔に香坂くんは伝えてきた。

 スマホに文章を打ち込むだけで済む、簡単な話ではないという。

 明日学校で、昼休みか放課後に時間を作ってもらって。

 だけどそうすると、私は今日も不安を胸に抱えて、夜を越さなければならない。

『今、電話してもいいけど』

 まるで私の考えを読んだかのように。香坂くんはまたすぐにメッセージをくれた。

『ありがとう、お願いします』

 打ち込んで、時間を確認した。時刻は二十時を回ったところ。

 私は今日、早く帰宅したから、夕飯もお風呂も済ませてしまった。

 だけど香坂くんは、お店に寄って来てくれたのだ。お店と家は近いけれど、まだ食事や入浴や、やらなければならないことが残ってるんじゃないだろうか。

 今すぐじゃなくていいと言おうか。でも時間を置いたら夜遅くなりすぎるし、やっぱり明日でも。だけど、それじゃ。

 悩んでいたら、スマホが鳴った。

 トーク画面から着信画面にぱっと切り替わって、反射的に応答ボタンをタップする。


「はい」

『おー。大丈夫か』

 通話口の向こうから、香坂くんの声。

 香坂くんの問いかけが、通話をしても平気かと尋ねたのか。それとも私の落ち込み具合や気分なんかを聞いたのかは、わからなかったけれど。

「うん」

 わざわざ電話までよこしてくれたのだから。大丈夫、とそう答えた。

『そっか、ならいいけど。あ、南波さんって人と、会ったぞ。中野のこと、心配してたよ。あと店主さんに、めちゃくちゃキレてた』

「南波さんにも、迷惑かけちゃったな」

『またいつでも連絡くれだってさ。ただ、南波さんじゃしばらく冷静になれそうもないって言うから、とりあえず俺が説明を任されたんで』

「うん、ありがとう」

『いやまあ、俺は割と、冷静かもしれんけど。でも俺が説明しただけで、中野が納得できるかというと』

「何か、難しい話なの」

『うーん』

 スピーカーががさがさと音を立てる。香坂くんが、息を吐いたようだった。

『ほんとはさ。店主さんが中野と、ちゃんと話すべきだと思うんだよな。逃げるんじゃなくてさ』

「逃げた、のかな」

 声が震えた。胸が痛い。

「新淵さん、私から逃げたのかな。私なにか、逃げたくなるほどのこと、した?」

『いや……』

 香坂くんが、やんわり否定を口にする。

 私をなだめようとしているのだろうか。けれど香坂くんは、慰めとは違うことを口にした。


『あの人。自分から逃げてる気がする』

「自分から……?」

『あー、いや。これは俺の勝手な感想だし。中野はどう思うか、わかんないな。ああもう、とにかく本人と話をするのが一番だっていうのに』

「だから、会いに行けないんだってば」

 会えるんだったら、私だって会いたい。話がしたい。

 それができなくて、香坂くんや南波さんを頼った。

『うん、だから。とりあえず、今日、店で店主さんとか南波さんと話したことを、とにかく教える』

「うん」

『それでどれだけ中野に伝わるか、わかんないけど』

 そう前置きした香坂くんを、やっぱり結構いい人なんだななんて思う。

 香坂くんと、あと南波さんにも感謝をしながら。

 私は新淵さんの拒絶の理由と、永い生の一部と、そして思いもよらないある可能性について聞いたのだった。


 



「澄花、具合でも悪いの?」

 ぼんやりと朝食のトーストをかじっていたら、お母さんの心配する声がした。

「ここ最近、なんだか元気ないね。なんかあった?」

「ううん、平気」

 否定したところで、お母さんはそうは思わないのだろう。だけどお母さんにも、事情は話せそうにない。

「学校、行きたくない?」

 そんなことを聞かれるのも、ずいぶん久々な気がした。

 高校に入学したての頃。学校へ向かう足と気持ちは日々重かったし。どうしようもなく心と体を悪くすれば保健室に逃げ込むことも、実際に休んだ日だってあった。

 そんな中で、新淵さんと出逢った。

 気持ちのいい春の空の下、泣き出しそうな心を抱えた私を。

 私の世界を、変えてくれた人。

「なんかあったんなら、無理しなくていいんだよ」

 ここまで心配するようなお母さんの声も、いつぶりだろう。

 なんだか随分昔のことのようだったけど、お母さんにものすごく心配を――もちろん今もだろうけれど、今以上に――かけたのは、春先のことだから。

 そう考えると、思ったほど昔の話じゃない。

 せいぜい半年かそこらだ。

 だったら私と新淵さんが出逢ってからのことも、半年くらいの短い間の出来事だ。

 そう考えたら、なんだか余計に悲しくなった。

 今にもこぼれそうな涙を、紅茶と一緒に飲み込む。忙しい朝に飲む手軽なティーバックの紅茶は、あまりにも気安くて。新淵さんが振舞ってくれた紅茶の味には、程遠かった。


 たった半年で、私は新淵さんに忘れ去られようとしている。

 香坂くんの言う話をまとめると、そういうことなんだろう。

 気持ちを立て直せないまま学校に行って、友達にも心配されてしまった。

「ほんとに大丈夫か?」

 香坂くんもわざわざ昼休みを使って、教室に様子を覗きに来てくれたほどだ。

 廊下で話そうと後にしてきた教室では、マユユさんたちがなんだか盛り上がっているような気配を見せていたけれど、そのこともどうでも良かった。

 ただ香坂くんが慰めついでに話してくれる、新淵さんの心のうちのことを。

 南波さんがメッセージに綴ってくれる、新淵さんの生き方のことを。

 考えて、思って、知ろうとした。

 新淵さんは、人と深く関わることを避けている。

 南波さんとか文彦さんとか、自分と同じように長寿の人間ならまだいい。きっと生きる時間に、大きな差がないから。

 だけど私みたいな、百年生きるかも解らないような人間は。

 新淵さんにすれば、永い生の中で一瞬すれ違う程度の者なのだろう。

 道端でたまたま目があったくらいの人と、ずっと一緒に過ごしたいなんて思ってしまったら。あまりにも頼りない繋がりを求めて、彷徨う羽目になってしまう。


(ああでも、私は繋がりを求めてしまったんだ)

 道端で、たまたま助けてくれた新淵さんのことを。

 探して、再び出逢って。

 一瞬の邂逅で終わるはずだったものを、繋ぎ止めてしまった。

 そこからして、そもそもの間違いだったんだろうか。

 新淵さんは『声をかけるべきじゃなかったのかな』と言った。

 あまりにも胸を突く一言だった。出逢いをなかったものにするなんて。そんなこと、思って欲しくなかった。

 だけど新淵さんは、最初から心の片隅でそう思い続けていたのかもしれない。

 もしかしたら、自分のそばにいてくれる誰かと出逢う前からずっと。


「これ以上一緒にいたらつらくなるって思われるほど、親しくなったってことじゃないの?」

 香坂くんが言う。

 新淵さんにとって私が、思い返せばつらいから、忘れてしまった方がましだと考えるほどの人間になった。

「もしそうだったとしても。それで舞い上がれるほど、おめでたくなんかなれないよ」

 たった半年。

 この短い時間では、気持ちを口に出すほどの勇気すら得られなかった。想う人の孤独に寄り添う強さなんてもてなかった。

 相手がどう考えていようとなりふり構わず求めることも、自分の気持ちを押し通すことだって、できない。


「どうしたらいいのか、わかんない」

 きっとこんな風に私が悩んでしまうことも、新淵さんには本意ではないのだろう。

「中野はさ、今、しんどいと思うけど。だったら店主さんのこととか、忘れたほうが楽だと思うか」

 自分を想うことで心を痛めるようなら、記憶を消してしまった方が。

 会わない方が相手のためと、新淵さんはそういう風にも考えている。

「……わかんない」

 新淵さんの、自分勝手な優しさ。

 だけどこうやって痛む心を忘れられれば、それは確かに楽かもしれない。少なくとも新淵さんは、忘れることで楽になろうとする人だ。そのやるせなさを、どう受け止めればいいんだろう。

 こんな風に悩んだって。苦しんだって。記憶をなくせば。

 それですべて終わり。おしまいになる。


「店主さんは、中野の記憶を消そうとして。でも消せなかったって言ってた」

 記憶を消すという、すべてをなかったことにする魔法。

 新淵さんはそれを私に、かけようとしたという。けれど魔法は、失敗に終わったらしい。

「もしかしたら、以前にも中野の記憶を消したことがあるのかもって」

 混乱する説明の中で、ひと際わけが分からなく、心当たりのないことがあった。

「人の記憶を消す魔法ってのは、一人につき一度しか作用しないらしいんだ。だから前にも、中野に記憶を消す魔法をかけたことがあるのかもって」

「私そんなこと、全然覚えてない」

「いや、記憶を消されたっていうなら、覚えてなくて当然じゃない?」

「そうなんだよね……」

 私が銀の月眼鏡店のある周辺に足を向けるようになったのは、高校に入学してからだ。記憶にある限りでの新淵さんとの『初対面』が、大型連休の開けた五月のことだから、入学からひと月程度のこと。

「魔法をかけたであろう本人も覚えてないって言うんじゃあ、手掛かりなんてないな。中野に魔法をかけた後、店主さんは自分の記憶も消したってことになる。何があったっていうんだか」

 ひと月の間に、新淵さんに記憶を消されるような何かが、あったというんだろうか。それとも、この半年の間の出来事?


「このこと聞いて南波さん、店主さんの首絞める勢いだったぞ。襟元掴んでガックガク揺さぶってた」

「ああ……」

 南波さんはメッセージで何度も確認をしてきた。新淵さんに何か、不道徳なことをされそうになったことはないかと。

 またそういう想像を、とは思ったが。まあ確かに、不届き者がそういうことをしでかしたら、記憶を消してしまえば罪の帳消しになると考えるかもしれない。

 新淵さんは絶対に違うと、さすがにそれは信じたいけれど。

「よくわからんことが多いな。どっちにしろ、人の記憶を勝手にいじろうとするなんざ、ろくなもんじゃない」

 香坂くんらしい頑なさを滲ませて、彼は言う。

 私だって新淵さんのやることなすことを、考えなしにすべて受け入れるのは愚かだともうわかっている。

 昼休み終了のチャイムが鳴った。香坂くんにかけられた軽い励ましの言葉に少しだけ笑って見せて、私は教室へと戻って行った。

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