Alone Again -Ⅲ
「なんなの、あの馬鹿。本当に入れなくなってんだけど」
その人は虚空に向かって毒づいた。見えない壁に向かって、苛立ちをぶつけるように。いからせた肩が、吐き捨てた言葉に込めた感情をそのまま表しているようだった。
「あの」
その振舞いに思い当たるものがあって、声をかける。その人は背を向けたまま、首だけ回してこちらを見た。
「ごめんね、うるさくって」
「あ、いえ。その」
「香坂くん、だよね」
今度は体ごとこちらを向けて、その人は言った。
「そうですけど」
「私は南波って言って、眼鏡屋と長い付き合いのある者なんだけど。なんか店に入れなくなってるって、澄花ちゃんから連絡もらって」
「あ、俺もそれ聞いて、来てて」
「うん。今は澄花ちゃんの代わりに、香坂くんって子がお店を訪ねてるってとこまで、聞いたよ」
どうやら中野が言っていた、南波という人に間違いないらしい。性別は聞いていなかったけど、その様子から見当はついていた。
「なんで入れなくなってるか、わかりますか」
何かのトラブルなのか。それとも客を選別できるという、店主さんの気持ちによるものなんだろうか。
「悪い癖が、出たんじゃないかなと思うんだけど」
「悪い癖?」
「でも、こういうケースは初めてなんだよなあ……」
店があったはずの方を、苦々しく南波さんは睨む。
「ここの、古い二軒の家は関係ないんですか。こっちに呼びかけるのは」
「その家、全然関係ないらしいんだよね。家と家の隙間に空間を間借りしてるとか、眼鏡屋が店の空間の入り口を作った場所に、あとから家が建ったとか」
全く話が理解できない。魔法は理屈じゃないのかもしれないけど。
「もう魔法のレベルが桁違いすぎて、私じゃ全然わかんないわよ」
ああやっぱり、同士だからといってわかるものでもないのか。魔法使いにも、実力差のようなものがあるということか。
「じゃあ。南波さん、でも店に行くことはできないんですか」
「奴が本気出しちゃったらね。私よりがっつりと長生きしてるだけのことはあるわ」
じゃあもう、万策は尽きたのではないか。
中野に説明するための言葉を、色々と練っていると。
「でもね、魔力では劣ってるかもしれないけどね。私が眼鏡屋と張り合えることだってあるのよ」
「え、そう」
なんですか、と言葉を続ける前に。
「腕っぷしなら負けてない!」
威勢良く言い放って、南波さんはヒールを履いた右足をすっと持ち上げる。
「開けろ眼鏡屋あ!」
南波さんは回し蹴りの要領で、店があっただろう空間に一発食らわした。
「殴りこむぞ!」
いや蹴ってますよね。
そんな力業で、物理攻撃で道が開かれるなんてこと、あったら――。
「は……」
衝撃があったわけでも、何かが壊れる音がしたとかでもない。
けれど気が付けば――おそらくそれは、瞬きの間くらい――俺と南波さんの目の前に、銀の月眼鏡店が現れていた。
「最初っから素直に通せばいいんだよ」
店が俺たちの目の前に現れたのか、それとも店のある場所に俺たちの方が招かれたのかは、わからない。
南波さんはつかつかと入口へ向かう。
急ぎ足で追いついた背中には、怒りがにじんでいる気がした。
無言のまま、ドアを勢いよく押し開く。
「君さ。荒っぽいところ、本当に直した方がいいよ」
椅子に座って、手元で磨いている眼鏡からちらりと目線を上げて。この人にしてはずいぶんと珍しい、うんざりとしたような口調で言った。
「眼鏡屋こそ、いい加減その逃げ癖みたいなの、本っ当にどうにかしたら」
南波さんは、店主さんが作業をしているテーブルまで歩み寄った。テーブルに手をついて、店主さんの方に身を乗り出す。
「あんたこういうことすんの、何回目よ」
「さあ。覚えてないから」
「そうでしょうとも」
再び目線を下げた店主さんに、南波さんはきっぱりと告げる。
「私の知る限り、三回目」
「ああ、そう」
心など動かされもしていないように、店主さんは短く答えた。
「一回目は、私の一人目の亭主。二回目はお隣に住むお嬢さん。で、三回目が澄花ちゃんってわけ?」
「本当に君は、よく覚えてるよね」
加齢による物忘れはないの? と付け加えた店主さんに、南波さんは思いきり怒鳴りつけた。
「あんたが馬鹿なだけ!」
南波さんが、両の掌でテーブルを叩いた。置いてあったカップと受け皿が嫌な音を立てて、思わずびくりとする。
俺の反応が、説明を求めているようにでも見えたのだろうか。南波さんは俺の方を向いた。
「こいつは特別親しくなった人の記憶をね、消しちゃうんだよ」
糾弾するように、南波さんは言った。
「生きる時間が違って、自分の方がいつか取り残されるから。生きる世界が違って、自分と一緒にいても報いてあげることができないから」
悪い癖。
南波さんが言っていた、その意味。
「それで相手から自分の記憶を消して、思い出すのがしんどくなったら自分の記憶も消して。そうしてその人との関係を、なかったことにするんだ」
そうやって逃げる、と南波さんは言う。
人と人が繋がりあい、関係を構築していく時。
積み重なる共に過ごす時間、楽しい思い出、紡がれる愛情。
それを捨てるなんて、あんまりじゃないだろうか。幸せな時間だっただろうに。
(ああ、だからこそ。覚えていると、つらいのか)
嫌な記憶だから、酷い別れ方をしたから、忘れたいということがあると同時に。
幸せな記憶だったからこそ、思い出すのが悲しいということが、人にはある。
「私は人生で三人と、結婚らしきものをして」
南波さんによる突然の思いがけない告白に、俺は目を見開いた。初対面相手に失礼だろうと、すぐに平静を装ったが。
「一人目は出逢ってすぐ一緒に暮らし始めたけど、ひと月で戦地に行ってそのまま戦死するし。二人目はろくでもない酒飲みで、博打は打つし暴力ふるうし。本当に幸せになれたのは、三人目の旦那との結婚だけだった」
壮絶だ。長く生きてるからって、許容できるものでもないだろう。
「ろくに一緒にいられなかったわ、クソアル中DV野郎だわって、感じだけど。それでも私、忘れるつもりないよ」
あんたと違って、と南波さんは冷たく言い放つ。
「もちろん、三人目の旦那との幸せな記憶もね。これからどれだけ永く、一人で生きることになろうと」
五本の指先と、手のひらを、胸元に押し付けるようにして。
「どんな記憶も。私という人間の、一部よ」
挑むように、南波さんは店主さんを睨みつけた。
「あんたとの腐れ縁だってもともと、私の最初の旦那と親友だったからだっていうのに、忘れてるし」
「ああ、そうだったんだ」
店主さんはまるで他人のことのように言う。
忘れてしまえば、他人事になってしまうのだ。
「あんたの気持ちだって、わかるよ。特に永く生きてるから、親しい人間を人一倍、見送ってきたんでしょう。それを全部覚えていたんじゃ、身がもたないって言いたいのも」
ずっと厳しかった南波さんの目元が一瞬、揺らいで。
「でもそれじゃあ、あんたはずっと独りじゃない」
その言葉に、店主さんはかすかに笑った。
困ったように――寂しそうに。
「久々に会った時、あんたは澄花ちゃんと仲良くなっていて。また同じようなことを繰り返すんじゃないかと思った。でも私も旦那を亡くして、また独りになって、寂しさに抗うのは簡単じゃないって思い出したから。だからいっときでもあんたの寂しさがまぎれるなら、それも悪くないかなって思ったけど」
南波さんは目を伏せて、額を抑える。
「でもやっぱり、腹立つわ。あんたのやり方は、なんか嫌」
「うん。わかってもらえるとは、思ってない」
拒絶。分かり合おうとしないから、だからこの人は一方的に、関係をなかったことにする。
「……まあ、つらいことや嫌なことは、忘れたいなら忘れていいと思いますよ」
二人が揃ってこちらを見た。問うような視線が痛いけれど、俺は俺で思ったことを、ただ口にしたくなったのだ。
「俺は交通事故のこと、覚えておくって決めて。小さい頃なんか特に気を張って覚えておかなきゃって思ってたけど。ああいう経験、つらくて覚えていたくないって人もいるだろうし。それは本人の自由かなって、今は思う」
自分で選んだだけだ。覚えておくと。
「乗り越えろだとか覚えてろだとか、忘れたほうがいいとか、なんにしたって身勝手に他人に言われるとムカつくし」
南波さんが眉を寄せた。ちょっと南波さんを責めているようだったかもしれない。そんなつもりは全くなくて、ただ、思うのは。
「自分の記憶も心も、全部自分のもんです」
覚えているという意思も、忘れるという努力も、すべて自分で決めること。
俺はまっすぐ、店主さんの目を見た。
「だから中野の記憶を勝手にどうにかしようってのは、なしっすよ」
「厳しいなあ、トウくんは」
店主さんは、目をそらすように俯く。
この人を信用できなかった理由。
事故の記憶を消さないかと言われた。それは提案で、断ったから何をされたわけでもなかったけれど。ただ、もし勝手に魔法をかけられたらどうしようと、思い込みながらそういう不信感を抱いたからだ。
「だから中野に記憶を消す魔法をかけてるなら、いますぐ取り消して……」
「あ、それ!」
俺の言葉を遮るように、唐突に南波さんが声を上げた。
「澄花ちゃんの記憶、どうして消してないの?」
「は?」
今、人の記憶を勝手にいじるなという話をしていたのではないか。それなのに、どうして消していないのか、とは。
「えっと、どういうことですか」
「眼鏡屋の記憶を消す魔法はね、即効性だよ。徐々に記憶を消していくなんて、まだるっこしいものじゃない。つまり澄花ちゃんの記憶を消す魔法、まだかけてないよね」
「え、そういう話をしてたんじゃないんですか」
「こいつが、澄花ちゃんを店に入れてあげないっていうから。だから悪い癖が出て、仲良くなったところで、もう会わない決意をしたんじゃないかと思ったんだけど」
だったら今回のところ責めるべきなのは記憶の消去じゃなくて、いきなり中野を締め出したことなんじゃないだろうかと思ったが。
(なんにせよ、逃げてるのには変わりないってことか)
いつの間にか論点がすり替わっていたようで、南波さんはずっと同じことに腹を立てている。
「そうなると、いつものやり方だったらまずは、澄花ちゃんの記憶を消しているはずなのに」
南波さんが言った、『こういうケースは初めて』という言葉を思い出す。
「記憶を消すのは確かに反対だけど、好きな人のことを忘れられないのに会うことができないなんて、それはそれでひどいじゃない」
相手の記憶を消すということに、優しさを見出すなら。
それは自分との思い出に囚われて苦しまないようにという、この人なりの誠意なのかもしれない。感心はしないけれど。
「それが、できなかったんだ」
「なにそれ。どういうこと」
「記憶を消す魔法が跳ねのけられた」
店主さんはゆっくりと瞼を下ろす。
「そんなことって、あるの」
「一つ、可能性で考えられるのは」
再び、目を開く。
その瞳に宿る魔眼で、魔法をかけるという。
「僕が以前にもスウちゃんに、記憶を消す魔法をかけたことがあるっていう可能性」
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