残雪朱に色づく

かがわ

残雪朱に色づく

 ――あるいは、首を刎ねておくべきだったか。


 白雪を踏みしだきながら、陰月芳イン ユエ ファンは回顧した。


 麓の村邑から三里ほどが過ぎ、なだらかな丘陵を分け入った先に、彼女以外の人影はない。既に道とも言えぬ山間やまあいには、陽光こそ頭上より燦々と降り注いていたが、積雪が照り返せば愈々いよいよ鬱陶しいだけであったし、吹き下ろす冷厳な風も、陰を包む馬革の外套を忙しなくはためかすほどの勢いがあった。中原ちゅう げんを離れ七日。雪道に慣れた、偉丈夫のごとき大女である陰にも、少しばかり寒風が堪えてくる頃だった。


 然れども、陰が己の行くべき先を見失うことはなかった。無論、相手も達人であり、痕跡を消しながら歩くなど造作もないが、陰はその猟犬が如き嗅覚で、精確に仇の足取りを捉えていた。


 陰を突き動かすのは、ただ執念のみである。、妹弟子の邪心に気づいたその場で素っ首叩き落としておくべきだったという悔悟の一念が、彼女に数百里もの追跡を為さしめていた。


 一際強い風が吹き荒び、白い飛礫が陰の頬を撫でつける。開けた場所に出たらしい。山道の途上にあった平地は、風を遮るものがない故に、残雪も土と混ざって醜く黒ずんでいた。ただ平地の中央に、背の低い老木がひとつ、左右に枝を伸ばしながら立ち枯れていた。その枯れ木の足元を見れば、寄りかかるように腰を下ろす人影があった。


 江湖の侠客とは思えぬ手弱女のごとき後ろ姿を、陰が見紛う筈もない。


雪雁シュエ イエン


 姉弟子の呼びかけを聞いて、朱雪雁チュ シュエ イエンは気怠げに立ち上がり、振り返った。洒蘭しゃらん、と朱の艶やかな黒髪を結い留めている金釵きんさいが微かに音を立てた。


「貴女でしたか、月芳姐姐ジェジェ

 あんまりにも遅いものだから、中原に残ったものとばかり」

 

 二月ぶりの再会は然し、朱の口振りこそ世間話のそれだった。その軽薄さに、陰は奥歯を噛み砕きそうになりながら、ゆっくりと老木へ向けて歩み出す。


 追手に差し向けられたのは、陰がただひとりではない。なれどその悉くが消息を絶ち、決して戻らなかった。朱に追跡を振り切られたか、あるいは――


「雪雁、秘伝書はどこだ」


 厳とした陰の声に、朱は退屈そうに息を吐くと、情婦のように嘲笑わらった。


「せっかちな姐姐。

 あのような紙束が、何故なに ゆえそれほどまでに大事なのですか」


「紙束ではない。あれは次代の掌門にのみ受け継がれる、破軍会の秘奥だ。

 貴様も、それを分かって持ち去ったのであろう」

 

 薪を放られた炎の如く、一瞬語気が強まったが、陰はすぐさま己を戒めると、朱まで四丈ほどの距離を残したまま足を止めた。


 あれほど騒々しかった筈の風は、今ではほとんど凪いでしまっている。


「戻れ、雪雁。

 老師は貴様の出奔をお認めになってはいない」


 口を突いて出た言葉は、陰自身思いもよらぬものだった。


「貴様には天稟がある。門人の誰一人として――いや、今や老師すら貴様に土を着けることは叶わぬだろう。

 だから私は、貴様こそが掌門に相応しいと、そう思っている」


 だが、紛れもなく本心からの吐露だった。


「意地悪を仰るのですね。

 いかに功夫クンフーを積もうと、いかに対打に秀でようと、女だてらに掌門を継ぐことなど出来ません。それは姐姐、ほかならぬ貴女が一番よくご存知の筈。

 。女の細腕で、破軍の剛剣を振るうことが、元より出来よう筈ありましょうか」


 朱は変わらぬ様子で微笑を湛えていた。


 いくら功を積めども女は女。何故なら男の陽気に対し、女は陰気である。体格こそ男に劣らねど、陰もまた女であり、名の通り陰の気脈を持つ。そして破軍の套路が陽気を根拠に編まれている以上、女の剣は即ち男の剣の紛い物にほかならぬ。


 どれだけ優れた切れ味を誇ろうと、ふたりの剣は歪み切っていた。


「だが、一門の男どもが貴様に劣ることも事実だ。

 老師にとっては不本意だろうが、それでも貴様の才を惜しみ、こうして我らを遣いに向かわせたのだ。

 貴様が戻った暁には、老師も掌門を譲ることだろう。貴様以上に相応しい門人などいはしないのだから。

 私は必ずや貴様を連れて戻るぞ。仮令たとえ腕づくでも――」


「殺してでも、の間違いでしょう」


 放たれた鋭い剣気に、陰は息を呑む。朱は実に緩慢な動作で、陰に見せつけるかの如く腰佩きの剣を抜き放った。


「本当に莫迦な人。老師は私を許す気など毛程もございませぬよ。

 武林の習いです。本気で死合えばいずれかが果てるは必定。老師も、初めからそのつもりで刺客を差し向けたのです。

 姐姐も、真逆まさかお分かりでなかったとは言いますまい」

 

「では、何故剣を引かぬ」


 張り上げた声が、蒼天に木霊した。


「決まっています。

 私が誰よりも強いからですよ」


 ごう、と再び巻き起こった一陣の風が、朱の纏う外套を大きく持ち上げる。


 外套の下、長衫ちょう さんの身頃が、名の通りあかく染まっていた。


「――雪雁。

 貴様、何人斬った」


「然て。ともあれ問答は無用です。

 姐姐さえ屠れば老師も徒労と気づく筈。何せ最も腕の立つ弟子が敗れるのです。いかな秘伝書大事とはいえ、これ以上高弟を失えば一門は本当にほろんでしまう。

 だから私が斬るのは姐姐、貴女が最後となりましょう」

 

 両刃の単剣を構えながら、朱が妖しく囁いた。きっさきを姉弟子へと向けた朱の表情は、最早凄絶さすら感じさせる。 


「問答は無用か。

 相分かった。私もこれ以上、痴れ言に耳を貸す気はない」


 残された未練を断ち切らんとばかりに、陰も白刃を抜く。


 寒天の下、不毛の地で、ふた振りの歪んだ剣が相対した。

 

 

   *



 矢庭に、数合の衝突があった。


 鉄と鉄が火花を散らし、耳障りな音を鳴らす。互いが互いの剣筋を読み、打ち、抑え、弾く。まるで高速でぶつかり合う独楽の如く、鎬を削る。


 幾許かの応酬の末に、両者は雪上を滑るように後退し距離を取った。


 当然ながら、陰はこれしきで息が上がるような鍛え方をしてはいない。それは朱もまた同様である。更に言えば、未だ互いに本気で打ち合っている訳でもない。先の剣戟にしろ、今現在の小康にしろ、両者出方を伺っている段階である。


 だが、陰は早くも額に滲む汗を感じ始めていた。


 陰にとって目下の問題は、朱と真っ向からことに尽きる。陰は六尺に迫る大女であり、その腕力かいな ぢからは同門の男衆に及ばずとも、頗る見劣りするほどではなく、またその内力も気息充実していた。


 片や朱は町娘とそう変わらぬ体格である。にも拘らず、先刻の正面切っての打ち合いですら、陰が朱を切り崩すことは叶わなかった。いや、実際のところ打ち合えてなどいないのだろう。陰の技は朱によって、最小限の動きと力で、そのすべてがされてしまったのだ。


 陰自身、男と比べて体躯で劣ることを自覚していた分、内功で補ってきた自負があった。陰もまた卓越した剣士であることは疑うべくもない。


 然しながら、陰と対峙しているこの妹弟子が、陰を遥かに上回る使い手であることは、最早火を見るよりも明らかだった。


(よもやこれほどとは――)


 姉弟子の焦燥を見透かしたか、朱は招くように左手の剣訣を陰へ向けて突き出した。見え透いた挑発だが、それでも陰は退くわけにはいかなかった。地力で劣る陰には、攻め気で押し切る以外にほかはない。


 陰は姿勢を低く沈めると、左右の足を続けて強く蹴り出し、一息に距離を詰めにかかった。矢のような速さで迫る陰を、然し朱は三日月を思わせる笑みで迎え撃つ。


 陰と朱とでは当然陰が間合いに勝る。加えて、陰の用いた箭疾歩せん しっ ぽは、一瞬で三丈を跳ぶとされる絶招歩法である。


 その秘技を前にして尚、朱は陰の動きを見失うことはなかった。


 そして、朱の余裕が見て取れたからこそ、陰は剣先が届く位置を目前にして、足元の雪を目一杯蹴り上げた。


 煙る雪に紛れ、朱の視界から消えた陰は、今一度踏み込むと同時に、先程より更に低く、限界まで腰を落とし込む。


ッ――!」


 剛剣、飛龍昇。


 闖歩ちん ほと呼ばれる低い踏み込みから、腰の回転と膝の発条バネを利用して薙ぎ上げる必殺の剣。隙の大きさから決して実戦向きとは言えぬ技だが、距離を殺す工夫と、陰の強靭な足腰が、必殺の剣を文字通り必中必殺の剣へと昇華した。


 ――然し、真に驚嘆すべきは。


 完璧な奇襲であった筈のその秘剣を、朱は僅かに上体を反らすだけで回避して見せたことだった。


「――見事、」


 さしもの陰も舌を巻き、思わず口走る。


 反面、陰には確信があった。いかな必中必殺の剣であれど、


 だからこそ、更に一歩。躊躇なく食らいつく姉弟子の姿に、朱が瞠目した。


 陰自身、何もかもを予期していた訳ではない。ただ、朱の実力を本能で理解していたが故に、即座に踏み込み直し、振り抜いた剣を続けざまに振り下ろすことが出来た――


 今まさに、陰が朱にとどめを刺そうとしたその刹那。


 妹弟子の瞳と、


「――――!」


 無様にも泥と雪に塗れたのは陰である。自ら雪上に転がり込んだ陰は、またすぐに体を起こし、朱とは距離を保ったまま、鋒で彼女を捉え直した。一見冷静にも思われる陰の胸中は、然し先程以上の驚愕で埋め尽くされていた。


 陰が剣を振り下ろそうとしたその瞬間、朱の右手は柄を握ってはいなかった。彼女の剣は宙にあった。刃が空を滑るその最中さ なか、朱は大きく身体を仰け反らせると、爪先で剣の柄を蹴り出し、鏢の如く撃ち出したのだ。


 鮮烈な痛みと生温い感触が、遅れて陰の左頬を通り過ぎる。まさに間一髪。僅かでも反応が遅ければ、朱の刃は陰の顔貌に突き立っていたに違いない。

 

「――流石は姐姐。

 初見で飛雷閃これを見切られるとは」


 朱は上機嫌に呟くと、足に絡みついた剣穂を解きながら、雪に埋もれた己が剣を手繰り寄せ掴み取った。


 飛雷閃は乱戦で活きる技であるが、得物を失う危険を孕む。それに本来、あの技に肝要なのは安定した足場と姿勢である。だが朱が今まさに披露してみせたのは、泥濘んだ足元での盲撃ちであった。陰の知る飛雷閃は、あのような曲芸じみた技では断じてない。


 首筋を流れたのは血か汗か。雫が落ちるよりも早く、陰は三度み たび疾駆した。

 

 血風が散り乱れる。一刀の元に伏さんという気迫で幾度も打ちかかる陰の攻めは、単調にも見える力押しであったが、一方で梱歩こん ぽ鎖歩さ ほを織り込んだ巧みな運足で、朱が反撃に転じぬよう、彼女の動きを制限していた。


 それでもなお、朱は降り注ぐ刃の悉くを化し、威力を殺して見せた。


 受けに回ればいずれは限界が来る。朱が並の使い手ならば、疾うに剣を砕かれていただろう。だが朱はこともなげに、むしろ生死の際に立つことを愉しむかのごとく、陰の刃をいなし続けた。


 こうなれば、疲弊するのは陰ばかりである。足捌きは次第に乱れ、一気呵成と攻めかかった剣にも隙が生じる。反面、陰の領分に引き摺り込まれて尚、朱は息一つ乱す様子はなかった。


「この程度ではないでしょう」


 一転して、朱が失望を零す。


 仮令それが針の穴ほどであろうと、姉弟子の綻びを見逃す朱ではない。遂には鍔迫り合いに至ってすら、膂力で勝る筈の陰が朱を押し切ることすら出来ずにいた。


 どころか受けに徹していた筈の朱に、陰は強引に突き飛ばされ、直後烈火のような連撃に襲われた。代わって陰が守勢に回るが、朱と比べると動きひとつ取っても精彩を欠く。


「――もう良い。

 これで仕舞です、姐姐」


 諦めた声で言って、朱は陰のすべてを削り取らんと、より苛烈に攻め立てる。


 晴天に激しい剣戟が響く。決着は近い。遠からず陰は朱の剣に膝を屈し、その首を差し出すかに見えた。


 

 

(かかった――!)


 僅かだが動きを止め隙を見せた朱に、陰が強烈な当て身を見舞う。不意を突かれた朱は間合いから弾き出されたものの、自ら後方に飛ぶことで衝撃を殺すことに成功していた。


 そして、陰にはそれで十分だった。


「終わりだ、雪雁――!」


 陰が欲していたのは、一瞬の隙と数間の距離。刹那、陰は開いた距離を踏み込みひとつで飛び越えると、その勢いを剣に乗せ、腕全体をしならせるように朱へと突き出した。


 ――これぞ絶技、餓狼突。


 既に、陰は朱と己の間に横たわる力の隔たりを理解していた。あくまで技比べにがえんずれば、朱に敵う望みなど万にひとつもないと痛感していた。


 だからこそ、陰は実戦の虚実を用いて乾坤一擲を投じ、この剣鬼を討ち果たさんとした。


 ――だが、虚実に長じるは朱もまた同様だった。

 

 突如、陰の目に映るあらゆるものの動きが泥のように鈍った。それは陰自身もまた例外ではなかったが、故に陰はどんな些細な動きでさえ見逃すことはなかった。


 戦慄がひた走る。朱の位置が陰の想定よりも僅かに近い。陰が距離を読み違えたのではない。後退していた筈の朱が、半歩前へ踏み込んでいる。


 それはつまり、陰の技が全く見切られていることにほかならなかった。


 勝敗は決した。陰月芳渾身の一刀も、その軌道が読めさえすれば合わせるのは容易い。程なくして、陰は朱の刃に倒れるだろう。


 技の冴えも、実戦の虚実も、捨て身の策を用いてさえ、陰は朱に及ばなかった。

 

 そして、誰でもない陰自身が勝負を諦めた頃に、緩やかだった時の流れは、漸く元の勢いを取り戻した。


 今際の際に、始まりの日を想う。


 門前の幼子を捨て置けず、師兄に助けを乞うたあの日を、陰は後悔こそすれど、どうしてか、忌むことが出来なかった。


 

   *



 決着は、瞬きに満たなかった。


「――――何、」


 陰の身体は、温かい血に濡れていた。痛みはない。死とはこうも安らかなものなのかと考えてすぐに、この血が自身のものではないと気づいた。

 

 陰の傍らに、朱の顔があった。朱は――妹は姉を見て薄く笑ったのち、見苦しく喀血した。


 呆然とする陰を、朱が優しく抱き寄せる。朱の小さな背から、鋭い鋒が生えているのが陰の目に映った。


 届く筈のなかったその剣が、妹の身体を貫いていた。


「――お慶びを申し上げます、姐姐。

 これで、老師も貴女を認めざるを得ないでしょう」


 血のあぶくを零しながら、朱がまた笑った。その生気のない笑みが、この世のものとは思えぬ美しさで、陰は慄いた。


「何故だ、雪雁」


 問い返す声は、震えていた。


「こんな筈はない。

 貴様の才気は、技の冴えは、この程度ではない筈だ。貴様が本気なら、私など最初の打ち合いで斃すことも出来ただろう。

 それが何故――どうして私が生きて、貴様が、」


 陰の嘆きさえも、朱はやはり嘲笑ったのだ。


「買い被りです。

 確かに私は、貴女に全力で剣を振るったことなど、一度たりともありませんでした」


「なれば」


「けれどそれは、私にそうする覚悟がなかっただけのこと。

 だってそうでしょう? 姐姐を差し置いて掌門を継ぐなんて、況してや斬り殺すなんて、どうしてわたしに出来ましょうか」


 朱の揺れる瞳が、陰を真っ直ぐに見ていた。雪のように白い指先が、陰の顔をなぞる。自分の頬が濡れていることに、陰は気づいてすらいなかった。


「巫山戯るな。

 そんな下らない理由で、貴様は逝くつもりか」

 

 やり場のない怒りが陰の内からこみ上げる。

 

 陰月芳は朱雪雁に殺意を以て相対した。だが朱はと言えば、端から本気で陰を殺すつもりなどなかったのだ。


 朱はただ幼子のように、ただ無邪気に姉弟子との技比べを楽しんでいた。


 その結末が、今生の別れとなると理解していながら。


「立て雪雁。

 勝ち逃げは許さぬ。立って、私と――」


 己が剣より手を離し、陰は朱の双肩を掴んだ。すぐに足元で鈍い音が鳴る。滑り落ちた刃は、朱の胸を穿つそれとは違って、血に塗れてなどいなかった。


 地に伏した剣の主は、既に力なく頭を垂れており、ただ唇に満足げな笑みを浮かべたまま事切れていた。


 その安らかな顔を、陰は暫くの間、じっと見つめていた。

 

 やがて陰が朱から身を離すと、朱は背中からゆっくりと倒れ込んだ。同時に朱の外套から何かが零れ落ちる。陰が拾い上げるとそれは、朱の持ち出した秘伝書であると分かった。


 すっかり血に染まった一冊の書を、陰は少しの逡巡ののちに開いた。本来ならば、秘伝書は掌門の座とともに継承されるものだ。刺客とはいえ、陰に秘伝書の内容を改めることは許されていない。


 それでも、陰は書の正体を確かめずにはいられなかった。そして、それが自身の予想していた通りの代物であると知ると、陰は遂に天を仰いでしまった。こんなもののために兄弟たちは殺し合ったのかと思うと、虚しくて仕方がなかった。


 朱がこれを紙束と断じたことも、今の陰には頷ける。何故なら、


 否、。だがここにあるのは、いずれも疾うに体系化され、今や門人のほとんどが修めている、極めて基礎的な技術や心得に過ぎなかった。ある意味で門派の神髄とも言えるかも知れないが、最早この書は象徴としての役割しか持たぬのだろう。


 呆然とする陰の鼻先を、微かな冷たさが掠める。それで漸く、陰は頭上に立ち込める暗い雲に気づいた。


 また雪が深くなるかも知れない。陰は秘伝書を胸に収めると、倒れた妹弟子の胸から己の剣を引き抜いた。噴き出した赤血を浴びながら、朱の美しい黒髪を一房切り取ると、空を見る彼女の瞳を指先で閉ざした。


 朱が何を想って一門を去り、何を想って己に斬られたのか。最愛の妹が抱えていた苦悩を、孤独を、陰は最後まで理解出来なかった。


 立ち合いは終わった。朱を討ち果たし、秘伝書を持ち帰ったとなれば、陰が一門を継ぐことに異論を挟む者もないだろう。


 だが陰だけは、それが己の実力によるものではないと理解していた。真剣勝負で手心を加えられたという恥は、この先一生そそぐことが出来ぬと分かっていた。


 言い表しようのない空虚さを抱えながら、陰はその場を立ち去らんと踵を返す。それから剣を収めようとして不図ふと、未だ血を滴らせている鋒に目が留まった。


 その雫が酷く汚らわしく思えて、陰は一度だけ、大袈裟に剣を振るった。

  

 溶けかけた残雪に、赤い飛沫が弧を描く。


 それでも尚、携えたままの得物には、妹の血脂ち やにが、後悔の如くこびりついていた。

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