第4話 冬

 ボクの会社ではそれは当たり前のことだった。冬が過ぎれば彼女は転勤してしまう。まだまだ彼女とはたくさん話がしたかったが、残念ながらプライベートなことを話せるほどボクは彼女に近づけてはいなかった。

 その頃のボクは、ネットの中で小説を書くことに夢中になっていた。彼女と近づきたいがために入り込んだネット小説に、ボクはすっかりハマってしまっていたのだ。

 逆に彼女は仕事が忙しいこともあって、ほとんど小説サイト「コペルニクス」には顔を出さなくなってしまっていた。ボクは肩透かしを食ったようで——

 ボクが追いかければ追いかけるほど、まるで彼女は余計に遠くに行ってしまうみたいだった。


 仕事場の彼女は相変わらずよく仕事をこなし、そしてプライベートではまったく動じることもなく自分はオタクであることを隠そうともしない。周りの連中は鼻で笑うような態度をとるものもいたが、ボクは彼女が羨ましくて、眩しくて仕方なかった。


 そうなんだ。だって彼女がアニメを好きだろうが、宇宙戦隊を好きだろうが、誰にも関係ないことなんだ。好きで何が悪いというんだろう。


 ボクは。ボクは彼女たちと同じ服が着たい。お化粧品売り場で春の新色リップを選びたいだけだ。誰にも迷惑をかけるわけじゃない。でもそれが口に出せずにこの男だらけの職場で定年を迎えようとしている。


 毎日、毎日仕事場のボクは仕事をしている以外の時間、いつも彼女を見ていた。彼女の香りが嗅げるなら、何か用事を作って近くに寄りたかった。

 もし世間の人たちがその頃のボクを見て、そんな感情は「恋」なんだよというのなら、確かにボクは彼女に恋をしていたと言えるのかもしれない。

 ボクは彼女ができないことを心配した母親の紹介で妻となった人と結婚するまで彼女という人がいたことがない。つまり女性と付き合ったことがなかった。周りの男子たちが、裸の女子の写真を見ながら大人になって行ったことをボクは知っているが、ボクは「服を着た」女子たちの写真の方が興味があった。だから、「恋」という感情がどういうものなのか知らなかった。子供の頃にあったのかも知れないが、完全に忘れ去っていたのだ。だって、ボクが大人になる過程において、そんなものは飛び越えてしまっていたのだから。


 そんなボクの思いとはすれ違うように、彼女はボクの前からいなくなってしまった。多分、もう二度と会えることもないと思うと切ないが、もともとボクらは歳も離れていて、結婚しているボクと独身の彼女が友達とか彼女とかになることなどまったくありえないことではあったのだ。


 彼女が転勤してしまって一年後、近況を告げ、今別のサイト「ヨミカキ」で細々と小説を書いているという短いコペルニクスのメールをそっと送ってみたが、案の定返事はなかった。

 それで終わったとボクは悟った。


 ⌘


 あと1ヶ月で定年を迎えようとしていた春。若い頃に見ていた定年前の人たちはえらくおじいさんに見えていたのに、今のボクは相変わらず少女漫画好きの人間で。体ほど精神は歳を取らないことを理解した。

 だからこそボクは焦っていた。体が歳を取れば取るほどに反比例するように、あの日、あのセーラー服を着て外を歩いたあの日から止まってしまった少女のままの成長しない自分に。


 そんなある日のことだ。

 コペルニクスに新しいメールが来たことを告げる知らせが入った。何の更新通知だ、と思いながらメールを開いてボクは急激に胸が高鳴る。

「ご無沙汰してます。メールの返事をしていないことを思い出して、メールしました」

 それは彼女からのメールだった。ボクはうれしい気持ちを抑えながら、気にしないでくださいという短いメールを返した。それ以上ボクには何の言葉を必要なかったから。


 次の日、「ヨミカキ」に投稿した小説に「いいね」がひとつ増えていた。

 ——Dさんがいいねしました。

 その短い通知。「D」という文字、それだけでボクはわかった。そう、わかったのだ。それが彼女だということを。

 わざわざこの場所まで彼女が追いかけてきてくれたことがどれほどうれしかったか、誰か想像してもらえるだろうか。ボクはてっきり彼女に嫌われていると思っていたのだから。


 それからの僕らは年の差、住んでいる場所の距離を軽々と飛び越えてとてもいい友達になった。彼女が今の仕事での悩みをボクに打ち明けてくれた日、ボクはボクを知っている人に、初めて自分のことを話した。

 彼女はボクのもう1人の人格を受け止めてくれ、そしてボクらはお互いのことを認め合える関係となった。

 

 ——Dさんの小説が投稿されました。


 ヨミカキの短い通知が入る。ボクは慌てて最近ヨミカキに投稿するようになった彼女の小説を読みに行く毎日だ。

 そうなんだ。ボクはいつでも、彼女の、春佳さんの小説の最初の読者であり続けたいと思っているのだ。


 だってボクは、彼女に恋をしているのだから。


 (了)

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君に、恋していた 西川笑里 @en-twin

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