第2話 夏
小学五年生の夏だったか。
その日、兄のことで中学校へ出かけた母親の鏡台の椅子に座り、引き出しに入れてあった赤い口紅をボクは手にしていた。それが引き出しに入れてあることも、どうやってそれを唇に塗っているのかも、小さい頃から母親を見てきたので知っているつもりだった。
指より少し大きな容器の下をクルクルと回すと、赤い塊が少しずつ上がってくる。右手に持ったそれを、ボクは少し震えながら、初めて自分の唇に当てた。
手を動かすと、鏡に映る「ボク」の唇が赤く塗られてゆく。それにつれて胸が高鳴ってゆくのがわかる。嬉しくて。
綺麗になりたい自分を華やかに飾れる喜び——
それが他人から見て綺麗かどうかなんて、その頃のボクにはどうでもよかったんだ。自分がそうしたい、綺麗になりたい、ただ、それだけだったんだ。たとえボクが「男の体と顔」を持っていたとしても。
その時代には、「トランスジェンダー」——体とは違う心の性を持った人——という概念はなく、異性愛者か同性愛者かという基準しかなかった頃だ。
男性が女性の心を持つこと、イコール当時の世間では同性愛者、ホモセクシャルという認識しかしてくれなかった。いや、今でもそういう認識しかない人もいるのかもしれない。だけどボクは——
ただ、綺麗になりたいと思った。女の子の体を持った子たちと同じように、スカートを履いてみたかった。そのウエストの位置が羨ましかった。
だけど、男の体を持ったボクが男性と恋愛という想像ができなかったのだ。でも、世間の基準は違うらしい。
——こんなこと、口が裂けても言ってはいけない。
ボクは胸の奥深く心の希望を仕舞い込むことにして、一生懸命男を演じて生きて来たのだ。
だけど、ときどき胸の奥から心がはみ出してしまうことがある。高校を卒業するまでに何度か、家に誰もいないことがあると小学五年生のあの時のように、ボクは鏡台の前に座った。
中学になると少しだけ知恵がつく。口紅だけでなく、順番など適当だが化粧水をつけ、ファンデーションを塗り、母親のものだがスカートをそっと借りて着てみるようになった。
——もう少しフワッとしたスカートだったらいいのに。
そう思いながらも、鏡の前でクルッと回ってそれで満足していた。背中を鏡に映しながら振り向く。赤い唇の自分が微笑んでいた。とてもうれしそうに。
高校三年生になった。その日は両親が親戚の結婚式で一晩いなかった。その年になると、子供を1人にして出かけることも親もさほど心配しないらしい。住んでいた町が田舎だということもあったのだと思う。ただ——
別の意味で、ボクを1人にしてはいけなかったことには気づいてなかった。
その頃、ボクの母親は洋裁が得意だったため、地元の中学校のセーラー服を縫う内職をしていた。だから、ボクの家には真新しいセーラー服が何着かいつもハンガーに掛けてあった。
——これを着られたら。
ボクはいつもその制服に憧れながら、横目で見ていただけだった。もちろん、ほとんどが仮縫い用の糸が通してあって、ボクが着られる状態ではなかったこともあった。
その夜、ボクはお化粧をした後に、ふといつものように壁に掛けてあるセーラー服に目が入った。赤い三本ラインのオーソドックスな制服。
あれ? もしかして仮縫い糸が通してない——
椅子から立ち上がって近寄ってみる。完全に出来上がっている制服。
——可愛い。
ドキドキしながらハンガーから外して、畳の上に広げてみる。冬服なので、ブラウスは必要ない。このままで着られそう——そう思ってしまった。
今思えば、なんてことをしたんだと思う。この制服を楽しみにしていた女の子がいたはずだった。それに袖を通すのがボクでよかったはずがない。だけど、ボクはそんなことまで考えも及ばずに、まずスカートを手に取ってしまった。
高校三年の終わり頃に多少背が伸びて、人並みより小さい程度までにはなったが、それまでボクはいつもクラスで二番目の、とても小さな子だった。中学に入るとき、小さ過ぎて地元の制服屋に号数がなく、よその県から取り寄せてもらった。高校に入る時も百五十センチしかなかった。そう、その頃のボクより大きな女子は普通にいたのだ。
初めて着たセーラー服のスカートのウエストはキツくなかった。むしろ腰骨が小さいせいで落ちそうで、思いついて安全ピンで絞って止めた。上着ももちろん普通に着用できた。こちらも胸周りは緩いくらいだった。
鏡の前で何度もくるりと回ってみる。ふわーっとスカートが広がる。でも、何か違和感を覚えた。
——そっか、忘れてた。
慌てて自分の部屋に行き、箪笥の引き出しから白い靴下を取り出して履く。そしてくるぶし辺りまで折り込んだ。思い出して鏡台の引き出しから、母親が持っていたカツラを被ってみた。若い女子がつけるものではないけど、地毛よりは女子っぽい。
もう一度鏡の前に立ってみる。薄めのお化粧をした「女子」が立っている。可愛いかどうかなんてわからないけど。ボクがそうしたいから、そうしてる。
もう夜も八時を過ぎていた。田舎にあるボクの家の周りには街灯などほとんどなかった。
——悪魔の囁き。
ボクは白いスニーカーを履くと、そっと玄関の扉を開いた。胸の高鳴りは最高潮となっていた。
その夜は興奮して眠れなかったのを覚えている。そしてそれがスカートを履いた最後の日だった。大学に行くと残念ながら、それからボクが履けるスカートやお化粧道具が身の回りになかったからだ。
ボクは、「男」として生きるしか道は残されていなかったのだ。
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