第3話 秋
結局、世間で言う「普通」という言葉に一番囚われていたのはボクだったのかもしれない。
課長——出島春佳といった——は仕事に対していつも前向きだった。ボクが杞憂したことなどまったく問題なかった。現場での指示も的確で、遅れていた工期も取り戻していた。
——ボクはいったい何を心配していたのだろう。
女性だから男の職場ではできないはず、という思い込みは彼女によって簡単に打ち砕かれた。彼女はいつも自然体で男たちの中に立っている。
考えてみれば当たり前のことだったのだ。だって、ボクがちゃんとこの職場で働けているのがその証明だ。18歳でセーラー服に憧れて外を歩いた、このボクでさえできていたことを女性はできないなどという不遜な考えが間違いであることは、自分自身が一番よく知っていることではなかったか。
ボクは男たちが怖かった。虚勢を張りながら、なんとかして男の世界の争い事から逃げてばかりいた。時には作業員から凄まれ縮み上がるような恐怖を覚えながら、ボクはこの仕事をあと数年で定年を迎えるまで続けてきたのだ。
あれだけ堂々と振る舞える彼女が、ボクでさえできていた程度のことができないはずはなかった。
それから毎日、ボクは彼女の全てが気になり出した。彼女のことをもっと知りたくなっていた。彼女はボクの憧れになっていった。
彼女——春佳さん、と心の中で勝手にボクは呼んでいた——は、部長から聞かされた通りの本物の「オタク」だった。だが、おそらく彼女にとって残念でだったことは、職場、つまりうちの会社の事務所内は「普通の」大人の集まりなので、彼女のオタク話に付き合うものなど皆無であった。
「所長ってさ、宇宙戦隊のベルトまで持ってるらしいよ」
春佳さんと仲良くなった事務員たちから面白おかしくそんな話を聞く。
「この間、秋のコミケがあったでしょ? そこでコスプレもやってたらしいよ」
ちょっと笑い話みたいに女子事務員たちから男たちは聞かされ、「変わった女」と一蹴するのだ。やっぱり女には幹部は任せられない、と。
——その話、もっと聞きたい。
ただし、ボクを除いては。
ボクは少女漫画が好きだった。少年ジャンプ系の漫画はとても苦手だ。だからずっとそんなことを話せる男友達がいなかった。だけど、春佳さんの口からそう言った話が出ても、「そうそう、あれは面白いよね」という相槌さえも他人の前では打たないでいた。
実際は素知らぬふりをしながら、なんとかして彼女とそういう話をする機会が欲しかったのだが、女性の、10歳以上年下の上司に向かって、なんと語りかけたらボクは彼女とそういう話ができるんだろうとその頃はグルグルと頭の中で考え続けていた。でも、そんなことを言えばセクハラと勘違いされるのがオチだ。
そんなある日、何がきっかけだったのか覚えていないが、彼女がネット小説を投稿しているという話になった。周りにちょうど人がいない。
「所長の書いた小説を読んでみたいですね」
さりげなく春佳さんにいうと、ちょっと照れてはいたが「コペルニクス」という投稿サイトと自分のハンドルネームを教えてくれたのだ。
「じゃあ、今度時間があったら読んでみますね」
平静を装いながら、ボクは胸が張り裂けそうだった。
——他の人たちが知らない彼女を、ボクだけが知ることができるんだ。
そうやってボクは、ネットの世界に飛び込んだ。
その夜、春佳さんの小説を読んだボクは、彼女にサイト内のメールで読んだことを告げた。そして読むだけでなく自分でも物語を書きたくなった。そうだ、この中なら、ボクは自由になれるんじゃないか。
ハンドルネームは「夢」にした。何歳なのか、男だか女だかわからない名前に敢えてしたのだ。
それからのボクはひたすら小説を書いては投稿を繰り返した。しかも、ほとんどの小説を女性目線で書いた。このネットという世界の中で、ボクの心は小学生の頃から願っていた「女子」として生きることに決めたのだ。
ついに生まれて初めてボクの中の女子は満たされつつあった。
だが、ひとつだけ大きな誤算ができた。ネットの中でボクが女子になればなるほど、それがボクであることを春佳さんに言えなくなってしまったのだ。そう、自分から彼女をいつの間にか遠ざけてしまっていたことに気が付いていなかった。
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