ムーンピアへようこそ
藤枝志野
1
ドミトリーのある市街区から交通機関を乗り継いで三時間弱、地方都市と、未だに電線が走っている町の境に目的地がある。
いつか誰かが人間五十年という歌をつくったらしいが――といっても寿命について言っているのではないそうだ――、今や人間は百二十歳まで生きるのがざらになった。何もかもが安定感をもっているような、悪く言えば緊張感もなくのっぺりと引き伸ばされたような感じがする。それでも終わりは来るものだけれど――指揮者がタクトを止め、もう片方の手をぎゅっと握るように。終わったものが僕は好きだ。かつての賑わいや生前の輝きではなく、それらを断ち切って残る静けさが好きだ。だからここに来た。
物好きを呼び寄せてしまうし、老朽化が進んで危ないので、こういう場所の建造物は早々に取り壊すことが多い。ところが物好きの有志によるデータベースによると、ここは閉園から十年以上が経ってもなお、観覧車やメリーゴーラウンドをはじめ多くのアトラクションが残っている。半年前に撮られた航空写真を見ても確かに写っていた。
廃墟の一部と化しているような、人を拒むにしてはやる気のない高さの柵を乗り越えた。舗装のひび割れや継ぎ目から容赦なく草が伸びている。こういう場所に足を踏み入れるたび、何十年か前の映画に登場した、打ち捨てられた動物園を思い出す。あの映画では遺伝子操作をされた挙句見捨てられた動物が生き残っていて、のこのこやって来た人間に襲いかかる。ここには長距離を猛スピードで走れるチーターも、異常に大きく育った猛禽類もいないだろうから安心だ。
やがて茂り放題の林の先に、カラフルな人工物がのぞきはじめた。なだらかなカーブの坂が終わると、評判に違わぬ光景が広がっていた。僕はカメラを取り出し、何度かボタンを押した。かすれて読めない案内図、ファンシーな飾りつけのお土産店、その向こうには子ども向けの小さなジェットコースター。
鳥の声さえないのが心地よかった。一つ呼吸をしてから足を進める。ジェットコースターの前で立ち止まり、乗り場へ伸びる錆びだらけの階段を目でたどっていく。コースターの先頭車両には、三日月を頭につけたマスコットが、虚空に向かってにっこりと笑っている。風もにおいもない。終わったものに取り込まれていくような感覚。この場で自分だけが生きている、動いている、そのことに優越感を覚えるのでもなければ、孤独に対して興奮や愛着を感じるわけでもない。完璧とも言える静けさがただ好きだった。物好きのなかには建造物に立ち入った記録を誇らしげにアップする人もいるが、僕はそこまではしない。あらゆる意味で危険だからだ。一人で来ているのだから怪我をして動けなくなれば一大事だし、そもそも不法侵入だし――柵を越えて敷地に入った時点で五十歩百歩な気もするが。それに、必要以上にこの静寂に割り入るのは、僕からすれば野暮であり礼儀知らずな行為だった。
いつしか閉じていた瞼をゆっくりと開いた。薄曇りの空の中途半端な明るさがじんわりと目に染みた。視線を地上近くに戻し、胃の辺りが軽く縮み上がった。
男がいる。
先ほどまでの僕と同じように朽ちたレールを見上げている。年格好も僕と似ているが、ここにいる目的まで同じとは思えない。チノパンとスニーカーはともかく、半袖のポロシャツにエプロン、それに手ぶらという出で立ちは、廃墟探索にはおよそふさわしくないからだ。
遠慮なく凝視していたことに気づいた時、男も気配を感じたのかこちらに頭を向けた。距離は十メートルもない。視線が真っ向からぶつかって初めて、通報されるのではないかという懸念が頭をよぎった。相手が土地を所有なり管理なりしている立場であれば、それが自然な成り行きだろう。
男はまじまじと僕を見つめていたが、笑みを浮かべると口を小さく動かした。何か聞こえた気がする。僕は耳をすませた。
「こんにちは」
今度はよく通る声だった。ここで人の声を聞くとも、ましてや自分が声を発するとも思っていなかった。同じ言葉を返したはずが、舌がもごもごと動いただけで終わった。僕がぎこちなく会釈をしているうちに、男は軽やかな足取りでこちらに近づいてきた。体がこわばる。退去するよう穏やかに促し、こちらが聞かなければやはり通報する気なのだろうか。
「ここをご存知なんですね」
男が周囲に視線をめぐらせた。なんと答えるべきか分からない。ええ、まあ、と呟き程度の声をもらした。
「今日はどちらからいらっしゃったんですか?」
「第二都の方です」
「そうなんですね。遠くからようこそ」
男は笑みを浮かべた。不法侵入者に対して「ようこそ」など皮肉以外の何物でもないのに、男の笑顔には陰一つない。
どう接したらいいのか全く分からなかった。言葉を探しあぐね、ふと手に持ったカメラを思い出す。まさか没収まではされないだろうが、不快に思われている可能性は低くない。データを消せと言われるかもしれない。デイパックにしまおうとして、
「お撮りしましょうか」
遮られた。
「撮影スポットがありますから」
「ああ、いや」
僕はカメラを両手で握り込んだ。
「大丈夫です」
「そうですか。気が向いたら言ってください」
「――あの」
「はい」
「撮ってもいいんですか。というか、入っちゃってて大丈夫なんですか、自分」
「私は止める立場にはありません」
「管理されてる方とかじゃ――」
「いいえ、違います」
男が笑ったまま言った。エプロンには確かに、レストランか何かのロゴマークが描かれている。
レストランのスタッフがなぜここにいるのか謎は拭いきれないが、警察に突き出される可能性はだいぶ薄らいだ。拍子抜けしたような気分だった。僕はカメラを握り直し、ジェットコースターを撮りはじめた。フェンスに沿って歩き、何枚か撮り、そして小さく眉をひそめた。ファインダーから離した目をレールの向こう側にやる。背の高い草むらのおかげで姿こそ見えなかったが、明るい声が耳の奥で延々と再生された。そこにいることが調子を狂わせる。
しつこく追いかけてくることもないだろうし、声をかけずにそっと離れればいい。あまり忙しく立ち回るのは避けたいが、隠れられる物陰も多いのでまくことも難しくはないだろう。本心を言えば向こうにこそ立ち去ってほしかったが。
ジェットコースターに背を向け、足音を殺して観覧車の方に歩こうとする。
「あの」
よせばいいのにと思いつつ、気づけば振り返っていた。男がにこにこと小走りにやって来る。
「よければご案内しましょうか。動いているものはもうないのですが」
「あの、大丈夫です」
「園内を一周するだけでも」
「いや――」
口角を精一杯吊り上げて僕は言った。
「遠慮しときます」
「そうですか」
僕は小さなお辞儀を何度か繰り返してその場を後にした。男は笑ったままでついてはこなかった。
少しだけ吹いていた風もやみ、再び撮影を始めた。ミニカステラを売っていたスタンドを見て空腹に気がつき、持ってきていたエナジーバーをかじった。時折、来た方を見てみても、エプロン姿の人影はなかった。よしよし、と心の中で声がもれる。ゴーカートに観覧車、びっくりハウス。データベースに載っていた全てのアトラクション以外にも、顔面の割れたマスコットのオブジェや、ゲームコーナーらしきシャッターの閉まった建物を発見した。
メリーゴーラウンドをもうひとしきり撮り、引き返すことにした。薄い雲越しにも日が傾いているのが分かる。明日は朝から講義なので早めに戻りたかった。
わずかに涼しい風が頬をかすめる。ジェットコースターの頂上、ついで小ぢんまりした全容が現れ、僕は声をあげかけた。
男が倒れている。たった今転んだところという様子ではなかった。立ち上がるそぶりがない。動いているかすら分からない。嫌な予感がする。草を踏みつけ、アスファルトの凹凸に足をとられながら走っていた。
「どうしたんですか」
思ったよりも大きな声が出た。反応はない。自分の狂ったように乱れた呼吸だけが聞こえる。吐きそうなほどの動悸がする。数十メートルを全力疾走し、男の元に転がり込むようにたどり着いた。
「大丈夫ですか」
出血しているようには見えないが、ぴくりとも動かない。体勢を変えてもいいものか判断がつかない。起こすだけなら大丈夫かもしれない。肩をつかみ、おそるおそる体をひっくり返す。頭がぐらりと不安定に揺れた。目がぼんやりと開き、わずかに口が動いている。内心胸をなで下ろしてから、かすかな声に耳をそばだてる。明るさはそのままに、音量を限界まで落とされた声が何かを繰り返している。
「――風船をどうぞ」
口元から耳を離し、男の目を見る。眼球を模したレンズはもう機能していない。
「ムーンピアへようこそ。楽しい一日を。ムーンピアへようこそ。風船を――」
口を半開きにしたまま声が止まった。
僕は体温のない体を地面に下ろした。エプロンとポロシャツをめくり、脇腹の小さなコードを露わにする。リストウォッチ型の端末で読み取ると、識別番号の長い文字列が並び、最後に点滅する赤い文字がポップアップされた。
《機能を完全に停止しています。下記の管理団体へ連絡を――》
端末の画面を閉じ、足元に置いていたカメラを取った。ファインダーをのぞいてボタンを押す。シャッターを切るのに似せた音が数度、静寂に瞬いて消えた。
終
ムーンピアへようこそ 藤枝志野 @shino_fjed
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