冷蔵庫の中に眼鏡

くれは

「あなたの、眼鏡が欲しい」

 欲しいものほど手に入らない。いつもそう。わたしは幼い頃からずっと、その諦念めいた気持ちと共に生きてきた。

 本当に欲しいものを理解してもらえたこともない。親に買ってもらえた洋服やおもちゃだって、そう。友達の中でだって、もう諦めていたから、わたしは何も言わずに全てを譲ってきた。

 今、隣で寝ている男の心だって、そうだ。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光はもうすでに眩しくて、薄暗い部屋の輪郭を遠慮なく撫でてゆく。わたしは朝のまどろみにしがみつきながら、隣の男の寝顔を眺め、幼い頃に手に入らなかった綺麗な淡い色のワンピースのことを思い出していた。母親はわたしが指差したそのワンピースを「こういう色はね」とだけ呟いて、手に取ることもしなかったのだ。あるいは、あれはいつだっただろう、友達と行った夏祭りでみんなに合わせて、べちゃっとしたかき氷なんかを食べて笑っていた。そのかき氷のベタつく甘さを思い出していた。あのとき本当に食べたかったものはなんだっただろうか。

 静かな寝顔だ。いくぶんか若く見えるのは、普段かけている眼鏡がないせいか、それとも寝乱れた髪が顔にほつれかかっているせいか。

 高校のときに、友人に「好きな人がいる」と言われて、それがわたしの好きな人だったとき、わたしはどんな顔をしただろうか。友人の恋を応援する振りをして、そして二人の交際を見つめて、やはりわたしは何も手に入れることはできないんだろうなと思った。それで、今はもう二人の名前も、顔も忘れてしまった。

 あんなに欲しいと思っても、忘れてしまえる。諦めてしまえる。そうやっていると、自分の欲しいものがわからなくなってくる。そんなつもりになっているだけで、本当は、それほど欲しくないのかもしれない。

 布団にくるまったまま、目の前の男の寝顔を眺めていたら、やがて睫毛が震えた。そして、うっすらと瞼が持ち上がる。焦点の定まらない目が、ぼんやりとわたしを通り越してどこかを見ている。

 誰を見ているの。そう聞いたことはない。この男は、その心の内をわたしに開いて見せはしない。その心を欲しいと思いながらも、こうやって踏み込むのを躊躇うのも、やっぱりわたしはそこまで強く欲していないということなのかもしれない。

 はっきりと目を覚ましたらしい。彼の目が、わたしの顔に焦点を結ぶ。そして、静かに微笑んだ。

「おはよう」

 彼の挨拶に、わたしも微笑みを返す。


 彼との関係のきっかけがなんだったのかなんて、さして意味のない話だと思っている。わたしはいつものように空っぽで、満たされない気持ちばかりがあって、いつもの通りだった。

 その時の彼も空っぽだったけど、はじめから何もかもが空っぽなわたしとは違っていて、彼の中には何かが詰まっていた気配があった。彼はちょうどそれを失って、空っぽになってしまったところだったのだろう。その時に偶々、空っぽのわたしが隣にいたというだけのことだ。

 彼の視線に、優しい声音に、熱い体温に、その全てに身を委ねながらも、彼の空洞の中に漂う何かの残滓を感じ取って、この人の心はきっとわたしのものにはならないのだろうな、と思った。

「愛してる」

 彼の言葉は、二人の空っぽの躰の中に響くばかりで、決してその中を埋めることはなかった。はじめてのその時から、今に至るまで、ずっと。そうして季節がいくつ巡っただろうか。きっと、お互いが空っぽだから、ちょうど良かったのだ。

 彼はようやくのこと起き上がって、ベッドサイドから眼鏡を取り上げた。細い銀縁の眼鏡を掛けた彼に、わたしはマグカップを渡す。珈琲の湯気で眼鏡を少し曇らせて、彼はそれに口を付けた。そして、あからさまに顔を顰めた。

 彼は珈琲が好きだけど、インスタントは好きじゃない。でも、わたしの部屋にはインスタントのものしかない。わたしは味にもこだわりがないものだからまともに選ぶなんてこともしないし、そしてそれはいつも彼のお気に召す珈琲ではないらしい。それでも彼は、わたしに珈琲豆を用意せよとは言うことはない。珈琲を淹れる道具を揃えろとも、口にしない。

 彼がわたしに望むものは少ない。それは、わたしを自由にしてくれる、彼の優しさなのかもしれない。あるいは、わたしには何も期待していないということなのかもしれない。でも何より、彼は恐れているようだった。

 彼が彼の好みを口にすることで、わたしがそれに合わせて変わってゆくことで、わたしはきっと何かに似てしまう。だから彼は、何も言わない。わたしはそれに気付いて、だから気付かない振りをする。

 ベッドの端に腰を降ろして、自分の珈琲に口を付ける。珈琲のかおりは、カーテンの隙間から差し込む光と混ざり合って、淫靡さの残る夜の空気を押し流す。ふぅっと息を吐いて珈琲の水面を揺らせば、肌の表面に燻っていた熱も冷めてゆくようだった。

 彼の指先がわたしのうなじを擽る。顔を寄せてきた彼がわたしの耳元に唇で触れる。首をすくめてそれを受け止める。まるで恋人のようなじゃれあいに、彼は少し笑った。

 彼は片手にマグカップを持ったまま、ベッドから降りて台所に立つ。冷蔵庫を開ける。そして、空っぽの冷蔵庫を見つめた。

 わたしは自分の食べたいものを見付けるのも苦手だ。何を食べても、もっと違うものが食べたかったような気がしてしまう。それでも、何か食べなくては、栄養のあるもの、バランスの良い食事、美味しいもの、そんなことを考えて頑張っていたこともあったけど、それにも疲れてしまった。今はもうなんでも構わないと思うようになって、最近はいつも冷蔵庫は空っぽだ。

 何を食べても、わたしの中は空っぽのまま、何も埋まらない。この部屋の空っぽの冷蔵庫は、きっとわたしそのものだ。そう思うと、不要だと思うのに冷蔵庫を処分する決断もできなかった。

 だから、彼が今見つめているものは、わたしの中の空洞だ。何にも満たされない。ただの虚ろ。

 彼はその見慣れた光景に、いつものように溜息をついて、冷蔵庫のドアを閉めた。わたしの空虚が隠される。彼はいつもわたしの中のその虚ろを覗き込んで、けれど決してその中身を埋めようとはしない。彼の中の虚ろを開いて見せるようなこともしない。


 何を食べることもなく、彼はまたベッドに戻ってくる。わたしの体を抱き寄せて沈み込む。眼鏡を外して、サイドボードに置く。熱い肌も、吐息も、わたしの肌を撫でて、中に入り込んで、でも決して満たすことはなく、そのまま通り過ぎてゆく。

「愛してる」

 苦しそうに言う彼の目は、わたしを通り過ぎてどこかを見ている。その先にいるのが誰なのか、わたしは知らない。

 空っぽの躰が響き合う。優しい指先も、甘い口付けも、いつもと変わらない。けれど熱い掌が頬に触れて、見上げれば、彼は泣きそうな顔をしていた。それでわたしは、この関係がもう終わってしまうのだと知った。彼はきっと、変わらないことに耐えられなくなったのだ。

 それでも彼は言う。

「愛してる」

 その言葉が本当なら、あなたの空っぽの心をわたしに見せて。あなたの心をわたしに頂戴。わたしも空っぽだから、あなたの心を埋めることはできないけれど、でも開いて見せてくれたらきっと、大切にするから。


 カーテンの隙間から差し込む光は随分と鋭くなってはいたけれど、部屋はまた輪郭を失ってしまった。そのぼんやりとした光景の中で、彼は体を起こして、まだ起き上がれずにいるわたしを見下ろした。

「何か、欲しいものはある?」

 彼の指先が、わたしの耳と、顎と、首筋を辿る。

「あなたの」

 言葉を止めて、わたしは彼を見上げる。その沈黙に、彼は不安そうに視線を揺らした。心が欲しいとは言えなかった。

 眼鏡を掛けていないせいで、少し若く見える彼の顔。きっとこれが最後なのだと思って、わたしは両手で彼の頬に触れる。

「あなたの、眼鏡が欲しい」

 わたしの言葉に彼は変な顔をしていたけれど、部屋を出るときに、まるで忘れ物のように眼鏡を置き去りにしていった。わたしはしばらくの間、その細い銀縁の眼鏡を眺めて、それから空っぽの冷蔵庫に入れた。


 本当に欲しかったのは、彼の心。でも、それは手に入らない。わたしのその気持ちもきっとすぐに変わってしまう。

 だからせめて、ずっと変わらないものが欲しかった。

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