りら、俺を源氏名で呼ぶな!

夏山茂樹

死んだ彼はこうして生きている

「ほええ、千本桜やあ……」


 りらが小さく口を開きっぱなしにして、その桃色の風に揺れて、木々から欠片かけらが散っていく光景をただ眺めている。りらは心臓が止まったばかりの死体のように、肢体のひとつひとつが硬くなったままだ。


 風が運んでくる春の暖かい空気も、海のように青い空も、千本桜と並行に走る電車のガタンゴトンという音も全て感じられないかのように。拓馬の声がりらの名前を呼ぶ。それでもりらは瞬きひとつしないで、恋人と迎えた初めての千本桜に見入っていた。


「りら! お前なあ、桜に夢中になりすぎだぜ。ちょっと興味を持つものが目に入ると、お前は何も聞こえなくなるんだから。全く……。彼氏が呼んでるのによお、りら!」


 りらが「うっ」と小さな声を出して驚くさまを愛しそうに見つめる拓馬たくまの両目には、りらの細い指が驚嘆のあまりかすかに引きつる動作が映っていた。精緻せいちなつくりをした人形のように細くて白い指から、水色のワンピースに隠れた腕や付け根と繋がっている肩、肩元で踊っているうねった赤髪混じりの少し暗い茶髪まで。拓馬が思う『理想の少女』が彼の押す車椅子には座っていた。


「なんや! 火事でもあったがや?」


「火事じゃねえよ。この町で過ごす初めての春はどうや?」


 拓馬はりらの顔を見ようと車椅子にいる恋人に近づく。道行く辺りの人々の視線が彼らに浴びせられる。それでも拓馬は気にせず、ただりらの髪が桜と共に揺れて、花びらがその頭に付いたのを取ってみせた。


「ワイは、ウチは……。馴染んでいたか? この町の風景に」


「馴染むも何も、お前といる今一時が好きだよ。俺は映画の主人公で、お前はヒロインだな。しかも危険な恋ってやつをしてるから尚更な」


「危険な恋ってそんな……」


 りらの目線が宙を浮いたり、右往左往したりしながら拓馬の視線を避けている。雪のように白いその頬が赤く染まった。りらの皮膚の下では赤い血が心臓により体中を循環しているのだ。


「お前はこの世で一番素敵な恋人だ」


「そ、そんなこと言ったら恥ずかしいやん。やめい……」


 りらの避けがちな目線を追っていく遊びはとても楽しい。りらは言われて嬉しいことを言われると、目線を避けがちになって顔をうつむく。だがそれは親しい人間に対してのみだ。


 そんなりらを拓馬は愛している。時々りらの家を訪れて、りらと料理を作り、食事をして一緒に入浴して真夜中、二階で眠るりらの家族にバレないように声を立てずに戯れる。その中で、りらの肉棒を口に含んで敏感なところを舐め責めると、りらは声を漏らしてしまう。そうしてりらが喘ぐ声を聞くのが拓馬は好きだ。


 そもそも、りらが拓馬の元に訪れたきっかけは総括するとあの日のことだった。


 あれは拓馬が専門学校に入ったばかりの頃だった。有名な先生がいるとかそんな理由で、秋田にある実家から仙台に移り住んで独り暮らしを始めた彼は、休みになると男の友人からよく同世代の女子学生たちとの合コンや、学校の同期にあたる女子からデートに誘われていた。


 だが、彼の好みは同世代の学生たちとは全く異なっていた。デートを断った相手の女子が、寂しそうな表情で「あっ、そう」とつぶやくのも放っておいて、彼はバイト先に来る青い目をした、高い鼻で、顔に刻まれた細かいしわが美しさを引き立たせるタイプの。一言で言えばエキゾチックな中年女性をずっと見ているような人間だった。


 だがいくら視線を向けても彼女は自分を見てくれない。いつも彼女の隣にいるのは、高そうな時計を身につけた自分より背の低い男だった。


「魅力ならあの男(女の連れである男)より自分の方があるのによお、あの人は俺を見てくれない。なんでだ?」


 ある日、彼女が拓馬のバイト先を訪れ、奥の個室で例の男とウェイターが来る間に彼が何気なく店長につぶやいた一言がきっかけだった。


「あのなあ、お前は知らねえのか?」


 眉を潜めて彼を睨みつける店長は、女の正体をあっさり言ってしまった。


「アレはミヤギ放送の局アナ。右京うきょうマリアっつう……、むかし東京でもニュースになったのを覚えてるよ。娘と旦那がいるのに株主と不倫して妊娠して、離婚して株主とくっついたんだ。その時にみごもった子が今はもうこの街のサッカーユース」


「かなり波乱なアナウンサーですね。ははは……」


「お前はあん時は小さかったろうし、もう昔のことだからな。正直言って来て欲しくないんだけどよお、羽振はぶりがいいから丁重ていちょうに扱ってるんだわ。手を出そうとか考えんなよ」


 釘を刺されて拓馬は思わず小さくうなずいた。すると途端、拓馬の源氏名を呼ぶ声がした。


龍弥りゅうやくん、ご指名入ったよ!」


「はあい、いまいきまあす!」


 そのまま店長との会話を取りやめにして、指名された部屋へ向かう。仙台でも珍しいゲイ風俗の店によく来る女性だから当然目立つ。だがあの男女を担当したバイト仲間によると、彼女はただ連れの男が掘られ掘られるのをニヤニヤして見続けるのだという。

 変わった相手への接客の面倒さと、好みの女性と同じ部屋に入れることへの嬉しさで拓馬は内心複雑な気持ちをしていた。


 部屋に入ると、レースの付いた黒い下着のみを身につけた右京マリアが正座して、横の椅子でニヤける男の視線を浴びながら待っていた。彼女はニコリと微笑んで、その青い瞳は確かに拓馬だけを映していた。


「こんばんは。右京様、俺をご指名してくださってありがとうございます」


 赤い間接照明の部屋に入ってすぐ、龍弥こと三船拓馬は正座して居住いずまいを正すような仕草をしてから、手をついてお辞儀した。


「いえいえこちらこそ。ところで貴方、私たちがこの店に来るたびに見てたでしょ、私だけを」


 いつも癖としていたことが身から出たさびとして出た事実に恥ずかしさを覚える反面、いつもは裸になって待っている側であるはずの男がスーツを着たままジイっと彼とマリアを見つめてニヤニヤ笑っているのを見てどこか君悪さを感じた。


 ゲイ風俗という性質上、売り子には色々な理由や属性の理由でそちらの仕事を選ぶ人間が基本多かった。拓馬ははっきり言ってしまえば女の子の方が好みであったが、男子校にいた頃は彼氏がいた。

 いつも「彼女ほしいわあ」とお互いに嘆き合い、笑い合う仲だったがある日ネットで有名なビデオを見ながら『イケるか』という遊びをしていたら向こうから本気になって、つい至ってしまった。それから友人と恋人の境界線が曖昧になって、いつの間にか校内で有名なゲイカップルとなっていた。


 高校を卒業してから自然消滅してしまったが、仙台に移ってからも拓馬は東京の大学に行った彼氏がここに客として来ないか、などと夢想して接客をしていた。だがいつの間にかその対象はマリアへと移っていた。

 それによってここで相手をするのはマリアだ。初めての女性がいつも見ていた、遠い存在だったことに興奮して拓馬は一瞬熱で少しうなった。


「龍弥くん。オレは右京義彦うきょうよしひこ。マリアの夫だよ。君はいつも私の妻を見ていたね? ならいっそのこと妻を犯してくれないかね? オレは妻が龍弥くんみたいな女々しそうな男に犯されるのを見るのが好きなんだよ。いっぱい弄んで、オレをイかせてくれよ」


 マリアも満更でもない表情をして、拓馬の履いているボクサーパンツに手をかけて一気に剥がす。それからたっぷり百二十分。彼は二時間憧れの人と楽しみ、金持ちの人妻を寝取り、エキゾチックな雰囲気の局アナで童貞を卒業した。


 色々な背徳感や男としての名誉に箔がついたことへの自己肯定感で憤った男を、四十は過ぎているであろう女の機能はむかし感じた元彼氏のように男を吸い取った。ダイソン製の掃除機みたいだ、だとか死にそう、などと思いながら彼はわずかに残った体力でピロートークを始めた。もちろん、女の夫の前で。


 眠気を感じていた拓馬の肩をマリアが叩く。必死の力で起き上がった彼は、露わになった彼女の胸が思いのほか大きく、垂れていたのに年の差を感じた。


 すると彼女はスマホの電源をつけて、壁紙になっている少年がサッカーボールを今まさに蹴ろうとする写真を見た。


「……コレ、私の息子」


 男特有の表情をしているからそれが少年だと分かるが、息子はサッカーユニフォームを着ていても、どこか異国情緒を感じさせる女性のようだ。一歩間違えたら女に間違われるのでは、とも思っていた。


「サッカーユースなんですか?」


 するとマリアはスマホを拓馬に手渡し、ベッドの下に落ちていた下着を拾って着替え始めた。


「ええ。アトリって名前なの。花に鳥って書いて花鳥あとり。書くのは簡単だけど、読みにくいって文句言うのよ。でもテレビでは後輩が『可愛い名前をした美少年だ』って。背は低いけど、小回りが効いて動きやすいんですって」


「サッカーユースかあ。そういえば俺、作業療法士さぎょうりょうほうしになる勉強をしてるんですよ」


「あら。じゃあ、花鳥がプロになって、チームに入って怪我をした時は担当してもらおうかな」


「何年後の話ですか。冗談やめてくださいよ、サッカー選手にとって怪我は命懸けの傷なんですから」


浪速なにわジョークよ。私、大阪出身だから」


「ははは……」


 そんな夏の夜を迎えて二年半が経って拓馬は専門学校を卒業し、県南の総合病院に作業療法士として就職した。


 仕事で相手をするのは基本高齢者ばかりで、同年代の患者がいない。つまらなさを感じて、自宅と仕事場を行き来する日々が続いた。季節はあっという間に過ぎるもので、彼も就職して二年目となっていた。それさえ終わって三年目の冬に入ろうかという頃、彼の元に年下の患者がやってきた。


 患者は肩まで明るい色の髪を伸ばして、黒い椿柄つばきがらの着物姿で車椅子に座っていた。虚ろな目をした彼は、強面の大男に車椅子を押されて拓馬の前に姿を見せたのだった。


「近くの不動産屋で働いてます、広海ひろうみいいます。この子は甥っ子のアトリなんですが、母親に酷いこと言われて、私はこの子の世話を任されました。どうぞよろしく」


 広海は外見とは裏腹に随分と人馴れしているらしく、東北の地で標準語の混じった関西弁を使うことでグイグイ距離を詰めようとしている。一方で当のアトリは黙ったまま、何も言わない。


「アトリくん、初めまして。僕は三船拓馬みふねたくまっていいます。どうぞよろしく」


「……よろしく、龍弥りゅうやさん」


 過去の源氏名を突然言われて、拓馬は頭が真っ白になった。どうしてこの子は知っているのだろう、自分が昔働いていた時に使っていたかりそめの名前を。

 そうして彼があたふたしていると、広海が事情を説明し始めた。


「右京マリアって知ってます? 私はその弟なんですわ」


 そう言われて思い浮かんだのは、行為の後で下着をつけながら微笑んだ彼女の細められた目だった。ああ、マリアはそういう人間なのか。数年越しの絶望感をよそに、広海は車椅子の和装少女について説明を始める。


「今年の夏始めあたりですかねえ、繁華街の横断歩道が赤信号の時に突き飛ばされて、そこを通った車の下敷きになったんですわ。脊髄損傷せきずいそんしょうと診断されましてね、腰椎ようついのL3ってところをやっちゃったみたいで。……この子、元はサッカーのユースで今年選抜されたばっかだったんですが、利き足も開放骨折かいほうこっせつで辞めざるを得なくなってしまって。姉に突き放されたんですわ。『唯一の取り柄だったユースを辞めた今のお前は、わずらわしいだけの障害者だ』って……。それでなんですがお願いがあります。この子に自信を取り戻させてあげてください」


 サッカーのユース選抜で選ばれたのを辞めざるを得なくなった挙句、半ば伯父おじに自身の世話を押し付けられて捨てられた子。数年前に息子の写真を嬉しそうに見せて売り子に自慢した母親は、その子が人の世話を必要とする存在となった途端に捨てた。


 むかし憧れた女は、捨てた子を孕った時に自身の娘を捨てたように、当時彼女の子宮で成長していた胎児さえも捨てたのだ。


 かつての聖女は堕ちた。いや、彼女は堕ちていくことで世渡りをして生きて来たのだ。その事実を理解して、拓馬はそれが自分だったらと思うと怖気おじけがした。


 それでもこの世界で必死に這いつくばって生きている捨て子は、確かに母の面影を強く残している。


どう彼に接すればいいかわからない拓馬は、とりあえず女装している理由を聞いてみることにする。


「アトリくん、女装姿が可愛いね……。どうして女装してるんだい?」


「……それが患者に聞くことか? お前やあ、さすが元風俗なだけあるわ。強いなあ」


 目線を合わせた患者は、自信を担当する作業療法士の過去さええぐる。あの母にしてこの子あり。そう言いたくなったのを抑え、拓馬は応答してしまう。


「今の日本には職業選択の自由があるんだよ。だから過去を抉らないでよ。他人の権利を侵害していいほどの自由なんて、権力で保障されてないんだからさ」


 すると広海が仲裁するように、アトリのフォローをする。彼の顔には脂汗が滲んでいた。


「コイツは高校から『辞めてくれ』って言われて、そのまま辞めたんですわ。だから学んでない教科の方が多いし、成績もあまり良くなかったから……」


「要はアトリくんには取り柄が必要ということですよね?」


「はあ……。実は、それで姉の旦那がアトリにノートパソコンを買い与えたんです。これから将来、食い扶持に困らないようにweb制作とかプログラミングを学ばせるっちゅうて。でも片麻痺かたまひなんですわ。左半身が不自由で、学習もままならないんです」


「おっさんもうええ。龍弥と話すんはワイや」


 それから啖呵たんかを切るように、アトリは拓馬に言った。


「これからワイは右京りらや。アトリなんて名前、他下すからよう覚えとき。もうアトリは死んだんや。ええか? アトリって呼んだら病院に風俗で働いてたこと、バラすからな」


「なら拓馬って呼んでくれよ。りら」


「りらって呼んだな? じゃあ、ワシもお前を拓馬って本名で呼んでやるわ」


 それから週三回のペースでりらは女装して、伯父に連れられて病院に来たが様々な不自由に文句を言い、拓馬とのコミュニケーションもままならなかった。ある時は自身の下半身を拓馬に右手で掴ませてほくそ笑み、ある時は仙台郊外にあたる病院の立地に文句を言った。


「ここは苦しいな。何が原田甲斐はらだかいや。何が千本桜や。人間が作ったもので人間が喜んどる。壊すのも人間なのにやあ……」


 作るのも人間。壊すのも人間。そうか、この子は人間が定めた規則に反した男女のミスで誕生し、それがきっかけで一つの家庭が壊れた。否。壊された。

 サッカーで築き上げた地位も、人間によって作られた危険地帯に誰かが突き飛ばして、人間の作った危険物の下敷きになったことで失った。母の愛も、学校も、今までの健常者としての生活も壊されたのだ。


 アトリは健常者だった。りらは障害者だ。彼はそう区別して生きているのだろう。


「りら、いいか聞け。原田甲斐は名誉も命も一族ごと徳川や伊達っちゅう人間に壊されたけどな、再評価して町の象徴にしたのも山本周五郎やまもとしゅうごろうっちゅう小説家で、NHKの大河ドラマで、当時のこの町の人間たちなんだぜ」


「原田甲斐が壊された? なんでや?」


「それを調べるためにスマホがあって、パソコンがある。知は力なりというだろ?」


「『』?」


「違う。『知る』ってことだよ。パソコンがあるから、とりあえず今日はキーボードを左手でも使えるように、腕を上げるリハビリをしようか」


「……うん」


 りらが珍しく首を縦に振った。


「首を動かすのもリハビリになるんだよ。今日のりらは凄いなあ!」


 するとりらは眉を潜め、恥ずかしそうに拓馬から視線をそらしつつも、いつも陶器のように白い滑らかな肌は赤く染まっている。こう見えて、実は素直で脆いところがあるのだ。


「可愛いなあ」


 拓馬が調子に乗ってつい本音を吐いてしまう。女装をし、名前がどこか女性じみているとはいえ、心は男性だからそう言うのはまずいのではないか。だが今更気付いたところでどうなるかも分からない。りらが病院にクレームを入れて、クビになる覚悟もした。


「もっと褒めてや。……ウチ、褒められ慣れてないねん。だからそう言われると顔を背けるし、恥ずかしくなるんや」


「んー、どうしようかなあ……?」


 拓馬がりらから本音を吐き出させようとして、言葉を溜めて色々リハビリに積極的にさせようとする。


「褒めてもらえるんならもっとリハビリ頑張るからやあ……、パソコンも、高卒認定資格も、諦めてたもん全部やったる……」


 とうとうりらは泣き出してしまった。彼が泣いていることに気づいた琢磨の同僚がりらに寄って来て、野次馬ができていく。


「どうしたの、三船さん?」


「ちゃいます。……嬉しくて泣いてんです……」


「……そう」


 それからというもの、りらはリハビリを積極的に行うようになった。最初は右手でキーボードを動かすだけだったが、やがて指が少しずつ動くようになり、ゆっくりだが両手でキーボードを打てるようになった。


 ただ拓馬が不思議に思っていたのは、リハビリを終えた後に比べて、次回りらが来ると彼は前回のリハビリ時よりも機敏な動きができるようになっていたことだった。


 例えばりらは左腕を自分で上げることができないので拓馬に重たいそれを上げてもらって、ゆっくりとキーボードを打つ。その動きのゆっくりなこと。健常者として働く人間に比べたらキーボードを打つ速さはかなり遅い。もしりらが会社に勤めるようになったら、仕事が間に合わないだろう。


 一方で右手で打つ速度は速い。大きくカタカタと音を立てて文字を打つその速さは、計測したら一分に百字程度を打つのだ。健常者でも両手で一分で百文字打つのは大変なことなのに、彼はよりによって片手でそれをやってのけた。


「右手でキーボードを打つのが速いなあ。りらは。何かやったんか?」


 すると彼は青白いその肌を拓馬に見せて微笑んだ。りらはフラフラしていて、あまり休息をとっていないように感じられた。


「家でプログラミングの勉強をするうちに、速度が上がっていったんかもしれねえなあ。今はまだHTMLとCSSしかできないけど、そのうちJavaScriptも打つようになるんや……」


「お前なあ、顔が青白いぞ。家ではちゃんと食べてるか? 夜は眠れているのか? 俺さあ、色々心配になってくるよ」


「高卒認定の勉強も夜にやってっからやあ、いつも頭がぼーっとして眠いんよ……」


 その瞬間、りらはあくびをして右手で両目からこぼれた涙を拭った。拓馬の心配する気持ちがますます強くなって、彼は聞いた。


「どうしてそんなに頑張るんだよ? 高卒認定なんて十八歳でもできるじゃねえか。お前はまだ十六を迎えたばかりだろ?」


「ああ。昨日十六の誕生日を迎えたわ。おっさんも『徹夜すんな』って言うけどなあ、ウチの中では満足してないねん」


「何にだよ」 


「今の生活全てにおいてや。ウチは学校を辞めて、お前と会うまではずっと家にこもって横になる生活ばっかだったんや。もう全部がどうでもよかった。右京花鳥は死んだんやって。でもお前がりらを受け入れたから、答えたいんよ……。だから……」


 そう言い切ってりらはバタンと椅子から倒れた。その音を聞いて、初めてりらが泣いた時のように人々が集まり、拓馬が病院の同僚である医師に声をかける。


「患者が倒れました。至急治療願います」


 すると医師は看護師たちに担架を持ってくるように命令し、それから一分もしないうちに担架が運ばれてきた。


「いっせーのっせ」という言葉でりらの体は担架に乗せられ、そのまま病室に運ばれていった。その光景を見ながら拓馬は、りらがあの後どうなるのかと心配していた。


「りら……」


 するとその時、「三船くん」と看護師長が拓馬を呼んだ。拓馬はその声に気づいて、「はい」と応答した。


「ちょっと高橋さんが三船くんに用があるって。右京さんの病室まで行ってきてちょうだい」


「はっ、はい」


 指定された病室は203号室。二階へ向かうエレベータに乗り、病室に向かう最中、拓馬はりらのことが心配でならなかった。


 色々焦りながら勉強し、深夜まで毎日起きて努力しているのりらの姿を想像すると、いつの間にか拓馬の目には涙が浮かんでいた。伯父や妹といった人たちの助けもないまま、勉強机に右手だけでノートや参考書にペンで何かを書き、支えもないまま、あるいは文鎮などを置いて色々工夫しながら勉強しているのだと思うと、辛くてならなかった。


 十六歳で高卒認定資格を取る必要はないだろう。りらはまだ十六歳になったばかりだというのに。プログラミングの勉強だって同様だ。花鳥だった頃の彼は成績が良くなかったという。数学もあまりできないだろう。プログラミングには数学が必要だ。いや、数学は哲学だ。高校時代、そう言ったというビートたけしの言葉を知ってから拓馬はずっとそうだと思い続けてきた。


 その哲学を理解しようとする、元々は出来の良くなかった彼のことを思うと、同情やら、無理をしてでも理解しようと努力するりらの健気さに愛情が湧いた。


「可愛いやつだな……」


 そう言いながら拓馬は203号室へと向かい、その扉を開いた。すると高橋医師が安心した様子でりらの顔を眺めている。だがすぐに拓馬がそばにいることに気づいて、彼は気を取り直すような感じで拓馬を呼んだ。


「三船くん、リハビリで無理させなかったかい? 睡眠不足でかなり疲れているようだ、右京さんは」


「無理も何も、普通にリハビリを一緒にしていましたが……。ただ、自宅で深夜まで毎日勉強していたようです」


「それを聞いて咎めなかったのかい?」


「いや、それを知ったのが今日で、倒れる寸前だったので……」


 はあ。高橋医師がため息をついて、拓馬に一言言った。まるで拓馬の仕事に対する姿勢に呆れている、といった空気をかもし出しながら。


「三船くん、患者の変化に気を使うのも我々、医療関係者の仕事だよ。その変化に気づかないで休ませないとは、とんだことをしたものだね」


「すみません……」


「これからはきちんと変化にも気を使うように。あと、今日は広海さんに連絡して迎えにきてもらうことになったから。リハビリは今日は中止する」


「わかりました」


 その拓馬の返答を聞いて、高橋医師は病室を出て行った。ひとり残された拓馬は眠るりらの顔をずっと見つめ続けている。

 しかしよく見ると、眠るりらはその白い肌や腕、指先に至るまでまるで誰か綺麗な人間の生き写し人形のように精巧せいこうな四肢を持っている。こんなに人形のような存在が近くにいたのか。その事実に驚嘆しながら、拓馬はりらの頬を指でなぞってみせる。


 思春期真っ盛りだというのに青髭あおひげも生えていないし、出来物ひとつない。誰がこんな卵のような肌を整えているのだろう。そんな気さえしながら、拓馬はりらを愛おしそうに見つめていた。


 するとりらが目をゆっくり開けて、拓馬のいる方向に顔を傾けた。


「……たくま?」


 肌を撫でていたことに気づいて怒られるだろうか。そんなことさえ気にしながら、拓馬はぎょっとして何も答えられないままだ。


「なあ、拓馬。迷惑かけてごめんな……。こんなことになるなんてやあ……。知らんかったんや。ウチ、無理してたんかな」


「無理しすぎだよ。試験勉強してた時の俺より無理してる。頼むから自分を気遣ってくれよ……」


「ごめんなさい……」


 またりらが泣き出す。そのまま彼は起き上がって、拓馬を抱きしめてくる。そのいきなり行われた行動に、拓馬はただ困惑するばかりで何も話せない。


「ウチやあ、母さんに少しでも認めてもらいたかったんや……。サッカーしてた時みたいに、試合の後で褒めてもらえるような、そんな生活に戻りたかったんや。今でも戻りたいんよ……」


 なんだ。ただ不器用でもろくて、健気な人間じゃないか。そんなことに納得して、拓馬はりらを抱きしめ返した。


 するとその刹那、りらが拓馬の頬にキスをしてきた。彼の考えていることが分からなくて、琢磨はますます困惑している。だがその困惑のせいか。拓馬もりらの唇にキスを返した。


「ウチ、こんなん初めてや……」


「俺も。お前みたいな奴は初めてだよ」


「これって好きってことなんかな、お前のことを」


「知らんがな。でも俺は知ってるさ、お前といる時が一番楽しいってさ」


「そうなんか……」


 そのままギュッと強く抱きしめて、拓馬はりらの鼓動こどうを感じる。鼓動が強く高鳴って、お互いおかしくなっている気がしていた。


「これからはほどほどにな」


「……わかった」


 りらは窓から入る夕陽のオレンジが濃くなる中、もう無理はしないと拓馬に約束したのだった。


 それから春が近づくにつれて、りらは原田甲斐が壊された理由も、名誉を取り戻した経緯も、少しずつ理解できるようになっていった。その姿を見て、拓馬も思わず両目に涙を浮かべて褒める心にも姿勢にも、りらへの愛情がますます強くなる。


 そんな冬の終わり、りらはキーボードでいつものようにゆっくりwordに言葉を連ねていく。それを見て、拓馬は一度りらに言った。


「立場的にできないよ、ごめんな……でも」


 拓馬はゆっくり、右手でキーボードを打った。


『俺も好き』


『夢は、おまえと肩を並べて寝ることや』


 そうりらが言葉を重ねた夜、広海の許可をもらってとうとう自宅を訪れた。ゆっくりと、右手で杖をついて出迎えてくれたりらの成長した姿を見て、拓馬は「お前、小さいな」とつぶやいた。


「だからりらなんや。スウェーデン語で『小さい』って意味や。おっさんに教えてもろたんや」


 拓馬が抱きしめたりらの体は細くて、少し力を入れるだけで背骨ごと折れてしまいそうだった。それでもつややかな頬や、目線を下にずらすほど青くなっていく虹彩、血のように赤い唇。全てがあのマリアに似ているようで、少しずつ違っている。

 同じ右京でも、マリアはマリアで、りらはりらだった。むかし憧れた女性の面影を息子に重ねることもない。ひとりの独立した人間として右京りらは拓馬の目に映っていた。


 その晩、二階で広海とりらの妹が寝る中、聞こえないように唇を重ね合う。壊れないようにりらを抱きしめ、拓馬はりらの唇を探す。


「くすぐったい……。や、んっ……」


 かすかにりらの口が開いたのをいいことに、拓馬は舌を入れて口内をもてあそぶ。歯を磨いた後だからか、りらとのキスはミントの味がした。それを、さっきまで噛んでいたガムの味に変えていく。りらの唾液を吸い、鼻柱はなばしらまで舐め上げてやると、りらの声が小さく漏れる。それから彼はベッドの上にりらを押し倒した。


 りらはどこか不安げな顔をしつつ、酸素を求めて息をしている。その荒い息に重なるように、りらの唇から少しずつ舌で体のあちこちを舐めてやると、唾液と舌でりらの体が滑って気持ちいい。


 肉棒を入れられはしなかったものの、拓馬の舌が自身の穴に入るのを感じてビックリしたようで、行為の後にりらが眠たそうな声で聞いて来た。


「なんで、ベロを挿れたん?」


 だが拓馬は答えずに寝てしまった。その寝顔を見ながらりらは小さくつぶやいた。


「ウチらは、壊し合っていくんやな」


 拓馬は車椅子のりらを見つめながら、今更その言葉を思い出した。前には何にも反応しない恋人を不思議そうに見つめるりらがいる。


「壊し合っていくって、どういう意味だ?」


「なあ、ウチそんなこと言ったがや?」


「ほら、初めてお前の家に来た夜、眠る中で確かに聞いたわ。『ウチらは壊しあっていくんやな』ってお前が言うのを」


「んー、言ったっけ……?」


 りらは不思議そうな顔をしたまま、過去の糸を手繰たぐり寄せる。そしてハッとした顔をして笑い声を漏らした。


「ふふふ」 


「なんだよ、いきなり笑って」


「んー、察しろ」


「ケチだなあ」


「あはは、秘密だよ」


 千本桜が毎年桜の花を咲かせるように、ふたりは毎年千本桜の道を歩き、泣き合い泣かせ合ってりらはゆっくり取り柄を得ようと勉強をし、一つ一つそれを得ていく。


 いつかりらが壊れ切っても、あるいはりらに壊されても、今がいいならそれが一番の幸せなのだと拓馬は思って車椅子を押していくのだった。

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