春色の約束

月ノ瀬 静流(PC不調)

春色の約束

 いつものアイスクリーム屋さんの前で、私は康弘やすひろを待つ。

 休日のY駅東口の地下街。楽しそうなカップルやおめかしした親子連れ、休日出勤なのか浮かない顔のスーツ姿の男性……この辺きっての繁華街だけあって、めまぐるしく人が行き交う。

 私はピンクのアイスクリーム屋さんの壁に寄りかかるようにして、向かいの噴水を見ていた。小さく時折大きく水が出る仕掛けで、水底から明滅する七色のライトで照らされている。今は、ぴょこぴょこと可愛らしく水が出ていた。

 十時五分前。待ち合わせはいつも十時だけど、康弘は絶対に十時には来ない。彼が時間にいい加減なわけではなくて、単にダイヤの問題だ。彼が使う路線は十時の待ち合わせに丁度よい電車がないのだ。一本早くしようかと言ってくれたこともあるけれど、Y駅まで三十分くらいで着く私と違って康弘は一時間くらいかけてここまで来る。更に早くなんて無理は言いたくない。

 初めてのデートも待ち合わせはY駅だった。あのときは改札口で待ち合わせたものだから、なかなか逢えなかった。いくつもある改札口のうち、別のところに行ってしまったのかと不安になって電話したら、彼も同じ改札口にいると言っていて……。やっと逢えたとき、わずか五メートルの距離を携帯で話していた自分たちに可笑しくなって、どちらからともなく笑いあった。

 約束の映画を見て、昼食を摂った。そのあと何となくY駅の地下街をぶらついていたときに、たまたまこのアイスクリーム屋さんの前に来た。そして、たわいもない話をしていてた康弘がふと足を止めて、唐突に言ったのだ。

「なぁ、アイス食べようよ」

 昼食を摂ってそれほど経っていなかったから、私はあまりお腹が空いていなかった。何故、アイス? と思った。それが顔に出たのだろう。康弘は顔を赤くして、頭を掻きながら言った。

「俺、彼女とデートして、一緒にアイスを食べるのが夢だったんだ」

 二十歳過ぎた男が言う台詞か、と内心突っ込みを入れつつも、そんな彼を可愛いと思ってしまった。

 康弘は私を初めての彼女だと言った。私の方はと言えば、言い訳がましいけど中高一貫の女子校育ちで男の子とは縁がなかった。クラスメートにはどこで知り合ったのか学園祭に彼氏を連れてくるような子もいたけれど。だから結局、私たちは似た者同士だった。

 康弘と私は二人してチョコミントを注文した。もともとこのフレーバーが好きだったし、彼と同じものを食べたかったから。二人並んでアイスクリームを食べながら、今度からY駅で待ち合わせをするときはこのアイスクリーム屋さんの前にしようと約束した。

 こうして私たちはこのアイスクリーム屋さんの常連になった。初めは同じフレーバーを注文していた。それがいつの頃か、あえて別のものを注文して取替えっこをするようになった。


 雑踏に掻き消されながら、遠くから途切れ途切れに明るいメロディーが聞こえてくる。ちょっと先にあるデパートの仕掛け時計の人形たちが十時を知らせてくれる音楽だ。

 もうすぐ康弘が来る。

 康弘と私は、この春めでたく社会人になった。私の生活はがらりと変わった。

 新しい人間関係。まだ新人だらからと手加減してもらっているのを感じつつも、時折、先輩から与えられるプレッシャー。

 そして、なにより康弘と逢えない。

 社会人になって逢える時間がぐっと減った。今までがおかしかったといえばそうだ。康弘と私は同じ大学の同じ研究室に所属していて、自分の研究がきちんと進みさえすれば基本的にいつ学校に行っても良かったから、いつも時間を合わせて研究室に行っていた。一日のうち寝ている時間を除いたら彼が存在しない時間の方が短かったと言ってもいい。もちろん二人だけでいたわけではないし、真面目にそれぞれの研究に取り組んでいたから、甘い時間を過ごしていたわけでもない。でも常に隣を見れば康弘がいた。

 目の前の噴水が、ざざぁっと小さく、大きく交互に繰り返しながら水を噴き出す。私は見るともなく、それを目にしながら康弘のことを考える。

 このところ、いつも空虚だ。朝、昼、晩と食事と同じようにメールのやり取りもしている。夜には長電話もする。でも駄目だ。私はこんなに康弘に依存していたんだろうかと、自分自身、呆れている。

 ああ、まただ。発想が後ろ向きだ。

 私は首を振る。これからやっと康弘に逢えるのだ。もっと楽しいことを考えよう。今週はお互い初任給が出たから、豪勢に高層ビルの最上階のレストランに行ってみようか、などと言っていたのだ。だから今日は素敵な日になるに違いない。


 ……私はふと、腕時計を見た。遅いと感じたのだ。

 十時十五分過ぎ。私は感覚的に康弘の到着予定時刻が分かるらしい。明らかにいつもより遅い。

 以前、康弘が遅れたときは、平日は家族に頼んでいる愛犬タロの散歩が長引いたからだった。タロは柴犬の雑種なのだが、長毛種の血を引いているらしく毛が長い。だから春先はブラッシングが大変だと言っていた。写真を見せてもらったことがあるが、確かに柴犬には見えなかった。――また、タロの世話が長引いているのだろうか。

 私は携帯を取り出すと、無意識に指が動いて登録してある康弘の携帯番号を呼び出した。

 プルー、プルー……。

 何度コールしても康弘は出ない。マナーモードになっていて、気づかない?

 私は一度電話を切り、今度はゆっくりと確認しながらボタンを押す。

 プルー、プルー……。

 携帯をぱたりと閉じて、ため息をつく。

「ええ!? 人身事故?」

 噴水の淵に座りながら高校生くらいの女の子が携帯に向かって叫んでいた。待ち合わせの相手と話しているのだろう。噴水がざざっと大きく水を噴き上げた。水音がうるさかったのか、その女の子は話しながら行ってしまった。

 人身事故か。どの路線が事故に遭ったのかは分からないけれど、康弘が来ないのだから、きっと彼の乗った電車も影響を受けているのだろう。私は納得した。

 せっかくの休日なのに、康弘はまだ来ない。彼のせいではないけれど、逢える時間がどんどん減っている。噴水がざざっと大きく噴き上げては消え、また小さく噴き上げる。いつもなら和むはずのその動きが、せわしなくて鬱陶しい。そう思ってしまう今の私は、きっとものすごい仏頂面だ。

「……落ちた人を助けるために、線路に降りた人が……」

 突然、そんな言葉が私の耳を打った。これだけの人ごみの中、どうしてそんな声を拾ってしまったのだろう。私の頭をある可能性がよぎる。

 まさか……。

 いくらコールしても出ない康弘の携帯。

 噴水がひときわ大きく噴き上げる。ざざーっと大きな音を出しているはずが、何も聞こえない。大きく伸びた水の柱を七色のライトが照らし上げる。

 康弘が、来ないのは……?

 アイスクリーム屋さんの壁を、私の背中がずるずる滑っていく。


しおり!」

 私の名前を呼ぶ声に、はっとした。

「遅くなってごめん!」

 噴水の伸びきった水柱が、糸が切れたようにふっと消えた。

「………………」

「事故で電車が遅れて……。連絡しようと思ったら、家に携帯忘れていた。……って、なんでお前、泣いてんだよ!?」

 康弘は肩で息をしていた。ちょっと垂れ目のいつもの康弘だ。

「心配させないでよ! 線路に人が降りたとか聞いて……、電話しても康弘が出ないから、もしかしたらって思っちゃって……。本当に心配したんだからね! ……せっかくの休日なのに、やっと康弘に逢える日なのに。私、何でこんな思いしなくちゃならないのよ!」

 言ってすぐに後悔した。八つ当たりだ。今までの康弘不足による不満が、爆発してしまったのだ。案の定、康弘の顔がみるみるこわばる。

「待たせて悪かったと、慌てて来てみりゃ、何だよ、それ?」

「ごめ……」

「何、愚痴垂れてんだよ? 俺だっていつも栞と一緒にいたいさ。で、楽しみに来てみりゃ、この仕打ちかよ? 俺たち、もう学生じゃないんだぜ? 甘ったれんなよ」

 怖くて康弘を見ていることができなかった。私の靴に涙が落ちていく。

「栞は就職してからずっと変だった。二言目には逢いたい、逢いたいって言うし、そのくせ、一緒にいてもどこか浮かない顔ばっかりだ」

 それは、逢っているときはよくても、すぐにまた別れなければならないから。

「康弘、私のこと、嫌いになった……?」

 やっと声を絞り出した。

 永遠にも感じられる沈黙が続く。

 ふと、康弘が頭を掻く気配が感じられた。彼の癖だ。

 俯いた私の頭に、尖ったようなそれでいて優しげな康弘のため息がかかる。

「その台詞、『嫌いにならないでね』と同義語だって分かっているか?」

 康弘は私の頬を両手で包むと、無理やり私の顔を上げさせた。

「栞がストレス溜まっているのは知っていたよ。だから一度だけだ。お前の阿呆を許すのは」

 ふっと、康弘の周りの空気が変わる。

「俺たちが平日逢えないのは――俺とお前がずっと一緒にいるための第一歩だろ? 栞にそれだけ思われるのは悪い気はしない。けど、俺の相方はそれじゃあ困るんだよ」

「え……?」

「女って安心感が欲しいものなのか? けどさ、これを言うのはそれなりに勇気が要るんだ。言わなくても分かっていると思っていたんだけど……」

 そして、私の耳元でそっと囁く。

 人通りの多いこの雑踏の中で、私の耳は確かにその言葉を聞き取った。


 その日は結局、高層ビルの最上階のレストランへは行かなかった。

 代わりに電車に揺られること一時間。康弘の愛犬タロと散歩をした。


 そして、数カ月後――。

「あのときは、昨日の今日で、いきなり連れてくるとは思わなかったわよ」と、左手の薬指に綺麗なダイヤの指輪をはめた康弘のお姉さんに意味ありげに笑われたり、いつの間にか康弘の家に私専用の箸や茶碗が用意されていたり……。

 それはまた、のちの話。




※10年前の企画参加作品です。携帯電話が二つ折りです。

 転載するつもりはなかったのですが、「コレクション」機能ができたので、過去の企画参加作品をまとめるために投稿しました。


 何も言わないでください……。お題を消化するだけで精いっぱいだったのです……。

 今ならこれは書きません。


 なお、これには続編があります。

 あまりにも、心残りな作品だったので、続編で少しはマシにしようと……。

 バレンタインの作品なので、気が向けば、その時期にこっそり、投稿します。


→ 2022年2月1日 続編を投稿しました。


『雪色の約束』

 https://kakuyomu.jp/works/16816927860331712304

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