フィナーレ④

 会場はざわつき、史也と凛は顔を見合わせていた。

 今日のレースで何が起こっても覚悟は出来ているつもりでいたけれど、その事実をまだ受け入れられない自分達がここにいる。風斗がこんな風に話している事も現実ではないような気がする。


 その時、大会役員の一人が自転車を押しながら走ってきて、息を切らせながら言った。


「唯さんの、唯さんの自転車が置いてありました。ゴール100メートル手前のコーナー、そのコーナーの岩壁の所に落ちかかっていました。唯さんの姿は見当たりません」


 風斗が再びマイクを握って叫んだ。


「唯は成し遂げた。オレ達は成し遂げた。『team Faith』は夢を現実にした。Faithの力! ありがとう! オレ達、最っ高だぜ!」


 会場のどよめきは最高潮に達し、清らかな涙が咲き乱れていた。


 どこからか拍手が起こった。拍手の輪がどんどん広がってく。


「ゆ〜い、ゆ〜い」

 誰かがコールを始めた。史也の声だ。

「ゆ〜い! ゆ〜い!」

 ゆいコールがどんどんどんどん会場に広がっていく。2020東京パラリンピックの時と同じような光景が広がった。会場全体がうごめき、酔っているようだ。



 その時、どこからか一頭のアサギマダラがふわふわと翔んできて、風斗の手にふわっと舞い降りた。


 えっ?

 羽はボロボロで今にも息絶えそうだ。


 次の瞬間、風斗の目は見開かれ、そこにマーキングされた文字に釘付けになった。

『八ホ 7/24 Yui-1』


 まさか!

『長野県八千穂高原で7月24日にYuiという人が捕獲して、初めてアサギマダラを放った』という意味だ。


 風斗は今年七月の出来事を思い出していた。


 唯とニ人で長野でおこなった一週間の厳しい合宿。

 その頃には唯の身体はかなり強くなってきていて、トレーニングを沢山出来るようになっていた。それに付き合わされてオレも毎日ヘロヘロだった。

 その一週間で唯は見違えるように走れるようになった。「風谷唯が戻ってきたぞ〜」と叫びながら、とても嬉しそうに走っていた。


 あの時は唯の日常を見て胸が熱くなった。オレとのトレーニング以外にも毎日毎日たくさん時間を掛けて行われている地味な地味な鍛錬を見て、この人はここまでやっている、こんなにやっているんだと知った。

「毎日やらないとすぐに動かなくなっちゃうんだ。今日の状態を明日保つだけでも結構大変なんだぜ。それを向上させてやろうとしてるんだから、これ位は必須なんだよ。大丈夫。休む時は全力で休んでるから」なんて笑っていた。


 麦草峠という峠で少し休憩している時だった。一頭のアサギマダラがふわふわと翔んできて唯の肩に舞い降りた。

 オレはそいつをつまんで唯の手のひらに乗せた。居心地が良かったのかな? そいつはそこにじっとたたずんでいた。


 オレが子供の頃に母さんに貰って手放したことがないサインペンを、ようやくその目的の為に使う時がきた。

 唯にマーキングしてみろってうながしたけど、こんな所に書けるわけないだろって怒られた。

 そりゃそうだよな。大きな紙に書くサインとは違う。唯の身体が不自由だという事をオレは忘れかけていた。オレが代わりに書いてやるよって言って書いた文字。


 あの時、唯が言った。

「こいつとまたどこかで会えたりするのかもな。おい! アサギマダラ! オレ達も頑張るからおまえも頑張れよ!」と。


「あの時の? おまえ、本当にあの時のアサギマダラなのか?」

 まぼろし?‥‥‥


 ここにあるのは信じられないような信じていた世界。

 あたりから色が消え、時が止まり、モノクロの静止画の中で、ボロボロになった羽をゆっくりと動かすアサギマダラ。スポットライトを浴びたように、そこだけが浮き上がっている。幻じゃ無い。


 あの時オレの書いた字が、今、ここに!


 風斗はその羽を優しく撫でた。

 本当にこんな事があるなんて。   

 おまえ、唯と一緒に頑張ったんだな。えらいぞ! 羽はボロボロだけど、おまえはオレが今まで見た蝶の中で、とびきり美しい一番の天使だ。

 オレはお前の生き様と、唯の生き様を、この目ではっきり見せてもらった。ありがとう!


 色んな思いが交錯した。唯が自転車選手として人生を全うした嬉しさと、唯がこの世にいなくなってしまった悲しさと、ただ一つ信じてきたFaithを確信した喜びと‥‥‥

 そして今、この瞬間に、唯とこのアサギマダラの魂を引き継いだ新しい何かが生まれたような気がした。



 その時、どこからか雪豹の神様のようなものが視界の中に現れ、かすかな声が聞こえた。


「私はお前に私の力を授ける事は出来なかった。けれど、お前とその仲間は自分達でそれを手に入れ、一番やりたかった事を成し遂げた。おめでとう。

 そして私がお前から奪わざるを得なかった物を自分達の手で取り戻した。いいものを見せてもらったよ。お前を選んで本当に良かった。ありがとう」


 風斗の短く刈られた髪が風でふわっとなびいた。

 その髪に太陽の光が反射して所々銀色に輝いている。右の頬に三本の爪痕のアザがある精悍な顔立ち。  

 まるで一頭の雪豹が静かに佇んでいるようだ。


 その澄んだ少し切長の目から一粒の真珠のような美しい涙がこぼれ落ちた事に気づいた者はいたであろうか?



 完

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Faith(フェイス) 風羽 @Fuko-K

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