第7話

 薄く切って塩につけたきゅうりをぎゅうぎゅうに手で絞る。指の隙間から水が流れてくるけれど、さっき喜美子きみこさんがやっていたほどではない。握力はそんなに弱くないはずなのだが、――みそらは内心で首をひねった。どうして喜美子さんに負けるんだろう、何か重要なコツでもあるんだろうか。

 今日も今日とて、「晩ごはんはうちで食べていきなさい」という喜美子さんの言葉から、みそらもキッチンで手伝うという流れだ。最初は二人だったキッチンも、おかあさんが仕事から戻ると、ぎゅっと距離を感じるようになった。

「みそらちゃんは今、どんな曲を勉強してるの?」

 その喜美子さんは、今度はふっくらとしたささみを手でちぎっている。繊維が柔らかく、今みてもつまみたいくらいにおいしそうだ。きゅうりといっしょにお醤油で絡めて棒々鶏風にするらしい。

「最近は日本歌曲が多いです。『からたちの花』とか、『城ヶ島の雨』とか」

「城ヶ島の雨!」

 喜美子さんはぱっと振り返って、声を弾ませた。

「ひばりちゃんも昔歌ってたわ。歌い出しも好きだけれど、途中で明るくなるのよね、わたし、あそこがとても好きで」

 喜美子さんが昭和の歌姫と呼ばれる美空ひばりの大ファンであることは、去年、プッチーニのアリア『歌に生き、愛に生き』を歌ったときに三谷みたにに教えてもらった。あの曲を日本語訳とはいえ、美空ひばりが歌っていたのを聞いたときはのけぞるほど驚いたものだ――思えばあの曲が、三谷に伴奏を正式に担当してもらうきっかけだった。

「歌って、歌ってるときは見たことあるけど、練習中はどんなことをしてるの?」

「そうですね……」

 みそらは残りのきゅうりを絞りきり、ガラスの器に移しながら言った。

「一人でやってるときは、歌詞の意味とかをもちろん調べます。意味だけじゃなくて、オペラでも歌曲でも、歌の時代背景とか、――たとえば『わたしの名前はミミ』のミミはパリの娼婦だったとか、そういうこととかも」

 そうなの、と純粋に驚く喜美子さんにそれを渡す。

「伴奏と合わせるまでにはそういう下調べも多いです。いっしょにやると、あっちのタイミングとこっちのタイミングとか、そういうすり合わせもあるし、たまに解釈違いもあるし、わたしの息が予定の長さまでもたないとか、息継ぎの場所を間違えたりとか――」

 思い返していると、どんどん練習風景が脳内に蘇ってくる。するとだんだんそのときの感情を思い返して――おもに腹が立ってくるのをみそらは自覚したが、口は止まらなかった。

「イタリア語やドイツ語のときも言われてたけど、最近は日本語だから余計に思うのか、意味わかんないって言われたりもするし。今の言葉、ちゃんとそれに聞こえないって」

「たとえば?」

「たとえば――ええと、そうだな、『からたちの花』に出てくる『垣根』が、ぜんぜん垣根の映像で見えないって言われて、あーはらたつと思いながら垣根を調べて、実家の近くで見たことあるしやっぱり記憶違いじゃなかったって思ったり――」

 そこまでまくしたてて、みそらははっとした。練習中の「できなさ」を、愚痴という形で思いっきり露呈してしまった。みそらはみるみる赤くなってしぼんだ。

「すみません、できてないのはわたしなんですけど……」

「いいのいいの」

 喜美子さんは歌うようにいなして、くすくすと笑った。

「そういうところ、和枝かずえちゃんと夕季はそっくりじゃないかしら」

「わたしですか? おかあさんじゃなくて?」

 奥で火加減を見ていた和枝さん――三谷のおかあさんが少し頓狂な声を上げる。みそらはそのお吸い物に入れられたエビに若干のシンパシーを感じてしまった。きみは赤くなっても食べられるだけましだよ。

「和枝ちゃんもよく作文の宿題とかでそんなこと言ってなかった? この文章だと風景が見えないとかなんとか」

「それよりもおかあさんの読み聞かせがもっと――」

 テンポのいい会話に、みそらは内心でどっちもどっちだとつぶやいた。誰が何を言ったにしろ、それが「三谷夕季ゆうき」をつくったんだと思えば納得するよなあ。しみじみそう思いながらリビングを見る。

 キッチンから追い出された男性陣はなぜか真剣にオセロをしていた。囲碁でも将棋でもチェスでもなく、オセロ。しかもその試合スピードがえらく速くて、みそらが見る限り四回戦まで進んでいるようだ。今のところ勝敗は五分と見た。

 ――きっかけはあの日の中高の友だちとの会話にあった、と、みそらはその日の遅くに聞いた。

「バガテルを覚えてなかったの、たんにあの時期、練習が嫌いだったからぽい」「なんでわかったの?」「さっき飲んでて言われた。『おまえ中二くらいの一時期、練習サボってうちでゲームしてたよな』って」「ゲームですか」「そういえば毎日行って負かしてたのは覚えてる」「覚えてるところの『それじゃない感』がすごいね」「でもそういう時期だろ。家族に練習の感想言われて、めんどくさいって思うの」

 だから、今度は聞いてもらってもいいかなと思って――そう続いた言葉が連れてきたのが、今日という景色だ。

 ふいに自分が遠くなる心地がする。さっき聞いた曲とそのときに見えたものが、そのまま目の前で展開されていくようだった。

 誰かがリビングにいる、キッチンからは食べ物のにおいがする、話し声がする、窓からは八月末の、傾いた日の光が差し込む――

 いつか見た景色だ。自分の中に大事にかかえている景色が、どの時代にも、どの国にも、そこにいる人のぶんだけきっとある。

「――風が変わったわね」

 喜美子さんが言った。開け放たれたリビングの大きな窓を見ると、網戸の手前にある紗のカーテンが内側に大きく膨らんでいる。

 湿気が肌をなでる。そして、セミの音がしない。

「閉めてきますね」

 オセロに興じる二人の横を通ってガラス窓に手をかけると、ほんのわずか、空気が唸るのが聞こえた。雷鳴だ。しばらくすると雨雲がこちらに流れてくるだろう。そんな水のにおいがする。――途端に視界が明瞭になるようだった。

 篠突く雨。そこに映るあらゆる色、そしてにおい、湿度、ふれる温度。一瞬のうちに自分の世界が音と色に染まった時間の渦に飲み込まれる。――『雨の庭』の中に肌をひたしたように。

 見ている景色がまるごと入れ替わるようだった。惹かれるように言葉が唇に乗る。

「――ますます音楽というのは、律動づけられた色彩と時間だと思うようになった」

「ドビュッシーの手紙?」

 近くで声がして、みそらはびっくりして振り返った。先に目に入ったのは長考に入ったおとうさんの姿だったけれど、体を三谷の正面に向けると、ああ、三谷のにおいだな、と思う。抱きしめたくなるのをこらえて、みそらは言った。

「――知ってたの?」

「うん、先生に」

 カーテンの合わせ目をきれいに整えながら言われた返答を聞いて、それもそうか、と思う。

「ますます音楽というのは、律動づけられた色彩と時間からできていると思うようになった」――これは、ドビュッシーが友人に宛てて書いた手紙の中に綴られていた言葉だった。

 合間に少し調べただけだったので手紙の背景はまだよくわからないけれど、その手紙を受け取ったのがもし自分でも共感できるのではないかと思う。――世界がそうしてここにあることを、みそらはもう知っている。

「そういえば」と三谷が言った。

「『雨の庭』だけど、あの中にフランスの童謡が使われてるって話、したっけ」

「えっ、初耳」

「これは葉子ようこ先生から聞いたんだけど、ふたつあって、片方が――」

 窓の外が暗くなってくる。けれどやがて訪れる時間は一色ではないだろう。世界を映し出す粒は極彩色の響きで落ちてくる。きっとそういう、雨がふる――


[了]

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色彩と律動 山本しお梨 @yamamoto_shiori

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