再会の歌声


 それはいつか、麗二が彼女と出会った場所だった。あの時麗二は、カモメの声に導かれるようにしてこの場所に辿り着き、そこで倒れている彼女を見つけたのだった。

 そして今、目の前にあるのはあの時と同じような光景だった。空を舞う無数のカモメ。その下で海に向かって歌っている、漆黒の髪の女性。その姿は、どう見ても――。

「……シオン?」

 その女性の後ろに立ち、麗二はそっと声をかけた。歌がぴたりと止み、それが合図となったかのように、カモメがばさばさと音を立てて飛び立っていく。急に静かになった浜辺の中で、波の音だけが辺りに響く。

 不意に女性が振り返った。長い漆黒の髪を翻し、海と同じ色の瞳で麗二を見つめる。その瞬間、麗二は呼吸が止まったかと思った。

「……!」

 あの歌を聞いた時から、もしや、とは思っていた。だけど信じられなかった。そんな奇跡のようなことがあるはずがない。

 だけど今、自分の目の前にいる女性は、紛れもなく、かつて麗二が愛した彼女の姿だった。

「シオン!」

 もう何も迷うことはなかった。麗二はシオンの元に駆け寄ると、力強くその身体を抱き締めた。白い肌から伝わるその温もりは、彼女が確かにここに生きていることを感じさせた。

「麗二……」

 シオンが呟いた。自分の名前を呼ぶ、懐かしいその声。瞳から涙があふれ出てきたが、麗二はそれを拭おうともせずに、痛いほどシオンを抱き締めた。

 しばらくして、麗二はようやくシオンを離すと、改めてシオンに向き直った。彼女が身につけている翠色のワンピースは、いつか彼女の部屋で見た、あの〈鰭〉と同じ色だった。そしてその下から見えるのは、人間の足であった。

 麗二は目を細めてシオンの姿を見つめたが、やがて視線を落として言った。

「シオン。僕は……君に謝らなければならない。本当は最初から気づいていたんだ。君が人魚だということに……。

 それなのに、僕はそのことに気づかない振りをした。知らなければ……あの女の幻影に捕らわれることなく、君を愛することができると思っていた」

 シオンは何も言わなかった。麗二は続けた。

「だけど……僕は独りよがりだった。僕が人間としての君を愛するということは、人魚としての君を否定することだ。そのことで君がどれほど辛い思いをするかなんて、少しも考えてはいなかったんだ……。

 だけど、たとえ人間の姿をしていても君は人魚だ。魚と共に生き、海を愛する人魚だ。その事実から目を背けて、君を愛しているなどと、どうして言える?」

 シオンはそっと目を伏せた。麗二はシオンの方に一歩踏み出すと、一気に言った。

「だけど、今は違う! 僕は全てを知った上で、それでも君を愛していると気づいた。君が誰であろうと、僕にはどうだっていい。かつてこれと同じことを君に言ったけど、あの時とは違う。今なら僕は、君が人魚であっても、同じように君を愛すると言える。だから……」

 麗二はシオンの手を取ると、その瞳をそっと覗き込むようにして言った。

「どうか、僕を許してくれないか? シオン……」

 シオンは何も言わず、麗二の顔をじっと見返した。懇願するように自分を見つめる、まっすぐな灰色の瞳。

「……私、人間になって、わかったことがあるの」

 不意にシオンが言った。麗二は瞬きをしてシオンを見返した。

「私ずっと、人間は暖かくて、優しい生き物だって思ってた。だから、もし私が人魚だってわかっても、みんな今までと同じように接してくれると思ってた……」

 シオンがそこで言葉を切った。沈黙を埋めるように波が浜辺に打ち寄せ、音を立ててまた引いていく。

「……だけど、百合さんからお母さんの話を聞いて、そうじゃないってことを知った」シオンは寂しげに続けた。「私が人魚だって知られたら、この世界で生きることはできない。だから私は、もう二度と海の世界を思い出すことも、お母さんのことを思い出すこともなく、元の自分とは違う人間として生きていくしかないんだって、そう思おうとした……」

 シオンはそこで言葉を切った。寂しげな表情から一転、口元に穏やかな笑みを浮かべている。

「でもね、違ったの。たとえ生きる世界が変わっても、私は私のままで生きていくことができる。知らないことがあるのなら、誰かに教えてもらえばいい。歩くことができないなら、誰かに支えてもらえばいい。そうやって何度も助けられて、私は今日まで生きることができた。

 だけど私は、人魚だったあの頃から何も変わっていない。今でも海の世界を愛しているし、この歌をみんなに届けるために、これからも歌い続けたいと思う。

 姿が変わっても、私は私……。それを教えてくれたのは、麗二、あなたよ」

 シオンは麗二の顔を見上げた。柔らかな微笑みを浮かべ、愛おしむように目を細める。

「あなたが私を受け入れてくれたあの日から、あなたはずっと私を愛してくれていた。それに気づくことができたから、私もこうして、もう一度あなたに会うことができた……」

 シオンの瞳に涙が滲む。頬を伝うそれを拭おうともせずに、シオンは言った。

「……麗二、私も、あなたのことを愛しているわ」

 もうそれ以上、言葉はいらなかった。麗二はシオンを抱き寄せると、静かに唇を重ねた。


 柔らかな太陽の光を浴びて、明るく煌めく朝の海。

 それはまるで、長い時を経て結ばれた二人を、暖かく祝福しているかのようだった。

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深海の歌姫 瑞樹(小原瑞樹) @MizukiOhara

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