終章 歌に導かれ

歳月は過ぎ

 柔らかな日差しが降り注ぐ朝の浜辺を、麗二は一人歩いていた。海を眺めては時折立ち止まり、水平線の彼方を見つめ、そしてまた歩き出す。そんなことを繰り返して、もうどれだけの日々が過ぎたことだろう。

 あの後、父は間もなく帰国し、その日のうちに記者会見を開いた。世間からの非難は相当なものだったが、それでも何とか経営を立て直し、元の状態を取り戻しつつある。

 屋敷の方も、警察の捜査が終わったことで、最近ようやく落ち着いてきたところだ。鳩崎を始め、使用人達に大きな怪我はなかったらしい。物損の方はかなりの被害があったらしいが、弁償してもらうつもりはなかった。もうこれ以上、あの連中に関わりたくはなかったからだ。暇を出した使用人も戻り始め、閑散とした屋敷にも少しずつ賑わいが戻りつつある。

 百合は、今度結婚することになった。相手は勤め先の社長だそうだ。海外で結婚式を挙げるそうで、今はその準備に忙しいらしい。自分にも何か手伝わせようとしているようだけど、今のところ上手くかわせている。

 そんなわけで、麗二は元の穏やかな日常を取り戻しつつあった。朝は浜辺を散歩し、昼は会社を手伝い、夜は屋敷に戻って鳩崎達と話をする。そんな穏やかで、変わりのない日常を――。

 だけど、何かが足りなかった。それが何なのかは気づいていた。麗二は足を止めると、目を細めて水平線の方を見つめた。

 かつて、僕の隣には一人の女性がいた。漆黒の長い髪を持つ、美しい女性が――。

 僕は彼女と並んで歩き、こうして海を眺めていた。何を話すわけでもない。ただ二人並んで、じっと海を眺めていた。そんな何でもない時間が、何よりも、大切だった――。

 だけど僕は、彼女を失ってしまった。彼女を愛していながら、自分の本当の気持ちに気づくことができなかった。彼女が人魚で、その母親が僕の母の命を奪ったという事実が、僕の本当の気持ちを覆い隠してしまった。僕は彼女を憎んでなどいなかったのに、まるで彼女が母の命を奪ったように、彼女に辛く当たってしまった。そのために彼女は、僕の前から永久に消え去ることになった――。

 麗二は深く首を垂れた。どれだけ悔やんでも、彼女はもう二度と戻らない。それはわかっているはずなのに、どうしても悔やまずにはいられなかった。

 しばらく足元の砂浜を見つめてから、麗二は再び顔を上げた。潮風がふわりと頬を撫でる。その冷たさを感じながら、麗二はそっと目を閉じた。

 彼女は歌うことが好きだった。いつか彼女が海に向かって歌っていた、彼女の母親も歌っていたあの歌が、どこからか聞こえてくるかのようだった。麗二は目を閉じたまま、静かにその歌に思いを馳せた。

 その時、ふと違和感を覚え、麗二は目を開けて辺りを見回した。自分の記憶の中にあるその歌が、どこかから聞こえてきたような気がしたのだ。

 そんなはずはない――。麗二はそう思いながらも、もう一度耳を澄ませてその歌を聞こうとした。だが、聞こえてくるのは打ち寄せる波の音ばかりで、歌はどこからも聞こえない。やはり空耳だったようだ。麗二は落胆して息をつくと、来た道を引き返そうとした。

 その時だった。今度ははっきりと、あの歌が再び麗二の耳に聞こえてきた。さっきよりも伸びやかなその声は、まるで麗二を引き留めようとしているかのように、力強く麗二の耳に届いた。それは決して空耳ではなく、紛れもなく、今ここにいる誰かが歌っているものだった。

 麗二ははっとして振り返った。忘れもしないその歌は、麗二が今日までずっと求め続けたものだ。麗二は夢中で声の方に向かって駆け出した。

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