第12話 6分の1

 けたたましく鳴り響くサイレンの音と激しく明滅する赫い照明の下で、唯一の当事者であり……自身の生命の危機に瀕した男は、薄く笑いながら己が最期の瞬間を冷徹に考察していた。


 そして時間軸と空間軸は、少しだけ遡行し始める。


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「日本初の月面着陸計画の立ち上げから、もう15年が経過したのか……」


 緊急事態が発生したことを示す警報が大きく表示されたコンソールの液晶画面を凝視しながら石上陽一いしがみよういちは、ぼんやりと他人事のように独り言ちた。


 それは15年前に、突如として立ち上がったプロジェクトであった。


『日本人の日本人による日本人のための月面踏破計画』


 歴代最長の長期政権を築き上げた内閣総理大臣が、政権末期にぶち上げた人気取りのためだけの政策であった筈だった。

 その年に世界を蹂躙した新型感染症の影響下で全世界の都市は封鎖され、全世界の物流もほぼ停止し、世界的な大恐慌が嵐のように吹き荒れる中で、日本の経済も壊滅的な打撃を受けた。

その直後に発表された泡沫的な施策、誰しもがそう考えていた筈だ。

 この状況下で誰が税金の無駄遣いを看過するのだ、金喰い虫の宇宙開発事業など止めてしまえ。

 日本の識者や、政権に肯定的な新聞社すら、ヒステリックに計画の中止を求めて叫び声を上げていた。

 しかしその計画を救うが如く、一本の論文が発表された。


『低重力下における新薬の開発とその効能』


 論文の起案者は石上弦一郎いしがみげんいちろう医学博士、今この時に月面着陸船の中で、茫然自失の体となっている陽一の父であった。

 石上博士の論文によると、新型感染症の特効薬となり得る『NA-h抗体』と『Suz-Rn受容体』を合成し…純度99.999999%で均質化するために必要な重力が、約0.16669Gであるとの説が…日本最高速の超電子計算機『芙蓉峰』ふようほうの弾き出した演算の結果において立証された。


『日本人の薬学論文が世界に認められ、世界最速の日本製実用電子計算機が、新薬の解析に一役買った』


 閉塞感に満ち溢れた日本国内において、このニュースは人々の内省的な愛国心を大いに刺激し、更なる日本製のを待ち望んだ。

 それがオールジャパンによる宇宙飛行および、世界初の月面での新薬製造だったのだ。

 常時0.16669Gの低重力環境を保持可能な場所が、地球から最も近しい位置では月面と云う環境でしかなかったからだ。


 それからの15年は、比喩でも何でもなく地獄の日々だった。

 新型感染症の猛威は止まることを知らず、新薬開発の前段階で有効だと考えられていた、弱毒化されていた筈の某国製ワクチンが、アンプル内で突然変異し強毒ウィルスと化して、新規の感染源として世界中の老若男女に牙を剥いた。

 ワクチンの暴走前は世界人口の10%弱である5億人が、新型感染症の犠牲となっていた。

 そしてワクチンの暴走後に更なる暴威が吹き荒れた結果、世界人口は往時の30%以下の20億人へと減じてしまった。

 その中には新型感染症の特効薬を開発していた、石上博士も含まれていた。

 対処法の存在しない新型感染症だけに、ウィルスは貴賤の区別も……有能無能の区別も美醜で区別されることもなく、全人類を広く遍く平等にその顎で捕食して行ったのだ。


 地球人類に残された最後の希望、それこそが日本で開発中のロケットと月面着陸船であり……月面での新薬製造と云うミッションであった。

 そしてそのミッションに指名アサインされた人物こそが、故石上博士の遺児であり、父親の跡を継ぐように医師となった陽一であった。

 父の遺志を一人息子が引き継ぐ……そんな三文芝居でも上演出来ないような台本を、世界に残された人々は大歓声を以て迎え入れた。


 そして紆余曲折を挟みながらも、新薬の開発とロケットと月面着陸船の開発……そして陽一の宇宙飛行士としての育成は、何とか人類が滅亡する前に完了した。

 後は月面にて最終行程である新薬の均質化を、陽一が月面着陸船『たけとり』で履行するだけとなっていた。


 2036年4月6日……人類の運命を決定するH4ロケットの打ち上げ日の前日、陽一は打ち上げ基地内の宿舎で数ヶ月ぶりに妻の石上皐月いしがみさつきと対面していた。

 3年前に一人娘の石上知世いしがみちせを新型感染症で喪ってからは、石上陽一は殆どの時間を新薬の開発と、宇宙飛行への訓練に費やしていたからだ。

 石上皐月はニコリと笑うと、石上陽一へ包装紙に包まれた、高級ブランドの小箱を差し出す。


「お誕生日おめでとう……陽一さん。

明日は、世界を救う出発の日……頑張って成功して下さい…………」


 差し出された箱を受け取った陽一は、自身の妻に笑顔の一つも見せずに告げる。


「あぁ……ありがとう。

それでは明日の発射に障るといけないから、僕はそろそろ部屋に引き上げるよ。

帰還したらまた会おう」


 立ち上がり自室へと向かう陽一の背に、皐月は静かに語りかける。


「あなたは、まだ私のことを許していないのね。

知世が死んだのは私の所為だと……知世の代わりに私が死ねば良かったと思っているのでしょう?」


 その声に振り返った陽一は、皐月の眼に溜まる涙を見た。


「何をバカなことを言ってるんだ、悪いが……もう戻るぞ」


 バタンと閉じられた扉の内側で、皐月の眼に溜まった涙が目尻からポタリと流れ落ちた。


 そして翌朝の発射当日、陽一は普段通りに朝のルーティンを終えて発射場に向かう。

 発射場のロッカールームで、JASA日本航空宇宙省担当者の確認の元で宇宙服に着替える。

 その時、陽一のフライトジャケットのポケットから小さな箱が転がり落ちた。

 昨夜、皐月から手渡された誕生日プレゼントだった。

 JASAの担当者はニヤリと笑い、陽一を揶揄う。


「昨夜は奥さんと熱い夜を過ごされたんですね、石上さんの奥様はお綺麗だから……羨ましいッスよ」


 若い担当者に苦笑いを返すと、陽一は彼に告げた。


「もう出発だから、君がそれを貰っておいてくれないか?」


 陽一の声に担当者は、ブンブンと首を振る。


「そんなこと出来ないッスよ、じゃあ……これぐらいの軽さならロケットの推進力に影響も出ないんで、宇宙服のポーチに入れときますね。

奥さん本人は無理だけど、奥さんの想いがこもったプレゼントは月面へ連れて行ってあげてくださいよ」


 やれやれと首を振りながら、陽一は特に断る理由もないので彼の行為を放っておいた。


 そして遂に打ち上げの時刻が到来し、H4ロケットは予定通りに宇宙へと到達した。

 後は月面着陸船で月面へと降り立ち、0.16669Gの重力下で新薬原料の均質化を行う筈だったのだが。


『何故……墜ちているんだ?

スラスターもジャイロも……いや、着陸船の機能は完全に停止しているな。

何があった?何をすれば良いんだ?』


 冷静な手つきで装置を再起動しようが、コンソールからどのような指示を与えようと、『たけとり』は何の反応も示さない。

 月面への墜落まで後3分を切った時、陽一は発射前の若い担当者とのやり取りを思い出す。


「あぁ……このポケットにプレゼントが入っていたか。

最後の最後まで中身を知らずに死ぬのはイヤな話だもんな………」


 宇宙服のポーチから小箱を取り出すと、陽一は包装紙を破り捨てた。

 苦労しながらも箱を取り出し、中身を確認するためにバイザーを上げた陽一の眼に、折り畳まれた白い紙が映った。


「何だ……?

手紙か…………?」


 陽一が手紙を開くと、そこには妻である皐月の文字が書き連ねられていた。


『陽一さん


あなたのことだから、この箱を昨夜の上着のポケットに入れて…宇宙服に着替えるまで忘れているのじゃないかしら?


そうすれば宇宙服に着替える時のサポート役の人から、『奥さんからのプレゼントも月面まで連れて行ってあげて下さい』などと言われて……宇宙服のポーチにでも入れられるかもしれないわね。


もし、そうなったら……賭けは私の勝ちよ。


今……あなたが月面着陸船の中に居て、かなりの機材が操作不能になっているとすれば、それは私が仕込んだ人為的なトラブルなの。


もし……あなたが全てを諦めて、プレゼントのことを思い出し、宇宙服のポーチからこの箱を出したとしたら…残り時間は5分を切っている筈。


『たけとり』が操作不能になった理由、それはこの箱の中に潜ませてある『時限式宇宙線ミュオン発生ビーコン』の所為なのよ。


私はもう疲れ果ててしまったわ、知世を喪い……あなたの心も失ってしまった世界で生きることに。


知世が亡くなった時に、あなたは言ったわね。


『知世ではなく、君が死ねば良かったのに』


そう、私はそんなこと口に出したりはしないけれど……私も同じことを考えていたのよ。


皮肉ね、あれだけ不仲で……知世が居ることだけが理由で繋がっていた夫婦が、愛娘である知世を喪って、初めて同じ考えを持てるようになったなんて。


知世の居ない世界なんてもう要らない、そして知世の眠る世界にあなたの存在なんて要らない。


だからあなたは世界中の人々から、計画の失敗を罵られながら……月面で孤独に死んでちょうだい。


私はあなたの死を嘆き悲しむ良い妻を演じながら、知世と一緒に安らかな眠りに就くわ。


さようなら………陽一さん』


 皐月の告白の手紙を読み終えた陽一は、手紙を投げ捨て手中の箱を開封する。

 購入した際には高級ブランドの小物が収まっていた筈の、真ん中の部分に赤く明滅する光を放つ小さな装置が視認できた。

 これが皐月の言っていた『時限式宇宙線ミュオン発生ビーコン』なのだろう、これをつまみ出した陽一は踵で思い切り踏み潰す。

 そして空っぽになった高級ブランドのロゴが入った箱を、破壊された小さな装置の上でもう一度踏み潰した。


「皐月め……最後まで俺には優しくない……俺がこのブランドを嫌いだって……知ってるくせに……な……………」


 静かに眼を瞑り、苦笑いを浮かべた陽一の搭乗する月面着陸船『たけとり』は、その30秒後に月面への着陸に失敗し…… 約0.16669Gの重力に抗う術もなく、静かにそしてゆっくりと圧壊した。


 新型感染症の最終対抗策であった新薬の均質化ミッションが失敗に終わったことで、地球人類は滅亡の道を速やかにかつ確実に歩み出した。


 皮肉にも発射前にJASAの若きスタッフが陽一に言った、は……完璧に叶えられる結果となったのである。



【Fly Me To The Moon:完】



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 作中に登場する『宇宙線ミュオン』とは、素粒子のなかでも電荷を持つレプトン族の中で電子に次いで大きな質量を持つものである(電子の約207倍の質量)。

 宇宙線ミュオンに直接曝露すると、電子機器等が不具合を起こし機能停止を引き起こすことは作中にある通りの現象であると云える。

 ミュオンは不安定粒子であり、発生後2.2マイクロ秒後には崩壊してしまう。

 そして人工的にミュオンを発生させる方法だが、加速器を用い高速陽子ビームをを作り出し、標的に高速陽子ビームを照射することで作成し収集しなければならない。

 ミュオンを発生させるために必要なエネルギーは、0.3GeV以上が必要であり……2021年現在では世界に5カ所存在している加速器を用いる必要がある。


 作中に登場するような超小型加速器によるミュオン発生装置などと云う代物は、15年後の2036年であったとしても実現不可能なものであると想定され……素粒子を識る読者諸兄から見ると、噴飯物の創作であると思われるだろうが……当方はゴリゴリの文系脳しか持ち合わせていないため、その辺りについて激しくツッコミを入れないよう伏して懇願する次第である。



2021.6.3

   澤田啓 拝

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Theophrastus von Hohenheim & Veninum Lupinum 澤田啓 @Kei_Sawada4247

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