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 絵を失ったことは、もちろんちよさんをひどく悲しませた。

 しかし一度離れてしまうと、ベンとのことは本当にただの夢だったような、ひどく不確かなものに思えてくるのだった。戦中戦後の現実の世界は彼女を翻弄し、ついていくだけで精一杯だった。過ぎた夢のことばかり考えてはいられない。

 彼女は結局、ドイツ人のベンヤミンという青年と結婚することはなく、父の紹介で出会った日本人男性に嫁いだ。

 平凡だが、幸せな日々が過ぎていった。


 月日が経ち、少女だったちよさんは、三人の子供を持つ母親になった。ベンのことを思い出す機会もめっきり減っていた。

 ある日、ちよさんは父母の住む家をひとりで訪ねた。すると、栗色の髪と青い目をした西洋人男性が、父と親しげにテーブルを囲んでいた。その顔を見た途端、彼女の脳裏に、もう長いこと記憶の片隅にしまい込まれていたベンの端正な顔が閃いた。

「はじめまして。アンゲルス・フィッシャーといいます。ドイツから来ました」

 通訳を仕事にしていたことがあるというフィッシャー氏は、流暢な日本語で挨拶をした。物腰の柔らかな中年男性で、商社に勤める父とは仕事を通じて知り合ったのだという。

「私が日本に興味を持ったのは、同盟のこともありますけども、大方は先祖の影響でしてね。私の父の、大叔父にあたる人物なのですが」

 フィッシャー氏によれば、彼は日独の国交が開始された1860年代当初から日本に強い関心を持ち、日本美術研究の先駆者のひとりとして名を成した人物だという。彼がその話を始めた瞬間から、ちよさんの胸中には、なにか予感のようなものが渦巻いていた。

「その人はなかなか絵心のある人で、日本人をモデルにしたと思しき絵を何点か残しています。それが必ず同じ女性の絵でね。着物を着て、黒い髪に黄色い髪飾りをつけているんです。子供だった父に語ったところによれば、彼女は『婚約者』なんだとか」

 フィッシャー氏は軽い笑い声をたてた。「いくら領主の家柄でも、あの時代に未婚の日本人女性と出会う機会などなかったはずですから、これは彼のジョークでしょうね。それとも生涯独身だった彼の頭の中にだけ存在した、理想の女性だったのか」

 いつの間にかちよさんの両手は震えていた。ただならぬ様子に気付いたのだろう、父親とフィッシャー氏が心配そうな声をかけてくる。はっとして、彼女はフィッシャー氏に食いつくような勢いでこう尋ねた。

「その方のお名前は、ベンヤミン・シュタウフェンベルクとおっしゃるのではありませんか?」

 フィッシャー氏は「これは驚いた! よくご存じですね」と声をあげた。

 その瞬間ちよさんの胸に、夜の森の冷たい風が、ベンの優しい青い瞳が、差し伸べられた手の大きくて暖かかったことが、次々に蘇った。

 彼女は居ても立ってもいられなくなり、その場から慌てて辞すると、家の裏手で顔を伏せて、長いこと泣いた。




 今、私の手元には、祖母が大切にしていたあの一枚の絵がある。彼女がフィッシャー氏に譲ってもらった、ベンヤミン・シュタウフェンベルク氏の作品である。

 それは少女のバストショットで、黒い髪に黄色いリボンを飾り、縞模様の着物を着た日本人の女の子が、幼さの残る顔で微笑んでいる。とても愛らしく瑞々しい肖像画である。

 そしてそのキャンバスの裏には、少したどたどしい平仮名で「ちよ」と書かれている。

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ちよ 尾八原ジュージ @zi-yon

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