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 こうしてちよさんは毎晩、ベン(本当はベンヤミンというのだそうだが)と夢の中で待ち合わせるようになった。

 会話の中で彼がドイツ人だと知って、ちよさんは遅まきながらほっとした。一方で、もし彼が敵国の人間であっても嫌いになれなかったかもしれない、と考えもした。

 ベンは20歳で、ちよさんを女性というより、可愛らしい妹のように見ていたらしい。背が低く童顔な日本人の少女は、実年齢以上に幼く見られたに違いない。青年の態度の端々には、年少者へのいたわりが感じられた。

「暗いし寒いから、本当は城にお連れしたいんですが」

 ベンは何度もそう言って残念そうな顔をした。なぜかふたりが城に向かっていくと、橋に差し掛かった辺りでちよさんが目を覚ましてしまうのだ。ベンからすると、彼女が突然消えてしまうように見えるのだという。

 しかたなくふたりは森の中で延々ととりとめのない話をしたり、地面に絵を描いたりして、ちよさんの目が自然に覚めるまで過ごした。

「ベンさんは絵が上手ね」

「ほかに特技がなくって。以前、ここからの景色を描いたこともあるんですが、あまりいい出来ではありませんでした」

 自分は冷や飯食いなのだと彼は笑った。家の役に立つほどの才覚もなく、優秀な兄たちの下で安穏と日々を過ごしているのだという。邪険にされているというほどではないが、家族の元にいるとなんだか息苦しくなることがある。そんなときは夜に馬を出して、この辺りを乗り回していたのだと教えてくれた。

「でも、そうしていたおかげでちよさんに会えましたから」

 にこやかにそう言われて、ちよさんは思わず顔が熱くなった。


 次の朝、目を覚ましたちよさんは、ふと思いついて例の絵を注意深く眺めた。そしてその右下に「B Stauchenberg」の文字を見つけたとき、彼女の胸は躍った。

 この絵はベンが描いたものなのだ。彼は実在する人物に違いない。今は遠く離れていても、そのうち本当に会うことができるのかもしれない。

 よく見ると騎馬の人物の周囲、特に白馬の背中あたりには、何度も塗りつぶしたような跡があった。その夜、ちよさんはベンに会うと、彼の絵を褒めた。

「あなたの絵を見たの。とても素敵よ。すばらしいと思うわ」

「本当ですか?」

 ベンの表情は見るからに明るくなった。

「ちよさんがそういうなら、もう一度この辺りの絵を描いてみようかな。貴女のことも絵に描いていいですか?」

 でも、上手に描けないかもしれないな、と彼は苦笑いした。

「女性を描いたことがないから緊張して、なかなかうまくいかないかもしれません」

「そうみたい。だってベンさんの絵、何度も塗りつぶした跡があったもの」

「そうですか? それはすみません」

 ベンの申し訳なさそうな顔がおかしくて、ちよさんは小鳥がさえずるように笑った。


 ベンはちよさんが地面に書く平仮名を面白がった。日本語を知らない彼からすると、それらはとても不思議な形のものに見えるらしかった。

「日本の学校で一番最初に習うのよ」

 そう教えると、ベンはひどく感心した顔を見せた。彼は日本のことも東京のことも、名前を聞いたことすらないと言った。なんと浮世離れした人だろう、とちよさんは思ったが、口には出さなかった。

「ちよさんのお国の方が、きっと教育の水準が高いのです」

 ベンはそう言って彼女の母国を褒めたが、実際彼が日本を知らないのも無理はなかった。彼が若年時代を過ごした頃、まだ日本は鎖国を解いておらず、東京に至ってはまだその名前すらなかったのだ。

 二人の生きる時代は大きくずれていた。そのことを、ちよさんはずっと後まで知ることがなかった。

 外国人が平仮名を書くのは非常に難しいというが、ベンは絵が得意なせいだろう、すぐに「ちよ」という文字の書き方を覚えた。

「いつか私がトウキョウに行って言葉が通じなかったら、これを書いて人に見せますね。そしたらちよさんを探せるかもしれません」

「ベンさんったら。ちよなんて名前、結構あるのよ」

 ちよさんがおかしくなって笑うと、ベンも「そうですね、ベンヤミンもいっぱいいます」と一緒に笑った。

「でも、何にもわからないよりきっとマシです。本当にいつか貴女にたどりつけるかも」

 そう付け加えて、ベンはちよさんを、宝石のような瞳で見つめた。

 やっぱりこのひとは美しい、とちよさんは思った。


 戦況が悪化し、日常がつましく、険しくなるほど、ちよさんは夢に没頭していった。少女にとって現実はあまりに厳しく、そこから逃れて飛び込める場所は彼女を慰めた。

 しかし、それはいつまでも続かなかった。東京への空襲が激化する中で、ちよさんも地方へ疎開することが決まったのだ。幅1メートル以上もある大きな絵を持っていくことなど、とてもできない。

「絵と離れてしまったら、ベンさんの夢も見られなくなってしまう気がするの。こうして会えるのも、あと数回かもしれない」

 夢の中でそう告白した後、ちよさんは我慢していた涙をついこぼしてしまった。一旦泣き始めると、涙はなかなか止まらなかった。

 ベンは彼女の肩を抱いて、「大丈夫。戦争はいつか終わります」と優しく言った。

「あなたもきっと家に帰れます。そしたらまた会えるでしょう。もしもあなたが会いに来られないのなら、私が会いに行きます。だから泣かないで」

 ベンの手は暖かかった。たとえ泣き止ませるために言った嘘だとしても、ちよさんにはそれが嬉しかった。

 いよいよ疎開先へ発つ日の前日、ちよさんは普段よりも念入りに(といってもモンペ姿に変わりはないが)身づくろいをして布団に入った。眠れなかったらどうしようと心配していたが、気が付くと周囲はいつものように木々に囲まれていた。

 ベンは人待ち顔でそこに立っていた。ちよさんは彼に駆け寄ると、一世一代の覚悟を込めて、

「いつかまたあなたに会えるようになったら、私をお嫁さんにしてくれませんか」

 と言った。

 ベンは初めて会ったときと同じくらい驚いた顔をしたが、すぐに見慣れた笑顔になった。

「私、ちよさんに出会う前は自分のことが嫌いでした。何もできない無能な男だと思っていた。でも今は違います」

 そう言いながら、彼はちよさんの前に跪いて手をとった。

「ありがとう。また会えたとき、ちよさんの気持ちが変わっていなかったら、どうか私のお嫁さんになってください」

 それはまるで子供同士のままごとのように、なんの担保もない、不確かな約束だった。それでもちよさんには何より意味のあることだった。


 翌日、ちよさんは疎開先へと旅立った。

 思った通り、絵のないところで寝てもあの森に行くことはできず、ベンに会うこともできなかった。それでもあの約束があるのなら、今は会えなくても大丈夫だと耐えることができた。

 しかしちよさんが再び絵を見ることはなかった。生家が空襲で焼けたのだ。蔵に戻して保管しておいた絵も、建物と共に跡形もなく燃え尽きてしまった。

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